第62話 可能性の彼方
※ 東方編90話を先にお読みください
×××
おおよその根回しは済んでいる。
FA宣言というのは日本シリーズの翌日から七日間の間にコミッショナーに文書で申請し、コミッショナーから八日目にFA宣言選手として公示され、その翌日から他球団との交渉が開始可能となる。
なので本当は、大介の代理人として野中が動くのはアウトなのである。
ただし大介と野中の間に、代理人として契約した書類などは存在しない。
あくまで一般論として相談し、あくまで一般論として交渉した、という建前が成り立つ。
それにすぐさま契約がなされるわけでもない。
大介の体が空いたとなれば、MLBの他の球団も動く可能性は高い。
ただ当初から大介が、ニューヨークに拠点を絞っているので、そのあたりから自然と条件は絞られていく。
ニューヨークの二球団ラッキーズにメトロズ。
そこそこ近くならボストン、フィラデルフィア、ボルチモアといったところか。
ただ地図では近くに見えても、普通に100kmほどは離れているのがアメリカだ。
車文化なので、移動に時間がかかるというのも面倒だ。
「ボストンは私が少し手を出すから、候補には入れないでね」
セイバーは古巣に対して、そんなことも言った。
フィラデルフィアやボルチモアはあまりオススメではない、とセイバーは言っていた。
やや遠くなるがワシントンという選択もあるが、そちらもやはりオススメではないという。
「ニューヨークならラッキーズかと思ってたけど、色々と理由があるもんなんだな」
大介はのんきなことを言っているが、ツインズは色々と調べまわっている。
アメリカで、MLBで活躍するのに必要なのは、能力ではなく適性だ。
そしてあのマッチョの国においては、大介は外見からして不利である。
今さら言うまでもなく、大介ほどの成績を残していると、MLBで通用するかどうかという話題は出てくるものだ。
その中では色々と理由をつけて、通用しないことにしたい人間がいる。
大介程度の体格で、過去にタイトルを取ったプレイヤーは実際にいる。
だが大介が日本でのような成績を残せるかというと、おおいに疑問が残るらしい。
今年はタイタンズの井口も海外FAが濃厚と見られていて、これまでMLBに興味を持っていない動きをしていた大介は、むしろノーマークに近い。
大介にここのところかかってくる連絡は、むしろ来年に行われるWBCに関するものの方が多い。
上杉の復帰自体が絶望的なだけに、大介はやはり必要なのだろう。
井口もMLB移籍が濃厚となれば、やはり打線が弱すぎるのだ。
上杉、大介、井口、本多といったところが、理由はそれぞれだが出場が難しい。
そして今年から入ってきた化け物は、もう一度WBCに出るモチベーションを持っているのかどうかが謎である。
秋の代表候補に入れるべきは、やはり大介と思っていることは間違いない。
ただし時期的なことを考えると、来年MLBを目指す選手は、WBCに出場することは不可能である。
最初のスプリングトレーニングと言われる、NPBにおけるキャンプのようなところで、アピールする必要があるからだ。
45人の代表候補をまずリスト化しているらしいが、既に断られていることが多い。
またWBCの場合は使用するボールへの適性もあって、真田などはそのために召集されていない。
(樋口はともかくタケの骨折の方は間に合うのか?)
治癒だけならば充分に間に合うが、そこからリハビリして実戦に備えるという点では、これまた間に合わないかもしれない。
そして完治している樋口も、怪我からの調整を理由に辞退しそうである。
直史は日の丸のご威光で参集するかもしれないが、この日本シリーズの酷使がどう影響するか。
今年の日本シリーズは、もう誰が主役かは完全に分かっていた。
クライマックスシリーズの大介と上杉の対決や、直史と大介との対決は、確かに名勝負と言って差し支えないものだったろう。
だが最後の最後で、直史が全部持っていった。
初戦を楽に勝ったあと、中三日、中二日で先発に使われて、そして最後は連投。
さすがに大介でも、本当に大丈夫か心配になった。
自分はまだ、直史に勝っていない。
なのにここで潰れてしまっては困るのだ。
最終第七戦、大介は大画面で試合の進行を見る。
窮屈な配球ではあるが、実際にはミートされている球はほとんどない。
内角の危険なところに投げても、しっかりファールを打たせているところが違うのだろう。
前の試合は完投しながらも、ヒットも打たれてフォアボールも出した。
いざという時に確実に三振が取れないのが、直史らしくないと思ったものだ。
だがそれに比べれば、むしろ連投の今日の方が内容はいい。
大事なところで好打者から三振を奪い、そして球数が増えることもない。
解説者が色々と興奮して話しているが、直史は色々と記録を塗り替えている。
ここまでの三試合で、直史はシリーズ25イニングを投げている。
その間無失点であるため、この最終戦開始早々に、連続無失点イニングという記録を塗り替えた。
また防御率についても一点も取られていないので、0のままであとはどこまでイニングを伸ばすかという話になる。
投球イニングに関しても、四試合に登板した中では、この試合を完投したら記録を更新する。
四試合で四勝すれば、これもまた論理的に超えられない記録とタイに並ぶ。
大介も散々に記録を更新してきたが、打者の記録はまだしも常識的なのだ。
昭和のピッチャーの記録に対抗できる直史は、やはり異常と言うしかない。
序盤をしっかりと抑えて、記録は塗り替えた。
あとはこれで勝利投手になれば、更新できない記録に並ぶ。
もっともジャガースもピッチャーを全力投入して、ロースコアには持ち込むつもりだろうが。
「レックスはやっぱり、樋口がいないと後ろの長打力が活かせないんだな」
レックスの現在のシステムは、全打者ホームラン重視でこそないが、長打をメインに考えたものだ。
その点ではライガースも同じなのだが、レックス打線は打率が低い。
樋口の存在によって、そこで点の取り方の選択が出来ていた。
守備だけではなく攻撃においても、状況に応じて機能しているのが樋口だったのだ。
ある意味樋口は、セイバー・メトリクスからは一番遠い選手と言えるかもしれない。
クラッチバッターであることは言われているが、状況によっては塁に出ようともしない。
その試合の一勝の価値や、点差を考えては打たないことも考えている。
統計や確率があるのを知っているからこそ、逆に無駄には打たない。
とにかく打ってしまう大介とは、そのあたりは違う。
試合が進んで、レックスに点が入った。
だが打線がつながった点ではなく、ホームランによる一点。
まさにこれこそが、統計的に入るホームランの一点なのだろう。
打撃は本来いいはずの岸和田が、シリーズではほとんど打っていなかった。
そしてなぜここでは打てたのか。
大介は画面に映る直史が、かなり頻繁にサインを出しているのを見ていた。
出されたサインに頷いたり首を振ったりする動作はあったが、あれはひょっとしてほとんど自分で組み立てているのか。
それならばキャッチャーの負担を軽くされている、岸和田がバッティングで打ててもおかしくはない。
直史の奪う三振の数は、そこそこと言っていいだろう。
ゴロを打たせていることが多く、MAXの力は出さずに凡打を誘っている。
使っている球種は、珍しくカーブが少ない。
だがその中でスローカーブを使うことは多く、球速の下限を意識させるピッチングになっている。
ただしとにかく今日は球種が多い。
二巡目のバッターに対しては、全く違う組み立てもする。
そして元通りの組み立ても、また使ってしまうのだ。
ひたすらに凡打を打たせて、時には三振を奪っていく。
大介は直史をよく知っているが、完全に理解はしていない。
上杉と投げ合ったあの試合。
大介と対決したあの試合。
それに比べればこの試合は、重要であるがあくまでそれは世間的な基準。
優勝などどうでもいいと、日本一などどうでもいいと、直史は思っているのではなかったか。
「すげえな」
大介はピッチャーではない。
だからピッチャーのモチベーションが、どこにあるのか分からない。
なんとなくここかなと見当は付くのだが、それは普通のピッチャーの場合。
もちろん直史は普通ではない。
大介も最近は、少しずつ分かりかけている。
野球は、バッターとしてあるいは野手として、目の前の相手との戦いだ。
だが目の前の相手だけではなく、ここからずっと続いていくものとの戦いだ。
大介には圧倒的な記録が期待されている。
それはことごとく上回ってきたという自信があるが、またその舞台が変わる。
結局人生というのは、確かに対戦相手があったり、その状況で最大のパフォーマンスを発揮するのが求められたりするが、究極的には自分との戦いなのだろう。
直史は高校時代、本物の強打者と対決していない。
あるいはこれまで一度も、強打者と対戦したという意識がないかもしれない。
もしそうだとしたら、大介としては悔しいことだが。
試合に勝つこと。もっとも確実に勝つこと。それを追求してしまっていくと、もう誰も到達できないところに一人佇むことになる。
だがその場所から、また歩いていく先があるのだ。
走るほどに急ではなく、道のない道を歩いていく。
それは野球に対する姿勢というだけではなく、人生そのものなのではないだろうか。
直史のピッチングに、アナウンサーは絶叫したり、呆れたり、あうあうとうめいたり、とても忙しそうだ。
またゲスト解説者の元プロ野球選手は、ジャガースの攻撃の時には完全に沈黙している。
その眼に映るものを、全て脳裏に刻み込むように。
解説者が解説をしていない。
直史は打たれない。
何があっても打たれない。
見ている者に、常に必勝の意識を抱かせる。
そのバックを、かつての大介は守っていたのだ。
今のレックスのショートの位置からは、どんな光景が見えているのだろう。
オールスターでは何度かその機会があったが、お祭りと実戦は違う。
大介はただ、試合の展開を見守る。
「俺なら打てるのに」
直史の中には、まだ予備のタンクが残っている。
大介にはそれが分かるが、おそらくジャガースではそれを暴くことは出来ない。
そう思っていた七回には、なんと自己最速をいきなり更新したりもした。
直史が削っていっているのは、スタミナではないことは間違いない。
どれだけ優れたピッチャーであっても、本当に気絶するまで投げるというのは、大介もまず目にしたことがない。
高校時代に直史が倒れた時も、あれは単純な疲労ではなかった。
こんなことを言ったら明らかに直史は否定するだろうが、直史はおそらく、精神力で投げている。
それがオカルトと言うなら、集中力だ。
脳はそもそも多くのエネルギーを消費する器官であることは確かだ。
直史はさらにそれをクロックアップし、配球を考えて、過去の打席の反応を入力し、自分の肉体を制御して、投げるべき球を投げる。
頭脳による戦いの将棋は、途中で糖分を補給して、ひたすら脳に糖分を供給する。
AIによる判定で、ある程度の計算は出来ている。
直史のやっていることは、そういう部類になるのではないか。
ならばそこに、パワーやスタミナはさほど必要ではない。
全く違う野球を、直史はしている。だがこれも野球だ。野球のルールの中で行っているのだから。
そしてその時がやってくる。
リードした状態で、直史が投げているのだ。
だが日本シリーズ第七戦で、連投の試合なのだ。
いくらなんでもそれは、と誰もが思ったことだろう。
ただ直史は、これまでも常識を書き換えてきた。
大介も思うことだが、常識は人の可能性を狭めるだけだ。
たとえ天才しか到達しえないものであっても、その限界を勝手に決めるのはよくない。
誰が本当の天才なのか、誰も分かっていないのだから。
沈黙したまま、大介は試合を見続けた。
そしてそれは、舞台が終わるような整合性を見せて、ついに到達した。
浅く息をしていた大介が、ようやく大きく息を吐いた。
その両手をそれぞれ、ツインズが握り締めていた。
ここにいる三人は、誰もが直史を信じていた。
だが直史がどれだけのものかは分かっていなかった。
理解した。
今度こそ本当に理解した。
理屈でもなく、感情でもなく、たが現実がそこにある。
それをそのまま受け止める以外に、何も方法はない。
来年は、直史と対戦することはない。
次は再来年だ。
日本を離れた地で、直史は本気になることがあるのか。
そこだけが大介は心配である。
今シーズンの全ての試合が終わった。
そして勝者が残った。
奇跡が起きて、栄冠は彼に輝いた。
大介もまた、その栄冠を取り戻しにいこう。
今、その手の中にある、全てのものは捨ててしまえ。
富も栄光も名誉も、全てを捨ててようやく、また大介は挑戦者になれる。
そしてそれらのものを捨てたところで、幸福は両手に抱える二人の女と共にある。
「負けられないな」
直史のいないアメリカで、何を期待するのか、大介には疑問があった。
だがそんなことはどうでもよく、今よりもさらに野球が上手くなることを考えればいい。
日本プロ野球史上、最も偉大なシーズンは終わった。
だが幕引き後の舞台挨拶は、まだ終わっていないのである。
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