第84話 汚れた記録
白石大介はドーピングをしている。
それは常識的な野球関係者にとっては、当たり前と言うか、そうでなければおかしいというほどのものであった。
このあたりの人間は、悪意ではなくむしろ正義感から行動しているので、余計に性質が悪いと言うべきか。
確かにドーピングでもしていなければ、不可能な数字を叩き出しているのである。
だが、何度尿検査をしても、その痕跡は見られない。
ただ日常的な飲食については、かなり気を遣っているのを感じる。
その行動はドーピングと言うよりは、むしろ薬物を盛られないように気をつけている人間の行為。
本当にナチュラルに、こんな数字が出せているのか?
尿検査には問題がなく、血液検査を行うべきだという意見まで出てきたが、これは他の選手には行われていないことである。
また血液検査などをすれば、血液採取によって内出血などを起こし、本来のパフォーマンスを発揮できなくなる可能性もあり、単に成績が優れているだけで、そんな検査を特別に課すのか、という議論までなされた。
大介としては「知らんがな」である。
とりあえず高校時代やNPB時代に調べた、精密検査のデータはコミッショナーに送っておいた。
生まれつきの体質とは言っても、それは単なる才能と何が違うのか。
少なくとも大介は、トランスジェンダーの女が大会の優勝を掻っ攫っていくような、昔のアメリカの狂った平等主義とは無縁の人間である。
アメリカのマッチョ信仰というのは、いまだに根強い。
確かにドーピング全盛時代の記録は、むしろ塗り替えられた方がありがたい。
だがその塗り替える人間は、まさに誰もが認める雄大な体格のアメリカ人であってほしい。
東洋の島国から来た、小さなバッターのわけの分からないバッティングに、抜かされたくはないのだ。
大介としては本当に「知らんがな」である。
怪我などが治癒しやすく、体力も回復しやすい。
骨密度も生まれつき高い。
だがこの体質は、生まれつきのものだ。
それでどうこう言うぐらいなら、先に野球を体重別のスポーツにするべきだろう。
そもそも大介の成績を上げているのは、身体能力は確かに守備に関係しているが、バッティングに関しては技術である。
その動体視力の高さは、確かにこれも眼球の筋肉に関係はしている。
しかし瞬発的に動くのは、もう反射であるとしか言いようがない。
日本時代に対戦したピッチャーたちのデータが、大介の技術の根幹となっている。
104マイルを投げるクローザーからもホームランを打っている。
なぜそれを打てたかというと、単純にもっと速い球を打っていたからだ。
そして変化球やコンビネーションへの対処は、まさに直史への対策としてやっていたことだ。
四月は残り一試合で、既にホームラン記録は月間最多タイ。
色々と思うところはあるが、確実にクリーンな選手というなら、東洋系の新人が打ってもいいではないか。
かつてホームラン王争いの時にも、政治的に中華系や朝鮮系への差別感情が高まり、日本人選手や台湾人選手がとばっちりを受けたことがある。
ああいったことはもうやめようではないか、と正義を主張できるのも、アメリカのいいところではある。
その試合、二番打者として出場した大介は、一回の裏の第一打席の初球、アウトローへのストレートを見逃さなかった。
左打者が左方向に打つのは、いささか難しい設計となっているメトロズのシティ・スタジアム。
レフトのスタンドの、珍しくもぎりぎりのところで、ボールはホームランとなった。
ドーピングされた記録が、クリーンになった瞬間であった。
最後の一試合で、ぎりぎり記録を塗り替える。
まさに主人公体質の大介であった。
ベンチに戻れば散々に大男どもから体を叩かれる、きつい洗礼を受ける。
「痛てえ! お前ら肩を叩くな!」
試合が一時中断して、スクリーンにメッセージが浮かぶ。
大介が日本でシーズン記録を更新したときも、こんな派手なことはあった。
ちなみについでというわけではないが、これでまた大介は、七試合連続のホームランを打っていることになる。
シンシナティとの試合、残り二試合でまた打てば、新たな記録をまた更新することになる。
だがさすがに大介は、それはもう狙っていかない。
汚れた記録は、誰かが清めなければいけなかったのだ。
日本人ほどそういった感覚に敏感な人間は、世界的に見てもそうはいない。
だから大介がこうやって打てたのは、日本の八百万の神様が、アメリカまで出張に来てくれたからだろう。
そんなことを思いながら、大介は集中力の糸を弱めたのであった。
なお大介はこの試合の最終打席にもホームランを打って、新記録をさらに一本伸ばした。
ついでとばかりに大記録を作っていく男である。
序盤五割を超えていた打率は、さすがに少しは下がった。
それでも四割を余裕で超えていて、開幕から一ヶ月のMLBは、いきなりポストシーズン目前の優勝争いのように盛り上がったものである。
打率0.467 出塁率0.565 OPS1.752 打点53 本塁打22 盗塁15
これだけでも充分化け物だが、結局日本時代は一度も取れなかった、最多安打もこの時点では取っている。50本のヒットを打っているのだ。
もっともMLBでは、最多安打というタイトルはないのだが。
なお盗塁王はタイトルとして存在しており、これも大介が取っている。
また日本から化け物がやってきたのか、とMLBは何度目かの思いを抱いた。
そしてシーズンの131打席を冷静に分析して、どこかに弱点がないかと考える。
「デッドボールをぶつけるのがいいな」
ひどい結果が出た。
「それで報復打球を打たれたらどうする」
当たり前の反論である。
「コントロールの悪いマイナーのパワーピッチャーを引き上げればいいのでは? ぶつけられたらまた落とせばいい」
ひどすぎる。
昭和の野球マンガのような、絶対に主人公に逆襲される作戦が、極めてまともに議論されている。
「日本時代のヒットの内容だが、避ければボール球やデッドボールになる球を、これだけヒットにしている」
さすがに試合全てから人の目で調べるのは時間がかかるしマンパワーもいるので、コンピューター解析で数字を出している。
デッドボールになるコースに投げられていることはそれなりにあるが、それが内角を外れる程度なら、簡単に避けるかヒットにしてしまう。
あるいはホームランにしてしまった例さえある。
完全に最初から体に当てにいっているボールは、当たることなく避けるか、あるいはバットで弾き返してしまっている。
さすがにこれはホームランになることは滅多にない。
少しあるのが恐ろしいところだが。
八度の三冠王に九度のホームラン王。
打率四割オーバーが三回。
OPSは全ての年で1.4を超えて、日本最終年は1.6を超えている。
まさに日本野球回の最終兵器と言えるだろう。
「ただ、これをかなりの割合で封じている選手も存在する」
それこそまさに信じられないのだが。
上杉は100マイルを常に超えるスピードボーラーで、大介を毎年三割未満、なんなら二割に抑えている年もある。
さらに直史は九打席対決して一本のヒットも打たれていない。
「いや、こいつはいったいなんなんだ?」
「サトーですよ。WBCの決勝でマダックスとパーフェクトをかました」
「……国際大会には興味ない」
「まあスカウトじゃないからいいんですけどね」
「それよりサトーならダイを抑えられるなら、必勝法があるんだろう」
「いいや、それが」
もちろん直史は、大介の弱点を攻めたりなどはしていない。
変幻自在に投げることで、大介にまともなバッティングをさせていない。
「23勝0敗で、レギュラーシーズンポストシーズン併せて自責点は一。WHIPでさえ0.174であり、パーフェクト二回、ノーノー二回、マダックスを13回記録しています」
「日本人ってこんなに化け物ばかりだったか?」
「アマチュア時代にはカレッジの試合でリーグ戦で29勝して無敗ですが、ノーヒッターを合計で15回達成しています。うち11回がパーフェクトゲームです」
「おかしいだろ!」
叫びたくなる気持ちは分かる。
直史のピッチングは、大介の弱点を攻めるというものではない。
コンビネーションとそれを可能にするコントロールで、駆け引きによって大介を封じているのだ。
これほど多くの球種を、これほどのコントロールで投げられるピッチャーは、今のMLBにはいない。
だが、ほんのわずかにだが、攻略の糸口は見えてきた。
それは緩急である。
直史のスローカーブとストレートの球速差は、50km/h以上となる。
これだけの緩急差があれば、ストレートの威力はさらに高まる。
だが直史は単なる緩急差ではなく、他の変化球とのコンビネーションにも使っている。
白石大介対策は緩急。
それがすぐに効果を発揮したわけでもないだろうが、五月に入って大介のホームランを打つペースはゆっくりとなっていく。
プレイヤー・オブ・ザ・ウィークはその週に最も活躍した選手を表彰するもの。
大介は最初の一ヶ月で、三回これに選ばれていた。
すると当然、プレイヤー・オブ・ザ・マンスにも選ばれる。
ピッチャーはピッチャーで、ピッチャー・オブ・ザ・マンスというのが存在する。
大介は特にルーキーが選ばれるルーキー・オブ・ザ・マンスにも選ばれていた。
日本で言うなら月間MVPに新人月間MVPだ。
打撃においては圧倒的な数字を示して誰の文句も言えない状況となったが、じつは守備の指標でもトップクラスにある。
MLBの守備の貢献を決めるのは、守備防御点(DRS)が参考として用いられる。
だがこの守備の貢献度は、年によって大きく前後するため、まだ発展中の評価なのだ。
改めてこれが選出されるようになった結果、名手と思われていた選手が、実は守備範囲が狭かったために、ぎりぎりで捕るファインプレイなどに見えていたという例もある。
ただ大介は明らかに、フットワークが軽くて守備範囲が広く、強い打球にも追いつくことができる。
肩が強いのでショートの奥からでも、ファーストへとの送球が間に合ってアウトになる。
またレフトへ抜けるような頭上の打球を、低い身長から1m以上もジャンプして、キャッチしてしまうこともあった。
バッティングだけではなく、守備でも魅せる。
このあたりから徐々に、メトロズはピッチャーの各種成績も変化してくる。
特にゴロを打たせるタイプのピッチャーは、積極的に左方向に打たせるようになった。
よほど強い球であっても、内野の間を抜けていくタイプの打球なら、大介がなんとかしてくれる。
そう思えばピッチングにも、余裕を持って投げることが出来るのだ。
四月が終わった時点で、メトロズは22勝7敗と、完全にスタートダッシュに成功している。
これはもう地区優勝に、その後のポストシーズンまで勝ち進むことを目指していけばいいのではないかと、大介などは思ってしまう。
だがメジャーリーガーにとっては、四月での成績はあまり参考にならない。
まず得点力が、かなり大介に依存しているというものがある。
まさか打点だけでも、一人で53点を取ってしまうとは思わなかった。
だがこれは逆に言えば、大介が怪我でもしたら、急速に戦力は低下するということでもある。
ルーキーの成績に期待するほど、MLBのフロントや首脳陣は、お花畑ではない。
ただ、大介の攻守にわたる貢献を、否定するわけでもない。
特に守備においては、その守備範囲の広さと、捕球してからアウトにするまでの送球の力を、高いものだと評価している。
むしろ調子の波があるバッティングよりは、イップスにでもならない限り、しっかりと数字が残る守備のほうが、評価はしやすいのだ。
そしてフロントも現場も、考えるのは七月に入ってからの成績だ。
いくら四月にスタートダッシュに成功していても、七月の時点の成績によって、トレードレッドラインでどう動くかは決まる。
コアとなる選手に怪我人が多く、とても優勝は狙えないとしたら、FAが近い選手を放出して、プロスペクトと言われる有望株とトレードする。
逆にその時点で優勝が狙えるとしたら、微妙にまだ弱いリリーフ陣を補強して、代わりにこちらはプロスペクトを放出する。
これが一般的な、MLBにおける動きである。
とりあえず二年契約の大介は、一応他球団へのトレード拒否を契約に入れてある。
また一年目がどんな成績でも、二年目は最低でも600万ドルで契約出来るようにはなっている。
そしてメトロズもまた、大介が今年どんな成績を出そうと、1800万ドルを出すなら来年の契約が出来るようになっている。
そういった事情はとりあえず置いておくとして、ここまでで五連戦をこなしている。
そしてまだ、八連戦が残っているのだ。
特に六連戦は、ミルウォーキーに移動してから、サンディエゴに移動するという連続移動。
肉体的にはともかく、精神的に安らぐことがない。
大介は図太い性格であるが、こういった試合日程の過密スケジュールは、それはもう怪我人が出てもおかしくないだろうというものだ。
本拠地シティ・スタジアムでの残りの二試合は、メトロズの敗北に終わった。
大介もまたこの二試合では、ホームランを打てていない。
かなり逃げのピッチングをされたということもあるが、味方の投手陣のうち、リリーフ陣が点を取られることが多くなっている。
中六日体制にするべきではないのかと思っていた大介であるが、実際のところこの日程では、ローテ投手を六人作ることは難しいと分かってきた。
そもそも30もあるチームに、ローテをしっかりと回せるピッチャーが、それほどたくさん配備されるはずもない。
金満球団と言われるチームであっても、やはり限界があるのだ。
投手運用はまさに、戦術の中の一つと言える。
エースを酷使するのは、ポストシーズンに入ってからだと、MLB全体にそんな了解があるのだ。
投手にとっての最高の栄誉である、サイ・ヤング賞。
この賞の沢村賞との最大の違いは、先発投手ではなくリリーフ投手も含めて、評価されるということだ。
ちなみにサイ・ヤング賞を元に沢村賞が作られたという誤った認識もあるが、実は沢村賞の方が設立は早い。
サイ・ヤング賞はほとんど貯金を作れなかった投手が、その他の指標で評価されて、しっかりと選ばれることがある。
ぎりぎり二桁しか勝利しておらず、貯金も一つしか作れなくても、防御率やWHIPに奪三振などで、しっかりと評価をされるのだ。
セイバー・、メトリクスによる、基準のしっかりとした評価。
そのあたり日本の沢村賞は、打線の援護による勝利や、守備の堅固さによる防御率が重要視されるため、客観的ではあるが本質的にピッチャーの優秀さを認めるものではない。
そう言っても、直史や上杉ほどの成績を残していれば、サイ・ヤング賞基準でも当然、受賞対象ではある。
大介はまた、敵地での試合のために、飛行機に乗ることになる。
試合が終わって翌日に飛行機に乗り、到着したらまたすぐ試合。
この移動方法と日程だけで、日本人選手の中には、適応できなかった者もいると思うのだ。
大介の場合は失敗しても、そう簡単に日本には戻れない。
確かにホームランに関する記録を塗り替えはしたが、最低でも三年はこちらにいる。
四年いて、直史と対決するのが、大介の予定なのだ。
(年間の飛行機の移動距離だけで、どんだけ動くことになるんだか)
ほんの少しだがげんなりした気分で、大介はミルウォーキーに到着するのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます