第64話 渡米
大介がFA宣言をし、代理人としてドン野中を指定した。
その日から野中の事務所には、MLBの多くの球団から電話がかかってきた。
あるいは日本駐在のスカウトがいる場合は、直接事務所に乗り込んできたりもした。
大介ほどの選手であれば、全ての球団が名乗りを上げるのではないかと思うかもしれないが、そこは資金力の差がある。
既に多額のサラリーを払う選手を抱えていては、さすがに大介の獲得の資金が足りない。
打てるショートという、足の速いキャッチャー並に意味の分からない存在は、それはほしいと言うだけならば、どの球団だってほしい。
だが金を出せる球団は限られているし、ショートが一応埋まっているなら、そこは補強ポイントとしなくてもいいだろう。
資金力の裏づけがあったとしても、チーム再建中であったりすると、これまた即座に獲得しようとは思わない。
過去のNPB出身の強打者を思えば、年俸1000万ドル以上の複数年契約は最低でも必要。
交渉の余地自体はあるのだが、そもそも大介が条件をかなり絞っている。
(セイバーさんの言ってたことは間違ってなかったな)
事前の根回しによって、ある程度こちらの手を見せている。
だいたい選手というのは、大きな契約を結びたがるものだが、大介はあえて短い契約を伝えている。
二年契約で、一年目が600万ドルの、二年目が1800万ドル。
ただし一年目の成績が気に入らなければ、二年目は球団側が破棄することが出来る。
球団側から見ると、これは相当にいい条件だ。
大介と同じレベルの野手がMLBに来るとなると――そもそも今まで大介のレベルの野手などいなかったというのはさておき――一年目が600万ドルというのは破格の安さである。
現在の大介の年俸の、約半分とさえなってしまう。
契約金などもなく、そして球団が大介に満足して二年目も権利を行使するとして、1800万ドルは安い金額ではないが破棄することが出来るというのがいい。
「基本的にはメトロズで契約することになるとは思う」
野中はそう言って、細かいことは向こうで詰めるべきだろうと言った。
彼は代理人であるが、アメリカでの契約ではアドバイザーがさらにいる。
エージェントフィーは5%であるので、大介の一年目の契約がまとまり、二年目も結ばれるとしたら、彼には合計で120万ドルの金が入ってくることになる。
選手一人を動かしただけで日本円1億3000万円相当。
いい商売だと思うが、これは大介がいい商品であるから出来ることだ。
そしてアメリカに行って、細かいインセンティブの契約をしなければいけない。
また年俸とは別に、大介レベルであれば住居も球団が用意するし、通訳もつける。
最近ではネイティブ相手に仕えるようにと、ツインズは勉強をしているのだが、女には入れない場所というのもあるだろう。
実は同じ時期、日本では直史がレックス相手に、また細かい条件を盛り込んだ交渉をしている。
それに対して大介は、直接は接触しないにしろ、向こうの相手とネット通信で、話し合うことが出来る。
もっとも通訳を介するので、結局は余分な手間がかかるのだが。
とにかくアメリカの契約というのは、細かいところまで量が多い。
日本であればそのあたりは、常識的に考えてなあなあで済ますところでも、アメリカではちゃんと契約をする。
その契約の範囲外のことで何かあっても、球団には関係ないということになる。
ツインズに野中が気づいて加えたのは、怪我をしたときの治療費の支払いなどだ。
もしも一年目に怪我をしてシーズンを50試合以上休んだら、その時は大介の方に、600万ドルで次の年の契約を結んでもらえる権利が発生するとも記された。
考えてみればこの二年契約だと、翌年まで全休するような怪我をした場合、一方的に球団が切れるわけだ。
日本の球団であれば、年俸は減額はしても、契約を切ることまではしないだろう。
だがNPBにおいても外国人にこのようなことが起こったら、その年で契約を切ってしまうことはある。
大介の場合は一年目の成績次第では、いきなりメトロズが切ることもある。
故障などはともかくとして、二年目の1800万ドルは少ない金額ではなく。
大介を使うよりも、900万ドルで二人の選手が使えるとしたら、そちらを選ぶのがMLBだ。
するとFAになって他の球団にまた、拾ってもらうのを待つことになる。
大介が一年目にやるべきことはだから、1800万ドルで働いてもらうには安いと思わせる働きを見せることだ。
ショートとしての守備力もだが、やはり期待されるのは打撃成績だ。
交渉によると重視しているのは、出塁率とホームランとOPSだ。
日本と違って打率はあまり重視しないらしい。
確かに得点に直結する数字として、OPSはMLBでは打率よりも重要とは言われる。
そしてもちろん、打率よりも出塁率だ。
メトロズに入ったら大介は、おそらく一番バッターとして起用されるだろうと言われている。
スラッガーを一番に置くというのは、NPBの価値観ではかなりおかしなことだ。
だが大介はアベレージの方を期待されているらしい。
確かに四割を打ったが、日本のホームラン数を参考にしないのはMLBだ。
打率は重要度は低い。
それならば普通に出塁してくれた方がいい。
どれだけ大介の打率が高くても、ホームラン以外はグラウンドの中でアウトになる可能性がある。
ならばフォアボールを選んで出塁するなら、その方がありがたいとすら言われる。
あとは大介はスラッガーとしては、圧倒的に三振が少ないというのも理由の一つだろう。
一番バッターの重要度は、塁に出ること。
もう10年以上も、数えられるぐらいにしか、三番以外は打っていない。
ただ計算の上でならば、MLBは最強打者は二番に持ってくることが多い。
大介ほどの打撃成績でも、MLBでは通用するが疑問視しているのだろう。
代理人の野中の下へは、メトロズ以外の多くのオファーがあるのだという。
中には年俸だけで言うなら、メトロズ以上の金額を提示するところもある。
ただ大介はツインズの生活を考えて、ニューヨークを志望しているのだ。
だから基本的にはメトロズかラッキーズの二択となり、ラッキーズはペイロール(全選手の年俸総額)にそこまで空きがない。
他の球団からのオファーは、メトロズからの年俸以外の譲歩を引き出すのに役に立つ。
タイトルを取ることは、もちろんインセンティブに入れることが出来る。
ただMLBにおいては、数値のクリアが重要なものとなる。
故障せずにどれだけの試合に出られるのか。
ホームランの数や、OPSの値。
一年目はインセンティブで、減収となる分をカバーするつもりだ。
ただしまず、シーズン100試合以上に出場しなければ、他のインセンティブは発生しないとも書かれたりする。
だが100試合出場すれば、それだけで100万ドルのインセンティブを付けてくれた。
他のチームへの一年目のトレード禁止は織り込むが、マイナー落ちも許容するという契約内容。
この交渉の間に、メトロズは大介が絶対の自信を持っているのを感じているだろう。
生活のフォローなどに関しては別に、成績に関してのインセンティブは決まっていく。
基本的には大介もメトロズをほぼ唯一の候補としているのだが、他の球団からのオファーもあるというのは、それだけ選べるFA選手である大介には、条件を吊り上げるのに有利だ。
そしてある程度は決まってきた。
・年間100ゲームに出場することで100万ドル。なおこれは他のインセンティブを得るための基本条件
・ホームランが30本に達したら100万ドル。それ以降は一本ごとに10万ドル
・出塁率は四割で100万ドル。そしてそれ以降は一分上がるごとに10万ドル
・OPSが1.000を超えたら100万ドル。そしてそれ以降は0.01ごとに10万ドル
・他の諸々のタイトルについては、それぞれについて個別にまた調整
分かりやすい条件はそのあたりで、MLBでは一般的なWARも対象になったが、大介にはこれはさっぱり分からない。
ものすごく複雑な計算だが、数値を打ち込めば分かるものである。
とりあえずマイナスになることはないので、あまり気にしないようにする。
大介にとっては簡単に達成できて、とんでもないインセンティブになりそうだが、これはつまり球団側は、そこまで無茶な成績はさすがにMLBでは残せないと思っているのだろう。
もしもこの年の最終年の大介の成績を、このインセンティブ契約にあてはめたらどうなるか。
・ホームラン。今年は72本だったので、100万ドルに42本の10万ドルで420万ドル
・出塁率は0.583なので100万ドルに180万ドル
・OPSは1.609なので100万ドルに600万ドル
・そして大前提の100試合出場で100万ドル
合計で1300万ドルになる。
これに各種タイトルがそれぞれ少なくとも100万ドルとなれば、元の600万ドルにプラスして、1900万ドルにさらにタイトルインセンティブとなる。
今年の大介の年俸よりもはるかに多くなるが、球団もさすがにそこまでの数字は残せないと思っているのだろう。
100試合出場は無難な点だ。これはつくだろう。
ホームラン数は40本ぐらいを考えるなら、200万ドル前後。
出塁率もぎりぎり四割で100万ドル。
OPSが1を超えるというのは、さすがに厳しい。
あちらの現実的な考えであれば、600万ドルにインセンティブ400万ドルで、合計は1000万ドルぐらい。
なるほど大介レベルの野手と契約するとするなら、初年度としては無難なものだろう。
実際に大介としても、やってみなくては分からないことが多いのだ。
過去に北米大陸で試合をしたことはあるが、それはあくまでも短期決戦。
レギュラーシーズンで162試合を半年でこなすことを考えれば、パフォーマンスが落ちてくることは当たり前である。
リーグを代表するスーパースターでも、調整のために3試合から5試合程度は休む。
単なる休みではなく、戦略的に休む日は決めて、控えの選手を試したりする。
話が進むにつれて、大介は萎縮はしないまでも、困惑はしてきた。
なんと言うべきか、とにかくMLBはNPBとは違うのだ。
日本で言うキャンプであるスプリングトレーニングも、期間が短い。
練習よりは試合勘を取り戻し、アピールする場所という印象である。
つまり本気でMLBの試合に出るなら、新人であればここで結果を出すことが重要となる。
40人までがメジャーリーグ枠で、そのうちの26人がアクティブロースター枠。
40人枠の中に入って、そこからさらに26人のアクティブロースター枠に入り、さらにそこからスタメンに入る。
大介の場合は当然40人枠には入れるはずであるが、見合わないと感じたらそれでも切ってしまうのがMLBだ。
「損切りが重要」
ツインズに言わせればそういうことになるらしい。
大介の年俸が600万ドルであろうと、使えないと思えばあっさりと切る。
実際にはトレード要員として使うだろうが、チームに馴染めないという可能性はないではない。
またチーム内での衝突や、使われ方に不満が起こる場合もあるだろう。
ただMLBの場合は、指示に従わない場合の罰金なども明確に決められている。
あとはアンリトンルールとも言われる沈黙の掟があったりする。
MLB経験者や、そうでなくともMLBを目指して日本に出稼ぎにやってきた選手から、ある程度は聞いている。
大量点差がついたら手加減するというようなもので、これは紳士的なものだという理屈があったりする。
だが大介の考えるかぎりでは、試合をさっさと終わらせるためのものだろう。
日本人としては高校野球のころから、負けたら終わりのトーナメントで鍛えられている。
なので相手が不調でも、こちらは全力を尽くしてプレイするのが美徳である。
だがMLBでは、相手のプライドを守ることもリスペクトと建前を作っている。
実際のところは試合時間の短縮や、疲労の蓄積を防ぐなど、そういった実利的な面が多いのだろう。
他のMLB球団も条件を色々変えてきたが、こちらから動いたメトロズがやはり、一番条件を合致させてくる。
よって大介は11月にはアメリカに渡り、メディカルチェックなども受けた上で、詳細を詰めて契約を結ぶことになった。
国内向けには複数の球団と交渉中と説明はしてあるが、おそらくこれが覆ることはない。
この間にツインズは日本に残り、残った様々な用事を片付けていく。
いよいよ本格的にアメリカに渡ることになるのだ。
一度はまた日本に戻ってくるため、挨拶などはその時にすればいい。
一月の自主トレなどは、まだこちらでするのだ。
ただMLBの場合はスプリングトレーニングは暖かなフロリダやマイアミで行う。
ある程度はそちらでも練習やトレーニングを行うが、基本的には日本で仕上げたほうがいいだろう。
かくして大介は、ドン野中とその会社のスタッフなどと共に、海を渡ることになる。
そういえばと考えてみれば、アメリカは東海岸までやってくるのは初めてのことだ。
考えてみればそれもある程度は当たり前で、WBCの開催される三月というのは本来の野球のシーズン前。
ニューヨーク近辺などは、まだ気温が上がっていない。
その点西海岸やマイアミなどは比較的暖かい。
ニューヨークの緯度は日本でいう青森県ほどのところにあるのだ。
個人的な好みだけを言うなら、大介はむしろ西海岸向けだろう。
ニューヨークを選んだのはそれだけ知り合いの助けを借りやすいことと、大都市圏だからということが大きい。
大都市圏なら西海岸でもいいのだが、そちらのコネは比較的少ない。
もっとも、実は観客などを見れば、大介を知っているアメリカ人は、西海岸の方が多いのだが。
当たり前だが大介は、毎年沖縄のキャンプへ行くため飛行機には乗っている。
国際試合でも乗っているわけで、それに対する不安などはない。
ただ西海岸の空港で一度着陸し、また東海岸へと移動するのも飛行機。
NPBでも交流戦において飛行機の移動はあったが、MLBでは普通に飛行機を使う。
それだけ国土は広大であり、鉄道網も日本に比べれば整備されていない。
良くも悪くもアメリカは、大きい。
大きさゆえに、雑だと感じることもあるのだが。
「スプリングトレーニングも日本では沖縄に集まるように、アメリカでもフロリダとマイアミで行われることが多い」
飛行機の中で大介は、今さらではあるが色々なことを聞いておく。
「ピッチャーとキャッチャーのバッテリーの方が早く始めて、そこから数日遅れて野手が合流する。練習もあるがベテラン以外は仕上げてキャンプに入る」
大介の年齢であると、ベテランとも若手とも言いがたい。
だがやはり比較的、若い部類に入るだろう。
MLBはよほどの選手でもマイナーで数年は鍛えることが多く、高卒から即戦力の選手はほとんどいない。
よってメジャーデビューはそれなりに遅くなり、20代の後半からが本格的な戦力となるのだ。
だが海外からの選手は違う。特に大介は、もう契約をした上でキャンプに参加するのだ。
序盤からある程度のパフォーマンスを見せておく必要はある。
(考えてみればプロになった時は、あんまり緊張も何もなかったな)
学生から社会人への断絶ということはあったが、同じ日本の国内であった。
またホームが慣れ親しんだ甲子園であったというのも、プレッシャーを感じなくさせてくれたものだろう。
新たなる舞台。
大介の心中に不安が全くないとは、さすがに言えないのであった。
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