第104話 九月の雨
大介にボディガードがつくことになった。
なんでそこまでせんといかんのだ、と大介は思ったが、日本とアメリカでは致命的なアホによる危険度が、天と地ほどの開きがある。
同時に家族にもボディガードを付けると言う。
妊娠中の桜はともかく、椿なら心配はいらないと思うのだが。
ネットに殺害予告が出て、それに対してすぐさま警察が本当に動き、犯人を逮捕する。
いまやネットでの予告であろうと、普通に犯罪である。
そしてこの動きのあまりの早さには、しっかりと権力者サイドとの接近がある。
イリヤはミュージシャンであるが、世俗のものだけではなく、新作オペラなども作るマルチ型の音楽家だ。
そのために世間の伝手は非常に多い。
実際に球場の近くの大介に対して、投石などはあった。
すぐに傍のファンなどの手によって、ボコボコに制圧されていったが。
大介の場合はバッティング時におけるピッチャーの気配などを探るため、だいたいそういう殺気や悪意にも敏感である。
たださすがに身重の桜に関しては、あまり外出が出来なくなったが。
「退屈~」
今の家であるタワマンは、普通にニューヨークの中でも高級マンションである。
建物は完全なセキュリティを誇り、最上階にはプールやジムもある。
夜景を見ながら食事をするレストランなどもあって、生活する分には不便はない。
だがツインズはこれまで、芸能人時代にも厄介なファン対策などは自分でしてきたのだ。
やりすぎて過剰防衛にならないよう、事務所からは注意された。
ただそれでもお腹の子供のため、桜は外出をほぼ諦める。
そのくせ運動不足にならないように、ジムで軽く動いたりはしているのだが。
祖母の世代だと臨月でも畑仕事をしていたそうだから、その血を引くツインズが無茶でも、そうはおかしくないのだろう。
ともあれ八月も終わった。
北米大陸を鳴動させる大介の活躍は、既に世界的な影響を持っている。
この時点で雑誌「TIME」の表紙を三回も飾ったりしているのだから、この年の大介の記録がいかに非常識かは、全米が認めているわけである。
ただ八月は、打率はおおいに下がった。
打率0.375 出塁率0.643 長打率0.944 OPS1.587
通算ではまだ、頭のおかしな数字が並んでいる。
打率0.409 出塁率0.589 長打率1.025 OPS1.615
先月までに比べて出塁率が高いのは、それだけこの月は歩かされたことが多いからだ。
11本塁打 30打点 19盗塁
この月は27本しかヒットを打っていないのに、そのうちの11本がホームランという、頭のおかしな数字になっている。
なお単打のほうが少なく、8本しか打っていない。そして残りの8本もツーベースである。
シーズンホームラン記録も間近であるが、それよりもより現実的なのは、シーズン打点記録だろう。
MLBの年間最多打点記録は、ハック・ウィルソンの年間191打点。
実はこのウィルソンと大介の間には、奇妙な共通点がある。
それはホームランが打てて打率も高い、低身長選手であるということだ。
1930年に記録された191打点が、100年経過してもそのまま残っているというのは驚きだが、大介は現時点で182打点。
残り試合数が27試合であることを考えれば、間違いなく更新できそうなペースである。
ホームランの記録と打点の記録を、同時に更新する。
そして打率はシーズン通算で四割を維持している。
打率にしても最後の四割打者は、第二次世界大戦前の打者になる。
ホームラン数と、打点と、四割達成。
これを同時にしてしまえば、それはもう偉大とかどうとかいうレベルではない。
シーズンではホームランと盗塁を、それぞれ70-80で達成しているのだ。
ここから何が起ころうと、既にMVPは決まっている。
メディアの論調も、おおよそそんなものだ。
長打率を見れば普通の野球ファンなら、全打席を敬遠してもいいぐらいだと分かるかもしれない。
だがそれはセイバー的な考えであって、野球は興行でもあるのだ。
見ていてる人間が楽しくないなら、それはもう野球ではない。
なぜなら野球は、プレイボールの声と共に始まるからだ。
残り一ヶ月、大介はとにかく故障にだけは気をつけることにした。
やや勝負してくることが増えたことと、後ろがちゃんと打ってくれるからだ。
シュレンプの打撃力によって、大介がホームを踏む回数は確実に増えた。
そしてここからの試合は、ナ・リーグの優勝を争うものとなる。
盗塁の回数をやや減らす。
大介はその成功率の高さから、自由に盗塁してもいいというグリーンライトを持たされていた。
だがシーズンも切羽詰ってくると、FMの作戦はより綿密なものとなる。
大介はそう思って、盗塁の回数を減らすと、自ら言った。
この頃になるともはやチームの中に、大介を侮るものなどいるはずもない。
大介が打ちまくるおかげで、ピッチャーの成績は良化している。
ただ最近ではピッチャーの評価は、単純な勝ち星などではなく、様々なセイバー指数から露になるのだが。
先発の中では
モーニング25先発18勝2敗
オットー25先発11勝3敗
スタントン24先発16勝3敗
このあたりが中心となって、特にエースのモーニングは、イニングもしっかりと食って投げていっている。
これならサイ・ヤング賞も取って当然と思われるかもしれないが、実のところモーニングの他の数値は、さほど突出してはいない。
イニングを多く投げて、そして援護を多くもらっている。
だからこそ、こんな素晴らしい数字を残せるわけだ。
九月に入ればまたも、ナ・リーグ東地区のチーム相手中心に、メトロズは戦っていくこととなる。
そこでは地区優勝こそ諦めたものの、ワイルドカードでポストシーズン進出を狙うチームがいないではない。
マイアミ、フィラデルフィア、ワシントンの三チームは、もはやその可能性もない。
だがアトランタだけは、他の地区の状況によっては、まだワイルドカードを取れる可能性がある。
アトランタ・ブレイバーズとの対決は、もう三試合しか残っていない。
そして現在のメトロズは、もう残りの全ての試合を負けても、地区優勝は決まっている。
大介の記録の方にばかり注目が集まっているが、チーム自体も強いのだ。
守備の指標はそれほどでもないが、攻撃力は圧倒的。
そしてその微妙だった守備も、リリーフにランドルフが入ったことによって、かなり改善されている。
あるいはポストシーズン前に、セットアッパーとクローザーの交代があるかもしれない。
それだけセットアッパーとしてのランドルフには安定感がある。
チームの優勝は確定していると、チーム全体として、大介の個人記録も応援しようというつもりになる。
大介はシーズン中、ランナーが三塁にいるなら、ボール球でも積極的に打って、打点を稼いだのた。
それがなければもっと、打率は上がっていた。
もちろん今の時点で、とんでもない成績ではあるのだが。
九月の序盤、ワシントンへとネイチャーズとのアウェイでの試合となる。
それが終わるとホームでの、10連戦がある。
最終的にはマイアミとアトランタとの七連戦をホームで行って、レギュラーシーズンが終わる。
残された26試合で、どこまでの記録を達成するのか。
全米の野球ファンが、大介に注目していたと言っていい。
スタジアムに入るのに、観客のボディチェックというのは、いったいどういうことなのか。
大介はさすがに、やりすぎだろうと思わないでもない。
だがワシントンはアメリカの首都であるにもかかわらず、それなりに殺人などの凶悪事件が多い。
また黒人への差別というか、被害者が黒人であることも多い。
「KKKが動いているかもしれませんね」
白人至上主義者の秘密結社であるが、うんざりとした気分に大介はなる。
なんで野球をしながら、命の危険を感じないといけないのか。
それにそもそも現在の記録保持者は、黒人選手ではないか。
それが黄色人種に代わっても、何か問題があるのだろうか。
「白人以外が何かの偉業を達成するのが、我慢ならないんです」
杉村にはそう説明されるが、大介としては首を傾げるところがある。
確かに黒人が有色人種で、日本人も有色人種と言っていいだろう。
だが白人分類のラテン系の人間も、肌の色はそれなりに焼けた感じである。
要するに肌の色による差別と言うよりは、黒人と東洋系に対する差別なのだ。
ユダヤ人差別もあるらしいが、日本人である大介には、ユダヤ系とそれ以外など分からない。
下手をしなくても中東形の顔立ちと、南欧系の顔立ちも区別がつかないのだ。
ユダヤ人はそもそも、ユダヤ教徒であれば間違いなくユダヤ人らしいが。
ユダヤ教を信じていないユダヤ人もいるのではないか、と大介は考える。
とにかくワシントンにおいては、それなりに治安は悪く、それなりに人種差別はあるのだ。
だが基本的にホテルとクラブハウスを往復するだけの大介が、それで危険に晒されるものか。
野球の記録でテロリズムが発生するなど、さすがにバカらしいとしか思えない。
ネイチャーズとの試合、あちらのピッチャーももう、露骨な敬遠はしてこない。
それでもなかなか、ゾーンで勝負しようとは思ってこないが。
外に投げたあとに、ようやく内に沈む球を投げてくる。
大介はそのカットボールを掬い上げて、ライトスタンドに持っていった。
第71号ホームラン。
いよいよ記録の更新が見えてきた。
さらにこの試合大介は、もう一本のヒットを打って、打点も伸ばす。
あるいは二つの新記録が、同時に達成されるのかもしれない。
MLBがここまで盛り上がるのは、ワールドシリーズを除けば本当に久しぶりのことである。
あるいは例年のワールドシリーズよりも、よほど盛り上がっているかもしれない。
色々とアメリカ社会の抱える問題が、噴出したシーズンでもあった。
しかし大方のMLBファンは、もう記録の達成を待っている。
ダーティレコードをクリア・レコードに。
何度も言われていたことが、まさに果たされようとしている。
大介は白人でも黒人でもなく、見るからの巨体でもない。
パワーヒッターかと思えば器用に反対にも打てるし、振り回すだけでなくミートも上手い。
ここまでに喫した三振は22個で、ホームランバッターとしては異例の少なさ。
まただからといって中途半端な打球を打つわけでもなく、ダブルプレイになることも少ない。
ホームランの数の方が、シングルヒットよりも多い。
そんなありえないことが、現実としてそこにある。
だがワシントンとの三連戦では、ホームランはこの一本だけ。
記録更新はホームでの対戦に持ち込まれた。
球団側としても、どうせ記録を達成するなら、アウェイではなくフランチャイズで達成してほしい。
ニューヨーク市長に根回しをして、また大きなパレードをしようではないか。
いやこんなレギュラーシーズンに、そんなことをしている場合か。
周囲の大騒ぎに、大介としてはややげんなりとしている。
ホームラン記録が更新されれば、もちろんまた試合が中断し、セレモニーが行われるのだろう。
ただそれ以前の問題として、もうあと一つ勝てば、地区優勝が決定する。
現実的にはずっと前に、優勝は決まったようなものであった。
だがここからメトロズが全廃し、ブレイバーズが全勝したら、そこで逆転の可能性はあったのだ。
メトロズのシティ・スタジアムを訪れるチームは、フィラデルフィア・フェアリーズ。
ポストシーズン進出が完全に不可能が決まってからは、既にチーム再建に動いている。
コアとなる選手はそのままだが、中途半端な立場の選手を整理したりもする。
その中ではピッチャーも、マイナーから上げてくることもある。
九月に入ればセプテンバー・コールアップによって、ロースター枠が拡大されることもある。
つまりまだ大介と対戦していないピッチャーが、メジャーに上がってくるわけだ。
これまでに戦っていないピッチャーなら、大介を抑えられるかもしれない。
そんな甘い思惑は、おおよそもたれてはいない。
むしろ逆で大介を甘く見て、勝負したがるピッチャーの方が多いだろう。
大介から三振などを奪えば、それだけ名前が売れるというものだ。
MLBにまで上がってくる選手というのは、全員が自信家なのだ。
自分の成功するイメージを持っていて、それを信じることによって、この厳しい世界を戦っていく。
最初から打たれるなどと思って逃げていては、大介に打たれるどうこう以前に、メジャーでは通用しない。
なのでむしろ、大介は記録の達成が簡単になってくるだろう。
シティ・スタジアムに集まる観衆は、その世紀の瞬間を目撃しようとする。
あと二本もあるので、この試合ではまだ達成しないかもしれないのに。
せいぜいがタイに並ぶまで。
だがそれでも、大介のホームランを見たいのだ。
その日、メトロズのスターターのオーダーには、大介の名前がなかった。
それを見て騒ぐ観衆であるが、メトロズのベンチの中はそれどころではなかった。
最悪の事態ではない。だがそれに近い。
大介は今、ベンチの中にもいない。
そして情報化社会においては、事件の情報はすぐに伝播していく。
大介がベンチの中にいない以上に大きな事件が、ニューヨークでは発生していた。
観客の中の多くがこれを知り、その衝撃は伝わっていく。
事件の続報がまた伝えられていく。
大介がここにいない理由もまた、間もなく明らかになるのであった。
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