第60話 マネー・ボール

 それは共通の知人からの連絡であったので、簡単には無視出来なかった。

 無視出来なかったと言うよりは、本来ならお互いにマイナスのイメージしか持っていないはずなのに、なぜ彼女からの連絡が来るのかが分からなかった。

 そんな好奇心から、彼はその連絡を受けた。

 画面の中にはあの、忌々しい金髪の小娘が映っていた。

『ハロー、いえ、そっちはグッモーニンかしら?』

「どちらでも構わんよ。わざわざ挨拶を気にするような仲でもあるまい」

 彼にとって時間というのは、金に換算出来るものだ。

 老い先短いかどうかは分からないが、少なくとも若くはない彼にとって、時間は貴重なものだ。

 あるいは金よりも貴重な、この世で唯一のものだ。

『じゃあ本題に入るわ。貴方の持っている球団の話だけど』

「球団?」

 もちろんそれは、彼の財産の一つだ。

 そして同時にステータスでもある。

 

 ニューヨークをフランチャイズとする、二つのMLB球団の一つ。

 ニューヨークメトロズのオーナーというのが、彼の肩書きの一つだ。

 そしてメトロズの株式の90%以上を所持する、実質的なワンマンオーナーでもある。


 彼は思い出した。

 この小娘の履歴を洗った時に、ボストンのMLB球団に勤めていたことがあると。

 だが最近は日本の方の活動が活発で、金銭的な流れはともかく、生活基盤は日本の方が多かったのではないか。

 企業買収やファンドに関する駆け引きで、鬼のような損失を与えられたこともある。

 だがいくつかの知人は共通のもので、価値観的には似たようなものがある。


 ビジネスの話はすることが出来る。

 だがお互いに相手を食い合ったこともある。

 そんな小娘も、もういいかげんそこそこの年になっているはずだが。

「私の球団になんの用が?」

『GMに一つ電話をかけてほしいだけ。もうすぐ日本の最強のフィールダーが、FAになることを』

「ふむ?」

 球団の編成は、もちろんGMの案件である。

 だがGMの任命権などは、もちろんオーナーにある。

 小娘のかけてきたこの連絡は、つまりその手間を省くものであったのか。


 ニューヨークは多民族の住む街だ。

 大都市は人口を抱え、娯楽が発達している。

 もう一つ球団はあり、ニューヨークラッキーズは事実上、MLBのチームの中でも頂点に立っていると言っていい。

 彼はいつも、一人では届かない目の上のたんこぶを、自分のチームで叩き潰したいと思っている。

「それはつまり、オダのようなプレイヤーなのかね?」

『今年は143試合で四割を打って、70本のホームランと70個の盗塁を記録したわ』

「待て、四割?」

 マーケットではない日本のリーグには、さほどの興味はない。

 だが有望選手の供給元としては、ある程度の知識がある。


 日本人選手は当初、ピッチャーで成功することが多かった。

 だがイチロー以降は野手の成功者もそれなりに出てきて、全く耳に入らないということはないのだ。

「そういえば何年か前、日本のリーグで四割打者が出たとあったな」

『ええ、彼のことよ』

「分からんな」

 彼が言ったのは、小娘がこの話を持ってきたこと。

 彼女との関係は、あまり良いものではない。

 ビジネスの仕掛けというのは、今では一つを潰せば、それで逆に損をする人間が多い。

 若い女であっても、正しく賢く金を使えば、それはいくらでも増やせるものだ。

「なぜ、私に有利な情報を教える?」

『それは貴方が、ほぼ一人で球団を決められるオーナーだから。それに私は三年後により大きく儲けさせてもらう。その時のための投資』

「ほう。で、私がそれに興味を持たなければ?」

『ラッキーズに話を持っていく。けれどそれなら、確実ではない』

 ラッキーズはオーナーが複数に渡って権利を持っている。

 GMに話を通すにも、時間がかかる。


 投資というのは、長期的な視野を持たないといけない。

 だが一秒の時間差で、巨万の富を失うこともある。

『返事はいらないわ。FAの情報が回るのを待っていて』

 それだけを言って、あの生意気な小娘は通信を切った。


 考えることは、ほんのわずか。

 時間は最も大切なもので、考えることすら他の誰かにある程度委任する。

 彼が所有する球団のGMに電話をかけたのは、すぐ後のことであった。




 セイバーの考えていることの全てを、早乙女が理解しているわけではない。

 この小さな金髪の小悪魔は、学生の頃から遠い先を見ている。

 とても遠くを見ながら、足元から一歩を踏み出す。

 そして富へのものだけではないロードマップを、踏み外さずに歩いていく。


 今回の判断には、もちろん疑問があった。

「ラッキーズじゃなくメトロズなのね」

 ラッキーズはその資本力からして、MLBでも一二を争う球団だ。

 普通に考えれば、ニューヨークならあちらだろう。一人のオーナーに権力が集中してもいない。

 さらにコネの太いボストンの球団でもない。直史に投げさせたアナハイムでもない。

「スタートがどこであるかは、あまり問題じゃないのよ。メジャーリーガーなら球団を渡り歩くのは普通だし」

「けれど同じニューヨークの球団に……ラッキーズには入れないつもりなの?」

 こと金銭感覚において、セイバーの発想は早乙女の常識を大きく逸脱する。

 たった一つの情報で、一日で3000億ドルを動かしたこともある。

 もちろんそれは、全てがセイバーの手の中に入ったわけではないが。


 単純に贅沢に生きていくだけなら、彼女はもう何もする必要がない。

 だが世界を動かし始めてしまったら、人間はもうそのスリルから離れることが出来ない。

 スリルというか、快楽というか、これをやることが人生になってしまう。

 自分の思考によって、社会が、世界が動く。

 スポーツ選手や作家もまた、その作業によって世界を動かす。


 まさにこれは、支配者の思考と言うのだろうか。

 街づくりや国づくりのゲームが、面白いのと同じだ。

 何よりこれは、リアルである。


 人間の欲望の、究極的なもの。

 それは三大欲求よりもはるかに大きく、ごく一部の人間にしか与えられず、それだけに一度味わってしまったらもう手放せない。

 権力欲だ。

 セイバーは経済的な動きに特化しているように見えるが、この資本主義世界においては、経済を動かすということは即ち世界を動かすということである。

 実際、ホワイトハウスからスカウトを受けたこともある。

 また世界的なファンドからもスカウトと言うか、共同経営者にならないかと誘われたこともある。

 だがセイバーはショービジネスの世界を好んだ。


 アメリカで経済を学んだとはいえ、それはあくまでマネー・ゲームであったはず。

 それがショー・ビジネスの世界に及んだのは、これが究極的には、本来人間に必要のない分野であったからだ。

 歌で世界を動かせるか。

 夢で世界を動かせるか。

 動かすために、セイバーは生きている。

「これから五年ぐらいが忙しくなるわね」

 金髪の小娘は、純粋で悪辣で、そして美しい笑みを浮かべるのである。




 MLBにおいても、ショートというポジションは特別である。

 守備の花形であり、深く鋭いところへボールが飛んでくる。

 足の速いバッターならば、内野安打を防ぐために、肩の強さも必要になる。あるいはピッチャーや外野以上に。

 ショートからピッチャーへ転身した選手などもいるのだ。


 そんなショートを守れて、しかも打てる選手となると貴重だ。

 現在のニューヨークメトロズは、去年年俸が高騰し始めたベテランを放出し、今年は若手を試していたが、完全に定着する選手はいなかった。

 メトロズのチーム編成の最高責任者であるGMビリー・ビーンズは、常に選手をチェックしている。

 今年のメトロズはショート以外にも、年俸に折り合わない選手を放出し、少しサラリーに余裕は作ってある。

 だがオーナーは常に、安く勝つことを求めるものだ。

 そしてそれはオーナーとしても正しいことだ。経営者として当たり前のことだ。


 GMとしても資金が限定されている状態で、チームを作るというのは楽しい。

 楽しいが、ずっと続けるのも辛いものがある。

 年俸が高騰したスタープレイヤーをトレードで出せば、ファンの怒りはまずGMにぶつけられる。

 編成に使える金銭を、オーナーと交渉して増やすのも、GMの仕事だ。

 少なくともここ数年のメトロズは、経営としては黒字を続けている。


 ただそろそろ、またワールドチャンピオンを狙っていく時期だろう。

 お手ごろ価格のベテランと、年俸が安い有望な若手が育ってきていた。

 特に先発とクローザーのあてが出来てきただけに、来季は少し大型の補強をすれば、計算上は勝てるチームを作れる。

 そう考えていたビリーに、オーナーから電話がかかってきたのだ。

 その内容は短く、今年のFAで日本の大物ショートが市場に出るということ。

 ポスティングではなくFAで、そして日本。

 ショートのような身体能力オバケのそろうポジションに、日本人の入る余地があるのか。

 もちろん日本人野手は、身軽で小回りのきく者も多いが、致命的にMLBのスピードについてこれないことがある。


 日本のプロのショート。

 そして今年FAになる。

 そこまで考えて、ビリーは首を傾げた。

(あいつは、そういえばポスティングはしていなかったか)

 WBCという、MLB機構にとっては大切であるが、オーナーにはさほどの利点もない大会。

 メトロズにしても、実戦で試してみたいと思った、若手を出場させた経験はある。

 そしてここ二回は、両方とも日本に決勝で負けていた。


 野球が国技の国としては、そんなことでいいのかということも考える。

 だがアメリカはメジャーリーガーの一線級を出していない。選手にとってリスクにリターンが見合わないからだ。

 対して日本は、おおよそ国内のリーグからベストメンバーを参集する。

 4Aクラスとも言われる日本のリーグのトッププレイヤーなら、それはアメリカに勝ってもおかしくない。

 それに日本人は、野球であれば短期決戦に強いとも見られている。

 その背景として、ハイスクールの大会がワールドシリーズ以上の観客動員を果たすと知ったときは、へんな笑いが洩れたものだが。


 日本のショート。そしてFA。

 検索したら出てきたのは、あの決勝でもホームランを打ってアメリカを撃破した、小さなスラッガーが出てくる。

(なるほど、さすがに日本では狭くなったか)

 アメリカでは打率よりも、出塁率と長打の価値が重視されてきているため、日本ほどの打率は重視されない。

 それでも三冠王という概念自体がないわけではないし、そもそも出塁率が五割を超えるというのはなんなのか。


 日本に限らず、他国のプロリーグだけではなく、アマチュアリーグの情報も、全てMLBは集めている。

 そして出てくるデータに、ビリーはさすがにコーヒーを噴出しそうになった。

(今年も打率四割にホームラン60本がアベレージだと? それでさらにホームランよりも盗塁が多いのか)

 メトロズは基本的に、盗塁と送りバントをしないチームである。

 だからそこは評価しないとしても、それだけ足が速いことは間違いない。


 WBCでも確かに三番として、ポコポコと打っている。

 国際戦での打率は五割を超えていた。

「6フィートもないのに、これだけ長打もあるのか」

 その体格から、そもそもスカウトの対象から外れていたのか。

 それにこれまでポスティングはせず、日本国内にいたのだ。

 年俸は1200万ドルにインセンティブと、MLB基準ではそれほど高くはない。

 だがMLB実績のない選手に払うには、高めといっていい。


 金額と契約の内容によっては、確かに獲得の余地はある。

 ビリーは日本選手のスカウトにむけて、また電話をかけるのであった。




 日本のプロ野球というのは、かつて二線級のメジャーリーガーや、3Aの選手にとっては出稼ぎの場所であった。

 今でこそここまでMLBの年俸は高騰しているが、3Aの待遇はNPBの二軍よりも悪かったりする。

 それに日本のバブル期は、メジャーの選手でもやや衰えていても、充分に戦えたという理由もある。

 逆に日本から本格的にメジャーリーガーになる選手は、なかなか現れることはなかった。


 これは当時の日本のプロ野球の閉鎖性が関係している。

 全盛期の長島を使いたいといったMLB球団はいたし、他にも記念受験的に、キャリアの晩年にMLBへ行ってみた選手はいるのだ。

 だが本格的に日本人選手がメジャーで通用することを示すのは、20世紀もかなり終わりごろの、野茂英雄の登場を待つこととなる。

 これは今からは理解できないだろうが、日本のプロ野球界の閉鎖性が野茂を拒絶し、そして野茂がメジャーで活躍したことにより、無理やりその閉鎖性を破壊したとも言える。

 アメリカの選手殿堂には入らなかったものの、日米の選手交流の最大の貢献者は野茂英雄である。

 名前が英雄で、まさに英雄のごとき業績を上げたとは、それなんてラノベの世界である。


 その後は野手においてもMVPや打撃タイトルを取る選手が登場し、高額年俸のMLBは、日本人選手が目指す最高のさらに上という認識になっていった。

 別に金にもこだわらないし、アメリカに行きたくもないという選手、あるいは一つの球団にずっといたいと思った超一流選手もいたが。

 大介の場合は、とりあえず日本国内で満足している、というのが自己の認識であった。

 上杉の選手生命に関わる怪我と、今回の騒動がなければ、特に変化なく来年も日本でプレイしていたことだろう。


 大介がMLBに挑戦をすることに興味がない理由としては、MLBには上杉より速い球を投げるピッチャーはいない、と答えることが一番多い。

 その上杉がいなくなれば、興味の対象も変わってきておかしくない。

 ビリーの指示を受けた、メトロズの日本担当スカウトは、まずその代理人を調べた。

 アメリカでもたびたび代理人として登場するドン野中は、普通に面会をした。

 だがこの時期、まだFA宣言の期間に入ってはいない。

 それがこの段階で接触してくるというのは、話のしようがないのである。


 だからあくまで一般論として、大介が契約に対して、どういう考えを持っているかという話になった。

 そして野中が答えるのは、インセンティブを好むということである。

 特にプロ入り二年目には、年俸100万ドルほどに対して、インセンティブが200万ドルほどにもなったという話をした。

 そのインセンティブの内容は、他の誰が聞いても、まあ達成出来ないだろうなというものであったが。

 達成してしまうのが大介である。




 野中がセイバーから聞いていた条件は、二年1200万ドルにインセンティブというものである。

 だが野中もまた一流の代理人、その言われたとおりの金額を提示するほど甘くはない。

「二年契約で一年目は600万ドル、二年目は1800万ドル。ただし二年目の契約はチームが持つというのはどうかな?」

 これはあまりにも、自信のありすぎる内容である。

 600万ドルは現在の大介の年俸の、約半分となる。

 しかし1800万ドルならば1.5倍となり、つまり二年を現在の年俸と同じで雇えることになる。

「ただし、さらにそれにインセンティブは別で」

 野中の提案は図々しいように思えるが、冷静に金額を見てみると、それほど法外というわけではない。


 まず一年目の600万ドルというのは、MLBの実績がなくても、NPBのトッププレイヤーとしてはありえなくはない金額だ。

 そして二年目の1800万ドルというのは、高いことは高いが、球団側がそれに値しないと思えば、切ってしまうことが出来る。

 それなりの打撃成績を残せる選手なら、1800万ドルというのは高くはない。

 あとはインセンティブであるが、そこまではさすがにここで話すべきことではない。


 FA宣言もされていないうちから、自分にこの話が下りてきた。

 そして代理人も、一般論として話を用意していた。

 おそらく上の方で、話がリークされていたのだろう。

(今の成績で二年2400万ドルは普通どころか格安だ。何より二年目の契約の権利が球団側にあるというのがいい)

 具体的な話は全くないながらも、お互いに実りのある邂逅であった。

 なお大介のインセンティブは、普通に考えればとても達成できそうにないか、一割ほどしか達成出来ないであろう条件だと考えるべきものだと野中は思っている。

 ただし彼自身は、九割ほどは達成するだろうな、とも思っていた。

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