第58話 MLBという世界
大介は別に、MLBに行こうと思ったことはなかった。
NPBと比べてどちらが面白いか、また生活する上でどちらがいいか、ごく普通の感覚で考えていたのだ。
ロックアウトや薬物疑惑、20世紀末頃からMLBの人気は、陰りを見せていると言っていい。
実際に北米三大スポーツの中では、NFLやNBAの方が今は人気は上だとすら言われる。
それに少なくとも今のMLBには、170km/hを投げられるピッチャーはいない。
もっとも人類史上、上杉より速い球を投げられるピッチャーは、まだ存在していないのであるが。
改めて調べてみると、MLBのベースボールと、日本の野球の間には、かなりの価値観や人気の違いが見えてくる。
セイバーの言っていたことの意味が、調べてやっと分かってきたりする。
もっともツインズは、以前から調べることは調べていた。
MLBはその傘下のマイナーまで含めれば、5000人の選手を抱えている。
日本における二軍と違い、マイナーは下部組織ではあるが、独立採算でやっていることになる。
大介はおそらく、最初からメジャーの枠に入れるだろうが、それでも春先のキャンプにあたるスプリングトレーニングで、ある程度の実績を見せないといけないだろう。
普段はデータ解析や動作解析などに使っているパソコンが、ようやく検索機能をフルに使わされる。
単純な記事やブログなどを色々と追っているうちに、日本では使っていない用語などがごろごろと出てくる。
「ぜいたく税ってなんだこりゃ? いや、なんか聞いたことはあるかな?」
ライガースにもアメリカからやってきた選手はいたし、アメリカに渡ろうとした選手もいた。
だから大介もある程度は聞いているはずなのだが、あまり意識して憶えていない。
このあたりMLBは、選手だけの力では成功しない世界と言える。
「サラリーキャップに似たものなんだけど、MLBはそれをオーバーした分を罰金みたいに払うの。そしてそれを他のチームに分配するってこと」
「ああ、あれか。金持ち球団が有力選手を独占しないようにってやつだっけ」
「そうそう。でもやっぱりフランチャイズのホームの人口が多いほど、収入も多くなるから人気球団は強いんだけどね」
「あたしたちも調べてたけど、日本の野球はまだスポーツって言えるけど、MLBはもう本当にビジネスだもんね」
セイバーがなぜ興味を持ったのか、分かるというものだと二人は頷く。
大介としては単純に、パワーとスピード重視の野球だと思っていた。
確かにグラウンドの中は、まだしも野球である。
だがロッカールームに入れば、そこからはもうビジネスの世界である。
「日本では最近大型トレードは少なくなってきてるけど、メジャーはむしろトレード期限でどんどんトレードするからね」
「セイバーさんは言ってなかったけど、大介君もチームの状況次第だとトレードはあるよ」
「なんじゃそりゃ」
確かに調べている中で、MLBはFAでの移籍が多いことは分かってきた。
トレードも相当に多いが、最近は日本においては、シーズン中のトレードは少なくなってきただろう。
ドラフトと育成が、現在の主流。
制度が変わるごとにFA移籍もあったりはするが、大型契約を結べる選手以外は、あまりFA権を行使しないようになっている。
ただ、アメリカは本当にビジネスの国だ。
日本にしても球団は最近経常黒字を出しているが、一時期は完全に赤字ばかりの時期もあった。
下手をすればタイタンズとライガース以外は、全て赤字だった時代もあるとか。
それでもオーナーが球団を持っていて、親会社が赤字分を補填していたのは、それがステータスであったからだ。
大介も馬主になったことで、全く知らない人間とのつながりが出来たりした。
そこまで考えていなかったかもしれないが、ステータスを積み上げていくことによって、人間はその社会の中で上のステージに上がっていくのだ。
アメリカにしてもMLBの球団オーナーというのは、間違いなくステータスだ。
ただそこにじゃぶじゃぶと金をつぎ込むほど、甘くはないのである。
「まあ最初の二年は関係ないと思うけど、FAになってからは大きく動くと思うよ」
「それでもピッチャーじゃないなら、それほどでもないと思うけどね」
ピッチャー、特に絶対的なセットアッパーやクローザーは、トレード期限で大きく動くことがある。
またキャッチャーなどのポジションに、怪我人が出たときもだ。
開幕から投打に怪我人が出て、今年の優勝はとても狙えなくなったチームがあったとする。
そこには絶対的な高年俸のクローザーがいるが、先発が打たれて打線も点を取れないのでは、宝の持ち腐れだ。
対して他のチームが、せっかく今年は優勝が狙えそうなのに、クローザーが故障離脱したとする。
すると優勝を諦めたチームはクローザーを、相手のチームにいる有望な若手とトレードするのだ。
故障者が続出したチームは、若手を育成して来年以降に強くなることを考える。
そしてクローザーが離脱したチームは、その高年俸のクローザーを使って、しっかりと勝ち星を積み重ねていく。
これなどは非常に分かりやすいトレードの例だ。
「なるほど」
大介はある程度理解した。
日本のプロ野球は今でも、ある程度チームと選手が一つというイメージがある。
だがMLBにおいては少なくとも経営陣は、選手はチームを構成する要素にすぎないと思っている。
もちろん一球団に長くとどまり、フランチャイズプレイヤーと言われるスターもいるが、基本的にアメリカでは環境が変わることを、ステップアップと考える。
石の上にも三年などという諺が残る日本とは、価値観からして違うのだ。
同じ会社にずっと10年も20年もいると、他の会社からのヘッドハンティングも受けないか、自分で起業することもない人間という扱いになったりする。
このあたりはどうしても、日本人には理解しづらいものだろう。
大介としては愛着のあるチームなら、多少の年俸の違いがあっても、同じところにとどまりたいと思う。
そのあたり大介もまた意外なことに、保守的な気質を持っていると言えるだろう。
そんなことで成績に見合わない年俸で満足していれば、それは逆に他の者に迷惑となる。
アメリカにおいてはその成果に見合う報酬を得ないのは罪ですらあるのだ。
日本においても昔は、大物選手の年俸を理由に、他の選手の年俸が低く抑えられる時代があった。
あのあたりは完全に、球団による選手からの搾取であったと言えよう。
「考え方次第でさ、今度はどのチームに行くのかなとか、どういう球場でプレイするのかなとか、色々変わるのも面白いと思うよ」
「チームを応援してるファンにとっては、今年はどんな選手でチームが作られるのかなってワクワクもあるだろうし」
楽しみ方が日本とは、全く違うということだ。
セイバーも野中も言っていなかったが、大介の出していた条件、東海岸のチームを選ぶというのは、実はかなり面倒な条件だ。
金銭的に見た場合、大介の二年1200万ドルプラス出来高は、それほど大きなものとは言えない。
だが、だからこそ資金規模の小さな球団でも、興味を示すはずなのだ。
ポスティングであればライガースにも移籍の金を払うため、金満球団に限定される。
しかし大介はFAなので、別にどこと契約してもいい。
「でもお前らはニューヨークがいいんだろ?」
イリヤが本拠としており、ワールドカップで会ったアメリカのミュージシャンなどは、やはりニューヨークに集まっていることが多い。
ただアメリカの大金持ちであると、普段は全く違う州にいて、仕事の時だけプライベートジェットでニューヨークに集まることもあるのだとか。
また音楽関係ではなく映画関係なら、西海岸のハリウッドが文化の中心だ。
イリヤもプライベートジェットは持っているのだとか。
だから用事があればそれを使わせてもらえばいい。
「じゃあニューヨーク近辺にこだわる理由はないのか?」
「でもお金持ち球団はやっぱり、東海岸と西海岸に多いよ」
便利なもので現在は、ネットがあれば多くの情報を得ることが出来る。
もっとも一番はやはり、実際に現地にいる人間から、話を聞いてみることだろう。
MLBの試合自体は普通に見られるし、WBCであちらのスタジアムも経験したことがある。
だがMLBの内情については、MLBに移籍した日本人選手や、向こうでMLBに馴染めなかった選手の話を、表層的になぞっているだけだ。
一年目、現役バリバリのメジャーリーガーである矢沢が、契約の折り合いが付かず、ジャガースに戻ってきていたことがあった。
日本シリーズではエースとして出てきたが、大介にあっさりとホームランを連発されていた。
あれがMLBのトップクラスの選手とするなら、どうにかなるかな、とピッチャーのレベル的にはそれほど脅威を感じていない。
レックスから行った東条や、ライガースから行った柳本。
柳本は少々年齢が上だったため期間は短かったが、それでもメジャーリーガーとしてかなり活躍していた。
あとは大介のポジションの問題もある。
「一番バッター打たされそう」
「三番はないかもね」
「打順はともかくポジションはどうなんだ?」
「MLBのショートは本当に花形で、キャッチャーの次に守備貢献度が高いって言われてるね」
「多分大介君のバッティングを活かすために、サードか外野にコンバートするんじゃないかな」
「中学時代には外野も守ったことあるけどな」
大介は肩が強くて足が速く、肉体に柔軟性があって切り返しも速いので、専門的過ぎるキャッチャー以外ならどこでも守れる。
キャッチャーも守ったことはあるが、さすがにあれは勘弁してほしいというのが本音だ。
あとはメイクアップという言葉もある。
「セーラー戦士じゃないよ?」
「あ~、手塚先輩がなんか言ってたような?」
「選手を獲得育成するにあたって、本人の人格までちゃんと考えて取るっていうね」
長期契約を結んだ選手が、いきなりパフォーマンスを落として不良債権になる。
それはアメリカでも問題になっているのだ。
MLBはNPBに比べると、はるかに長期契約というものが大きい。
そのあまりのリスクの高さに、最近は10年契約などはなくなってきたが、それでも普通に五年や七年契約がある。
大介は日本でさえ、緊張感を持ってプレイするため、単年契約を続けてきた。
上杉もそうであったが、MLB的な価値観からすると、長期契約はその選手への信用を示す。
なのでやっぱり、下手に一人が単年契約だけをすると、周りは迷惑するらしい。
「アメリカでも同調圧力ってあるんだな」
大介は彼にしては珍しく、あっさりとそれを理解した。
大介は二年、あるいは三年で最初の契約を結ぶべきだろう。
最初の契約は安くてもいい。どうせ大介なら、すぐに高い評価を得られるだろうからだ。
そもそもメジャーでは、三年やって一人前、というぐらいの判断基準があるらしい。
最初の一年や二年は身体能力などで通用しても、精神的肉体的なタフさがないと、あっという間に壊れてしまう。
大介もMLBの試合の日程を見れば、確かにしんどそうだなとは思う。
NPBは基本的に、レギュラーシーズンは週に一日は休みがある。
もちろんそれも移動である程度は潰れるが、MLBは移動したその日に普通に試合をする。
特に大変なのはピッチャーではなかろうか。
日本の場合は先発は、予定のない三連戦では自宅で過ごしたり、あるいは調整のために先に現地に入っていることがある。
だがMLBは飛行機での移動の場合、全員一緒で移動するのだ。
これは直史には悪いな、と思った大介である。
今年はレックスの寮に入っていた直史だが、来年からは千葉に近いマンションに住むはずだったのだ。
関東には球団が多いので、家にいられる時間が増えるはずだった。
それに瑞希が、アメリカにも着いていくのか。
あるいは単身赴任、などということも考えられた。
「瑞希ちゃんは付いていくよ」
「ラブラブだからねえ」
ツインズの判断によるとそうなるらしい。
大介が記者会見して海外移籍を発表するのは、FA宣言後のことになる。
つまり日本シリーズが終わってからだ。
このFA権についても、MLBとNPBでは大きな違いがある。
NPBでは選手の宣言が必要になる。つまり行使する権利だ。
MLBでは一定の期間、あるいは年齢によって自動的にFA権をもらえる。自動的な権利なのだ。
「オプトアウトが必要かなあ」
「う~ん、それまで付けられるかなあ」
「ああ、MLBにもあるのか」
オプトアウトは契約期間の途中でも、選手が新たに契約を違う条件で結びなおすことが出来ることである。
これは本当に超一流の選手が獲得出来る契約内容で、しかしながら常に成績を残し続けなければいけない。
ライガースの中では確か、山田がそうだったはずだ。
長年ライガースに貢献してきた、育成の星。
10年連続二桁勝利の彼は、もうライガースに骨を埋めるつもりであるらしい。
西郷あたりにも複数年契約の話はあるのかもしれないが、おそらく西郷も大介と同じく、単年で緊張感を持ってやりたいというタイプであろう。
ライガースとしては基本的には、もちろん超高額の年俸を払ってでも、大介にはいてほしかっただろう。
だが大介は選手としてのグラウンドでのパフォーマンス以上に、球団の利益に貢献している。
これ以上年俸が高騰すれば、さすがに他の選手との格差が大きすぎる。
かといって今の評価方式では、他の選手と大介を比べれば、さすがにどうなのかという話になる。
球団側は大介の、三冠王などのタイトルに対して、価値があると認めている。
西郷などは三冠部門の全てで五位以内に入っているが、それでも大介の半分の年俸もない。
大介にはやはり、MLBに行くしか方法はなかったのだろう。
上杉の高額年俸は、大介と違ってチームキャプテンとしての役割も果たしていた。
大介にはそういったタイプの魅力はない。
あくまでも野球好きのやんちゃ小僧というのが、今でも大介のイメージである。
そのイメージに今回の騒動は、かなり印象を変える影響があったが。
記者会見はライガース球団の用意した場所で行われることになっている。
その内容についても、事前に話し合ってはいる。
球団の方からすると、やはり今回の騒動は大きな痛手であった。
だがあの記者会見で、少なくともかなりのマイナスイメージは払拭できた。
球団が大介を放出するのは、ある意味球団としてのケジメに見えるかもしれない。
そして大介はMLBに移籍する。
もう挑戦などとは言わない。
海を渡るのは、単に活躍する場所を変えるだけ。
あちらでも存分に暴れて、その化けものっぷりを発揮してきてほしい。
色々と準備は出来ていく。
日本人内野手でこれまで、大きくMLBで成功した選手はいない。
だが大介なら、と誰もが思う。
逆に大介でも通用しないのなら、どれだけMLBというのは魔境のリーグなのか、というものである。
「実際に本格的に向こうに行くのは年明けぐらいか」
そこから身の回りを整えて、日本におけるキャンプと似た、スプリングトレーニングが始まる。
それからオープン戦の結果を見て、メジャー契約を結ぶかどうかを決めるというわけだ。
「結局日本でナオと戦えたのは一年だけだったな」
そう呟く大介に、ツインズは言っていないことがある。
それは大介と直史が対戦する機会は、あるいは年に一度もないかもしれないということだ。
メジャーの球団は30球団と、日本の球団の倍以上。
対して試合数は160試合ちょっと。
つまり一つの球団と対決する回数は減る。
ましてリーグが違ってしまえば、というものだ。
またこれだけチームが多いと、一人の力では勝ち進めない。
ワールドシリーズの頂点で戦う機会があるのか。
それはさすがに、神のみぞ知るというものである。
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