第63話 奇跡の目撃者
誰かが歴史の目撃者となる。
それは歴史を彩る一員であるが、あくまでも主役ではないというもの。
佐藤直史の、成し遂げたというよりはやらかしたこの奇跡は、同時系列でも遠い未来でも、大きな影響を与えた。
たとえばNPBのレベルを4Aなどというメジャーリーガーがいたとする。
ならばその4Aで同じことが出来るのか。
もちろんよほど頭のおかしな人間以外は、不可能だと答えるだろう。
そもそもこれが現実に起こったことなのか、何度も確認しなおすかもしれない。
東海岸では上杉が、この事実を知って難しい顔をしていた。
野球というスポーツは、こういうものだったろうか。
直史については、その人格的なことは、それほど多くは知っていない。
だが樋口からは聞くこともあったし、同じリーグで対戦もしたし、国際試合では同じチームにもなる。
佐藤直史のやっていることは、野球ではないのではないか。
野球のルールの範囲内で、何か違うことをやっている気がする。
オカルトだとまでは思わないが、何か全く別の視点がないと、こういったことは達成出来ないと思うのだ。
樋口も似たようなところはあった。
人格にかなりの下衆っぷりがあるように見えたが、あれは露悪的なだけである。
ただ女性に対する支配欲が強すぎるのだけは、どうにかした方がいいと思ったが。
こういった記事を読むと、焦りに支配される。
自分は本当に復帰できるのか。復帰したとしても以前のようなピッチングが出来るのか。
そもそも日常生活を送る程度に治療するのが、一般的な医師の考えであるらしかった。
スターズの選手である上杉に、セイバーが接触してこのような治療を受けさせた理由。
上杉はビジネスでは動かないが、道理や恩義では動く。
だから上杉のことを使いたいのだろうが、野球選手としての上杉が、これからどれだけ回復するかは賭けだろう。
スターズの人間とも連絡は取っているが、どうせ来年は全休だ。
再来年までに回復できているかが問題なのだ。
そしてこういった故障のリハビリなどでは、アメリカの方が合理的に富んでいる。
ただそれでも、これはもう終わったかな、と上杉本人でさえ思ったのだ。
一年間こちらで治療し、その次の一年間をどうするのか。
話は上杉に降りてくる前に、球団関係者の間で行われている。
そしてこの間は、代理人という人間も来た。
もちろんアメリカ人で、日本語も喋れるというスタイルではあった。
上杉は日本では、特に代理人などを雇ってはいなかった。
それ以前の問題として、上杉家にはお抱えの弁護士などがいたのだ。
だがアメリカで過ごすとなれば、また現地の人間は必要になる。
なぜアメリカの代理人が、FAになったわけでもない上杉に、興味を示したのかは微妙なところだ。
少しずつ想像は出来てくるのだが、決定的なものではない。
そしてそれだけの手間隙をかけて、いったい何をさせようというのか。
ある程度は予想がつくが、そこからさらに先は見えない。
上杉の身の回りの世話をする明日美は、実は機嫌が良かった。
結婚してからこっち、基本的に上杉が休むのは年に二ヶ月だけ。
その二ヶ月の間も、ほとんどは練習やトレーニングをする。
既にその力は人類の上限に近く、それでいてさらなる高みを目指す。
良妻賢母を目指す明日美としては、子供を育てることが一番大切だと思っていたが、やはり旦那様と一緒にいられると嬉しい。
明日美は明日美でそれなりに、日本の状況を探っていたのだ。
大介の一件で大騒ぎになってはいたが、それで大介の進退が変わったらしい。
明日美は瑞希やツインズとも友人であるのだ。
ひょっとしたら一番、有名人や有力者の友人が多いかもしれない。
明日美自身は一般家庭の人間であるが、通ったお嬢様学校で、膨大なコネクションが出来てしまった。
そう、まさに出来てしまったと言うしかない、強固で広範囲の友人関係だ。
政治家家系の上杉家は、明日美との結婚に反対はしなかったが、諸手を上げて賛成というわけでもなかった。
だが結婚前の身辺調査をする間に、明日美自身が築いていたコネクションに、上杉家も気づいたのだ。
才能もそうだがその人格で、明日美は周囲を魅了する。
それは上杉も似たようなものだ。
これぞ本当に、似たもの夫婦といったところだろうか。
明日美は直史ともそこそこの接点がある。
大学時にはエースとして投げ合ったものだ。
ツインズを引きずり回したという点では、明日美のパワーというのはこれまた人間離れしている。肉体的にも、精神的にも。
そんな明日美が思うのは、やはり直史は違う基準で野球をしている、ということであった。
上杉や大介のパフォーマンスよりは、むしろイリヤや……あるいは恵美理のような。
観客たちの応援の声が、極端に少なくなって、投げ終わったらまた大きくなる。
ゴルフやテニスのように、投げる瞬間を邪魔してはいけないと、敵側の応援団まで考えているように。
野球観戦というものを、本質的に変えてしまうような。
いくつもの記録を塗り替えているが、競技そのものを変革する力というのは、さすがに人間離れしている。
究極のピッチャーが登場し、究極のバッターが登場したプロの世界。
直史のことをどう分類すべきか、分からない者はほとんどだろう。
完全に引き立て役となったジャガースの選手であるが、そこには意外なほど野次や罵倒の声は聞こえてこなかった。
あれである。
引き立て役があまりにも見事すぎて、思わずアッパレといったところであろう。
野球は相手がいなければ始まらないスポーツだ。
そこで熱戦ならともかく、一方的な圧勝など、興ざめと思われてもおかしくはない。
だが冷静に見てみればいい。
ジャガースは確かに日本一は逃したが、日本シリーズを最終戦にまでは持ち込んだ。
レックスの首脳陣の狂気の起用がなければ、日本一になるのは彼らであった。
直史以外のピッチャーからは、ちゃんと勝利しているのだ。
圧倒的に点差をつけられて、さすがに追いつけなかった、第四戦以外は。
直史が連投し、そして両方を1-0で勝利した。
それも両方とも、点が付いたのはソロホームランの一点。
延長まで試合を続ければ、勝っていたかもしれない。
だがそんな状況とは全く関係なく、あれは向こうが凄かった、といい気分になれた者が多かったのだろう。
蓮池は二試合に投げて、彼の責任だけではないが、その先発の試合では三失点。
正也も彼の先発の試合は、二試合を一失点ずつとしている。
常識的に考えて、負ける数字ではないのだ。
それでも負けたところが、この年の伝説になるのだろう。
ファン感謝デーなどをしても、暖かい声が聞こえてくる。
こう言ってはなんだが、よくぞ負けたといったところなのだろう。
ジャガースが第七戦まで持ち込んだことで、あの状況が作り出せたのだから。
普通に4-1や4-2で優勝してしまっても、これほどの満足度はなかったであろうから。
上杉正也は東京にまで出てくると、かつての相棒の家を訪れる。
マンションの中は、赤ん坊の生活臭に満ちている。
三人の子供の父親は大変なんだな、と思いつつも正也もそろそろ結婚の年頃だ。
年俸二億を超えるエースなら、選びたい放題だと思うのだが、FA移籍を考えているだけに、また少しきっかけを逃してしまう。
迎えた樋口はもう、動くのにはさほどの制限もない。
あとはしっかり治ってから、ゆっくりリハビリをするだけだ。
特に問題もなく、来年のキャンプには入れることだろう。
だがこの二人の間であると、自然とWBCの話題になってくる。
やはり二つ前の日本が、一番強かった。
以前のWBCも上杉が日本のエースとして投げて、あっさりと勝ち進んではいったものだ。
ただ今回は、上杉がいない。
前回も直史がいなかったが、やはり精神的な支柱としては、上杉の存在の方が大きい。
また大介もいない。
先日発表されたFA移籍のリストに、はっきりと名前があったのだ。
もうMLBの球団のほとんどが、交渉に入っているとも聞く。
ただ資本力のないチームはなかなか、契約するのは難しいだろう。
今年のシーズンオフはドタバタとしている。
とにかく有力選手の移籍が多いからだ。
「お前も将来的に、MLBに行きたいとか思ったりするのか?」
正也の問いに樋口は、ふむと首を傾げた。
樋口はプロ野球選手としてキャリアを残すのは、次の段階へのステップだと思っている。
ただそのために、アメリカにコネクションを作るのは、悪いことではないとも思っている。
だが、日本人のキャッチャーで、確実に成功したと言える選手はまだ出ていない。
坂本がプレイしているのは知っているが、いまいちまだ起用は多くない。
キャッチャーというポジションが、それだけ難しいというものだ。
樋口としてもMLBのキャッチャーは、あまり魅力を感じない。
ピッチャーをリードして試合を制する、あの感覚がないのではと思うのだ。
技術的なものなら、上杉と直史を知る樋口は、充分に通用するだろう。
だがアメリカ的な文化は、樋口はあまり好きではないのだ。
それでもWBCでは、樋口の活躍は目立つ。
そのつもりがあれば、契約する球団はあるような気がするのだ。
何年かだけ、試してみるのは悪くない。
もっともその場合、家族を連れて行くのが大変なことになるが。
「どのみち大卒の俺にとっては、まだ先の話だしな」
樋口が海外FA権を取るのは、その通りなのだ。
ポスティングをするにしても、レックスが絶対に認めたがらないだろう。
それに樋口としても、そこまでフロントと揉めてMLBに行こうとは思わない。
「まあ、来年もまた向こうの決勝でアメリカを叩きのめしたらいいだろう」
のんびりという樋口も、正也と共にWBCの選考メンバーとして発表されるのであった。
とにかく衝撃的な一年であった。
日本プロ野球史上、最も忙しい一年であったと言えるだろう。
キャンプの間から期待は高まっていったが、公式戦の初戦から直史がやらかしてくれた。
そして先発ローテとして間が空いている間には、大介がやらかし続けてくれた。
記録更新の多いレギュラーシーズンは、前年を大きく上回る観客動員数であった。
特にライガースや、直史の登板するタイミングのレックスのチケットは、凄まじい争奪戦となっていた。
レギュラーシーズンを圧倒的な実力で勝ったレックスであるが、プレイオフでは故障者に悩まされた。
ライガースとの試合も、ジャガースとの試合も、共に最終戦までもつれ込んだのだ。
それだけに逆に、プロ野球は盛り上がったわけだが。
そしてそんな騒がしい日本シリーズから一息つけば、大介の海外移籍である。
マスコミの加熱報道などにより、身の危険を感じた大介の対応らしいが、来年は上杉もいない。
大介がMLBに挑むというのは、もう仕方のないことだったのかもしれない。
あの体格のスラッガーが、果たしてどこまで通用するのか、というのは日本人のみならず期待するところだろう。
そんな中で来年のWBCに向けて、選考メンバーが発表される。
もちろんその中には、海外移籍を口にしていたメンバーの名前はない。
既に交渉が始まり、向こうのスプリングトレーニングと重なるからだ。
ただしその中に直史の名前はあった。
またこの時点ではまだ右手が完治していないが、武史の名前もある。
大介のいない日本代表。
それが勝てるかどうかは、やはり投手陣の力にかかっているのかもしれない。
日本シリーズが終わり、FA選手の公示がなされた。
多少の予想はしていた者はいただろうが、ここで大介の海外FA権行使がはっきりとする。
マイナスイメージを力技でねじ伏せた大介であるが、これもまたマイナスイメージになる。
とにかく移籍に保守的な日本の球団は、選手が移籍すると裏切り者呼ばわりしたりするのだ。
もっともそれはNPBだけではなく、MLBにもある程度は言えることだ。
記者会見を開いた大介が述べた、MLB移籍の二つの理由。
一つにはいまだに脅迫などがあり、家族への危険を考えたこと。
そしてもう一つが、いいかげんに世界のイメージを塗り替えたいというものであった。
「メジャーリーグなんて言ってるけど、国際戦には全然選手を出していないでしょう。サッカーなんかスーパースターでも、代表になれば喜んで母国に戻るのに」
そのあたりはサッカーの国際性を野球が持っていないので、仕方のない面はある。
MLBで稼ぐ選手にとって、たとえ多少の報酬が出ようと、怪我をするリスクを考えれば、WBCなどには出るメリットが薄いのだ。
だから大介は煽る。
「俺はメジャーに挑戦に行くんじゃなくて、メジャーを叩き潰しに行くんで。そこのところ間違えないようによろしく」
なんともマスコミだけならず、人間を煽るのには長けた人間であった。
ただ言葉と言うのは、何を言うかではなく誰が言うかが問題になることがある。
シナリオ作成を頼まれた瑞希は、自分でも本当にこれでいいのかな、と三種類ほど用意した中で、一番過激なのを大介が選んだことにため息をついた。
そして大介は、もう一つ明言する。
キャリアの最後は、必ず日本で終えると。
出来ればライガースがいいが、それはその時のチーム事情もあるし、自分がどんな状態かも分からない。
だが五体満足であれば、必ず日本に戻ってくる。
引退するのは、日本でプレイしてからだ。
これまでにも多くのプレイヤーが、MLBへの挑戦に意欲を燃やしていた。
子供のころからの夢であったり、さらなるレベルアップを望むなり、そういうことを口にしていた。
だが大介はそうではない。
そもそも大介もまた、国際戦において、どこかのピッチャーに圧倒されたことなどない。
164km/hだろうが166km/hだろうが、上杉に比べれば遅い。
だから別に、これは挑戦ではないのだ。
ただしMLBという世界が、NPBよりも広いことは認識していた。
マイナーまで含めれば、その選手の数は5000人にもなる。
そして各国のプロのリーグが、メジャーリーグが一番のリーグだと認識しているのは間違いない。
大介は違うというだけで。
これをビッグマウスとは言うまい。
大介には実績がある。
そしてむしろ謙虚なことを言う大介が、ここまで言うのは珍しい。
ここまで言っておけば、下手な成績を残しても、帰国するのは恥ずかしくなる。
退路を断つのだ。
それによってまた、新しい舞台で戦うことを、魂に刻み付ける。
メジャーリーグ何するものぞ。
これまた昭和のプロ野球が、よく口にしていたものである。
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