第105話 27歳
彼女は自分が価値を認めたもののためなら、本当に手段を選ばない人間であった。
才能というのはそれを振るうために必要な、人格の破綻さえ許容する。
なのでほしいと思ったものは、とにかくなんとしてでも手に入れてきた。
おおよそは金で解決するもので、金で解決しそうにないことも、金を払えば解決してくれる者がいたものだ。
そして彼女は、ペンを置いた。
役割を終えた。
満たされたと同時に、空っぽになった。
ずっと感じてはいたが、そうか、このために自分は生きてきたのか、とはっきり分かる。
おそらく普通の人間には、自分の役割は分からないのだろう。それを見つけるために生きている。
その意味では良くも悪くも、自分は特別な人間だったのだ。
「残りの時間はボーナスステージ?」
大きくなったお腹を撫でて、その鼓動を感じる。
赤ん坊は自分の中で、音楽を感じている。
胎教が英才教育となるなら、この子はどうやって生まれ、そして育っていくのだろう。
己の役割は果たした。
これからは自分だけの時間だ。
そしてイリヤは自分の部屋から、白石家の部屋へと入る。
合鍵所持のイリヤではあるが、この部屋の隣には普通に、護衛となるSPが一人は詰めているのだ。
大袈裟だとは思わない。自分にだってこれまでに、多くの脅迫状などが送られてきた。
イリヤにはないが政治的な発言をしたミュージシャンに、爆発物が送られてきた例はある。
なのでむしろツインズに対しては、警戒するように言ってあるのだが。
大介がトレーニングをするための機材を置いた一角に、的になる板が置かれていた。
それに対して椿は、鉄製のナイフらしき物を投げている、とイリヤには見えた。
「これは棒手裏剣。手首から先の動きだけで投げられるし、刺さらなくても目の近くに当てたら、相手を短時間無効化出来る」
そう言う椿は、防弾ジャケットを着てさらに、腰にナイフまで差している。
ニューヨークでもかなり暑い季節なのだが、もちろん安全を優先するということだろう。。
ナイフをスラリと抜き放つと、踊るようにそれを回転させた。
「日本ならこれと、催涙スプレーとスタンガンで、どうにでも出来たんだけど」
この双子は本当に物騒だな、とアメリカの物騒さに慣れているイリヤでさえ思う。
ただアメリカは銃社会なので、話が変わってくる。
ニューヨークは法整備上は、アメリカでも最も銃規制がされている。
だが実際にそれが機能しているかというと、いくらでも抜け道がある。
基本的に拳銃しか手に入らないし、また州外の出身者がこれを手に入れることも出来ない。
それでも州外から普通に車で持ち込めば、よほど怪しくない限り、拳銃も長銃も手に入るのだ。
アメリカという国家の限界がある。
開拓時代の名残で、自衛権の意識が強すぎる。
そしてここに利権もあるため、よほどのことがない限り、こんな都市部のニューヨークでも、銃を完全になくすことは出来ない。
実際に強盗などに遭った場合に、銃を所持していたため犯人を殺して助かった例などもある。
ただ拳銃の射程は、実際のところ5m程度。
10mも離れると狙って当てることは不可能になるし、20mも離れるとよほど訓練していないと、動いているものには当たらない。
「実際のところ遮蔽物さえあれば、あたしたちには当たらないと思う」
無茶苦茶なことを言う椿であるが、実感としては正しいのだろう。
「大介君もよけられるんじゃない?」
「無茶を言うな」
拳銃の弾は一秒で200m以上も進む。
ひょっとしたら目に見えるかもしれないが、反応しても避けられない。
大介も人間である。
本日の予定は大介は夕方からが試合。
イリヤはスコアを会社に届ける。
ネットと電話で充分では、というのはデジタルな人間の言うことだ。
実際のところ音楽は、人間の生命力の共鳴だ。
直接に会って話すこと、そして表情や声の調子など、アナログなところから芸術は生み出される。
「じゃああたしが買い物するから、イリヤも一緒に乗ってく?」
「ボディガード付きでね」
イリヤとしては行動が制限されることは、あまり好きなことではない。
音楽は自由だ。だから自分が自由でないと生まれない。
ただどうせなら、という話は分かる。
大介の場合はマネージャーが迎えに来て、それからスタジアムに向かう。
出かけるのは丁度同じぐらいになるか。
桜と昇馬はお留守番だ。
さすがにこのマンションにいる限り、ミサイルでも撃たれない限りは心配はない。
セキュリティのしっかりとしたこのマンションは、相手が自動小銃を持っていても、篭城が可能なだけの防御力を持つ。
もっともさすがにニューヨーク全土が暴動になったら、立てこもっているわけにはいかないだろうが。
玄関口まで見送る桜は手を振る。
また昇馬もそれを真似する。
「じゃ、行って来る」
「私も行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そしてこれが桜が、生きているイリヤを見た最後の姿になった。
スタジアムに向かった大介と別れ、ボディガードに運転された車で、まずはイリヤを送る。
「買い物ももう、ネットかマネージャーに任せた方がいいんじゃない?」
「でも大介君の新記録には、やっぱり特別のお祝いがしたいし」
「ああ、それは」
イリヤにしても納得である。
大介の記録は、おそらくこの三連戦、駄目でもニューヨークにいる間に更新されるだろう。
「今日出来上がった曲、お祝いにあげるわ」
イリヤとしては久しぶりに、力を入れて作ったものだ。
妊娠してからはだいたい、体に無理がかかるようなことはしていなかったので。
「なんだかものすごく価値があるんじゃ?」
「価値は周りが勝手に決めるものだから」
イリヤの音楽の価値は、イリヤだけが分かっていればいい。
あとは本当にごく少数の、分かってくれる人たちがいればいい。
イリヤの事務所が入ったビルは、スタジオも備えた一般的なものだ。
本日はまたスケジュール調整に、イリヤが楽曲の駄目出しを行う。
ビルの前に停車して、どっこらしょと降りるイリヤ。
「帰りはどうする? 迎えに来ようか?」
「いつになるか分からないし、送ってもらうかタクシーを使うわ」
それもそうかと思って、椿は頷く。
軽く手を振って、イリヤはビルの方へと向かった。
ドアを閉じてさてパーティーの準備はどうしようかなと考える椿。
せっかくならイリヤの送ってくれた曲を、演奏してみるのも悪くない。
集まるのはそう多くも出来ないが、ケイティあたりは来るのだろうか。確か今はニューヨークにいるはずだ。
そう思ってバックミラーを見た椿は、男が一人イリヤに近づくのを見た。
そして男が懐から銃を取り出すのを。
椿は動き出した車から、咄嗟に飛び出る。
ボディーガードの動きでは間に合わない。ジャケットの中から棒手裏剣を取り出す。
パンパンパンと、乾いた銃声が三つ。
ゆらりと動いて、イリヤが倒れる。
そのイリヤに向かって、まだ銃を持った男が接近する。
「イリヤァァア!」
椿の叫び声を聞いて、男は拳銃をこちらに向けた。
人を殺せる機械だ。
けれど自分は防弾ジャケットを着ている。
(頭だけはガード)
上げた左肘に、灼熱の痛みが走った。
だが突進した椿は、棒手裏剣を投擲する。
頭に当たったが、刺さってはいない。ただバランスを崩して男は倒れこむ。
椿は棒手裏剣を追加で投げることはなく、腰からナイフを引き抜く。
顔を片手で覆った男は、満足な狙いもなく銃を発射した。
一発が、おそらく左足に当たった。
付け根の部分から痛みと熱さが伝わってくるが、のこりの右足で跳躍する。
そして全身の体重を込めて、ナイフを正面から横たわる男の首に刺した。
完全なる致命傷。
その目からすぐに命の輝きは失われていく。だがそんなものは、もうどうでも良かった。
ナイフを引き抜いた椿は、足を引きずりながらもイリヤの元へ歩み寄る。
ようやく追いついたボディガードだが、彼を責めることは出来ないだろう。
襲われたのは椿ではなく、また暴漢に対しては椿が向かっていったのだから。
「奥さん! 動いたら駄目だ!」
「救急車を! 早く!」
自分も重傷かもしれないが、少なくとも致命傷ではない。
だがイリヤは倒れてから動いていない。
イリヤの元に辿り着く。
胸の辺りから三箇所の出血。
その血の流れはすぐには止まりそうもない。
イリヤは生きていた。
だが、まだ生きているというだけだった。
(出血がひどすぎる。止血するにも……)
ただ胸を抑えても意味はない。
傷口に指を突っ込んでも、止められるものではないだろう。
イリヤが死ぬ。
そのイリヤの手が、わずかに動いた。
そしてかすかな声が漏れる。
「……赤ちゃんは、無事?」
「――お腹には当たってない。大丈夫」
「良かった……」
そう言ったイリヤの声は弱弱しく、瞳から生命の輝きが失われていくのが分かる。
「……この子に会いたかった……」
自分のお腹を撫でるイリヤは、もうそれが果たされないことを悟っている。
「お願い……」
その言葉の意味が何であるのか、椿は正確に理解した。
「分かった」
椿の返事が、果たしてイリヤには届いたのか。
涙を流しながら、イリヤは深く息を吐く。
そしてもう、その呼吸が再開されることはなかった。
椿はイリヤの首に指を添える。
脈が止まる。
その間にボディーガードは、自分のネクタイを解いていた。
「足の止血をします。貴女も重傷だ」
よく見れば打たれたところからここまで、それなりに血が流れている。
少し意識が遠ざかる。
だが自分には、まだ残された仕事がある。
強く傷口を縛られて、ある程度の止血にはなっただろう。
そして椿は男の命を奪ったナイフを、今度はイリヤに向ける。
「何をするんです!」
「帝王切開。早くしないと赤ちゃんが死ぬ」
「いや……医者でもないのにそれは無茶だ!」
「母体のことを考えなくていいなら、無茶は出来る」
椿の瞳に点った、その暗い輝き。
それを見たボディガードは、息を飲んでしまう。
ナイフでまずイリヤの服を裂く。
(防弾ジャケットを着ていたら)
だが、妊婦用のそんなもの、そうそう用意するものではないだろう。
そもそもどうしてイリヤが撃たれたのか。
(それは後で考えればいい)
優先順位を間違えてはいけない。
自分の親友の死体を切り裂く。
その精神的なショックを、椿は強烈な使命感でねじ伏せる。
間違っても赤ん坊に傷をつけてはいけない。
救急車と警察を呼んだボディガードは、ここから車で一番早い病院まで運んだ方がいいのでは、とも思っていた。
だが母体が死んだ状態で、胎児がどれぐらい生きていられるのかなど知らない。
既にイリヤは死んでいる。この出血量から蘇生措置は無駄だとは分かっている。
ならば胎児の命だけでも考える椿の判断は、間違っていないとは言える。
皮膚を切り裂いて、何度も繰り返す椿。
すぐに刃が通りにくくなったが、服で脂肪を拭う。
羊水がぐちゃりと水に混ざった。
そして求めていたものを、胎内から引き出す。
まだ首の座っていない、脆弱な肉体。
ずらりと出てきたへその緒を切って、その泣き出すのを待つ。
背中を軽く叩くと、こぽりと羊水が口から漏れた。
そして肺を満たしていたそれがこぼれると共に、赤ん坊は泣き始める。
出産予定日まで本来ならあとおよそ一ヶ月。
それでも問題なく、自力で呼吸をしだした。
あるいは自分の処置は、本当は正しくなかったのかもしれない。
だがルートはどうであれ、正解には辿りついた。
(イリヤ、約束は――)
自らの出血と、精神的な重圧からの開放で、椿も意識を手放した。
ボディガードは改めて椿の、打たれた部分をシャツなどを切って縛り付ける。
こちらも重傷だ。出血が止まらなければ、危険なことになる。
ただおそらくはそれ以上に、面倒なことにはなる。
イリヤが本当にもう死んでいたのは、ボディガードも分かっている。
だがこれは死体損壊に当たるのではないか。
ただこうしなければ、胎児も命を落としていたのかもしれない。
自分はこれから、この人のために有利になる証言をしなければいけない。
ナイフで確実に一撃で、犯人を殺した椿。
銃でならばともかく、ナイフで人を殺すのは、普通ならためらいがいるところだ。
だが椿には、全くためらいなどなかった。
もちろんこれは、正当防衛以外の何者でもない。
先にイリヤと椿が打たれていたのは確かなのだから。
ビルから恐る恐る警備員などが顔を出し、遠くビルの陰からこちらを伺う者がいる。
ボディガードはそこでようやく、他のところにも連絡をしなければいけないことに気がついた。
自分の落ち度ではない。イリヤは自分の護衛対象ではなかったのだから。
だが結果としては、護衛失敗と言えるのだろう。
救急車と警察が、サイレンを鳴らしてやってくる。
だが全てはもう遅い。
警察にしっかり説明するため、それよりもまずは椿と赤ん坊のため、病院への搬送はスピーティに行わなければいけないだろう。
双子には共振力があるという。
「椿ちゃん……」
さほど離れた距離でもない桜が感じたそれは、生まれてから今までに感じた双子の共振の中で、もっとも嫌な感じのするものだった。
椿が傷ついた。
肉体的にも、精神的にも。
悲しみ、怒り、絶望、そしてほんのわずかな希望。
イメージとしてだけ、それが伝わってくる。
そして間もなく、付いていったボディガードからの連絡がある。
わずかに聞いて桜は、最低限のことを確認する。
「イリヤは死んだの?」
『――はい』
「大介君にはあたしから話します」
強烈な死のイメージがあった。だがそれは椿のものではないとも分かっていた。
しかし椿も、大きく傷ついている。
己の半身のために、自分も動かなくてはいけない。
昇馬を連れた桜も、運ばれる病院までの経路を確認する。
そしてそれから覚悟をして、大介に連絡をした。
頭の中がぐちゃぐちゃだが、確実なことは一つ。
もうイリヤはこの世にいないということ。
「イリヤ……」
涙がぼろぼろとこぼれるのを、桜は止められなかった。
この日、まさに母の腹を切り裂いて生まれた少女は、母と同じ名前のイリヤと名づけられることになる。
彼女の人生は生まれる前から、既に波乱万丈なものが約束されていた。
イリヤの訃報は、その日の間に全世界中に伝えられることとなる。
享年27歳。
あまりにも早すぎる死だと多くの者が言うであろうが、そうでなかったことは本人だけが知っていた。
彼女は成すべきことは成し、そしてもう満たされていたのであった。
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