第57話 FA

 FAとはフリー・エージェントの略である。

 そもそもフリー・エージェントというのが何かと間単に説明すると、他のどの球団とも契約できる、というものなのだ。

 高卒選手の場合は、八年間をほぼ一軍で過ごしていれば、その権利を得られる。

 ただしこれが海外FAとなると、九年が必要になる。


 元はと言えばMLBの制度であるが、日本にも似たような制度はあった。

 だがこれが正式に認められ今の形になるのには、色々と紆余曲折があったのだ。

 MLBにおいては長い間、選手の移籍が認められなかった。

 すると一方的に選手は、安い年俸で契約せざるをえなくなる。

 選手と球団の対決の末、裁判まで行われて勝ち取られたのが、FA権である。

 ただこれによって、やはり問題は起こった。

 球団間の戦力格差である。


 どの球団とも契約できるとなれば、選手はどういった球団を選ぶだろうか。

 単純に考えれば、年俸の高い契約を結んでくれる球団であろう。

 高い年俸が出せるというのは、つまり大都市で興行収入が多く見込める球団となる。

 少数の球団に優れた選手が集まり、そして人気もそれらが中心となっていく。

 球団の格差は問題となった。

 それを解消するための制度も、色々と考えられてきた。


 バランス的に言うなら、今のMLBは毎年のように優勝チームが変わり、戦力均衡はかなり成功していると言っていい。

 日本にはないがラグジュアリータックス、ぜいたく税と翻訳されるものがあり、年俸総額が一定以上を超えると罰金が払われることになる。

 日本と違ってドラフトは全て前年の順位が低いチームから指名されていく完全ウェーバー制で、より才能のある選手を下位球団が取りやすいという現実もある。

 またFA権を得るまではMLBの下限に近い安いコストで、いい若手を使っていけるという状況もあった。

 ただこれは日本が関連して、現在では変化している。

 3Aなどのマイナーリーグでプレイする選手などは、年俸が日本円で300万円にも届かない。

 さらにシーズン中以外は給料が払われないなどという状況ですらあった。

 そんなマイナーの選手を日本のスカウトが、5000万円程度の比較的安い年俸で日本に持ってきて活躍させる、というシステムが成立しかけたのだ。

 これではMLBもたまらないとこれを禁止しようとしたのだが、これはアメリカの選手たちの反感を買った。

 そこでFA権獲得の短縮化や条件緩和、また最低年俸の上昇などの処置が行われたのである。

 セイバーがこの数年、あまりいい選手を格安で取ってこれていない理由の一つである。




 FAで海外移籍する以外に、ポスティングシステムという方法もある。

 これは単純に事実だけを述べれば、NPB球団によるMLBへの選手の販売となる。

 資金力に劣り、FA権を獲得する選手に、高額年俸を提示できない場合、選手が望むならFA権発生前に、入札制度でMLBへの移籍を認めるというものだ。

 MLB球団はその選手を獲得するため、球団に金銭を払う。

 これも色々と上限金額が決まったり、交渉できる球団は一つだったりと、規制はたくさんあった。


 だがとりあえず大介の場合は、FAで移籍できるので問題はない。

 ただ大介自身には問題はないが、球団はタダで大介を放出することになるので、メリットがほとんどない。

 大介一人に使っていた高額年俸で、補強をすることは出来る。

 しかし大介のこの超高額年俸は、様々な数字の実績から査定して、妥当なものなのである。

 また純粋に選手としてのプレイだけではなく、観客動員や記録への注目度など、そちらの宣伝効果の方が高い。


 簡単に言ってしまえば、今のNPBでは上杉が年間40勝する起用をされることはない。

 だが大介は多くのバッティング記録のシーズン記録を塗り替えた。

 打率四割台が三度、60ホームラン以上が六度、またこのホームラン王と打点王はルーキーイヤーから全ての年で獲得している。

 今年はついにOPSが1.6を超えるという、人間離れした数字だ。

 つまり大介はもう、毎年プレイするだけで、どんどんと記録を更新していくという、宣伝効果抜群の選手なのだ。


 ただ、大介はもう、日本を出ることは決めてしまった。

 理由としては一番大きいのは、家族の身の安全である。

 今までも過激なファンはいたが、大介はおっさんや子供や年寄りに好かれる、極めて健全なファン層を持っていた。

 だが芸能人姉妹を二人も実質的に妻としている状況に、うらやまけしからんと私憤を大義づけて脅迫している者はいる。

 大介自身やツインズは心配はなくとも、生まれたばかりの子供は危険だ。

 なのでほとぼりが冷めるまで、日本を離れるという選択も危機管理の面からすると妥当なのだろう。




 球団が出来る引止めのメリットはない。

 まさか家族にボディーガードをつけるのも、大介レベルならば可能なのだが、それは不自由な生活になるだろう。

 大介は今でも自分で、スーパーのお徳品を買うような人間なのだ。

「するともう、どれだけ球団のイメージを損なわず、送り出すかを考えた方がいいですな」

「もったいない……。先日のテレビ中継も、とんでもない視聴率になったというですし」

「今はとにかく、球団にどういった形で利益を残すかを考えないと」

 たった一人の人間が、球団全体のみならずその親会社までを動かす。

 これほどの存在感はなかなかないだろう。

 おそらく関連した部門まで含めると、来季は格段に収益が落ちる。


 スクープとして大介の家庭生活を暴いたマスコミも、あまりそれを商売につなげられていないらしい。

 ああいった大きなスキャンダルは、それに続く報道でどんどんと売り上げを伸ばすものなのだ。

 だがマスコミの事件による、ツインズの兄である武史の怪我。

 そして長兄である直史が、法律ヤクザとしてのコメントを強調している。

「まったく余計なことを……」

「ただ、現役の最後には、一年でいいから戻ってきたもらいたいものですな」

「しかしそもそもの話ですが、メジャーでは通用するのですか? 今までも日本の大物野手がアメリカに行っても、さほどの成績を残せなかったことは多々ありましたが」

 経営に関してはともかく、野球に関してはそれほどの知見がない役員からは、そういった疑問も出てくる。

「それに関しては問題ないでしょう。対戦投手のレベルに関しては、NPBのトップレベルではありますが、スピードには対応出来るでしょうし」

「まあMLBに上杉選手はいませんからね」

「むしろ変化球への対応の方が難しいのでは?」

「そこはボールの違いもあるでしょうからな」


 NPBとMLBは、同じ野球と言っても細部が大きく違う。

 その中の一つが使っているボールで、やや大きく重く、そして縫い目が高い。またよくすべる。

 この大きく滑りやすい球を使っているため、MLBのピッチャーは肩肘の消耗が激しいとも言われる。

 そして縫い目の高さだ。

 滑るためこれまで使っていた変化球が使えず、他の球種を使わなければいけなくなる。

 またその変化も縫い目の高さのため、日本よりも鋭かったり大きかったりする。

 MLBのピッチャーの特徴は、スピードがあるのはもちろんであるが、そのスピードに比して変化も鋭いことが言える。


 大介はどうなのか。

 WBCでの対決したピッチャーの中には、後にMLBでエース級の活躍をしている選手もいる。

 国際戦の舞台なので、運よく一打席ほどを抑えることが出来たピッチャーもいたが、肝心なところではことごとく打たれていたと言ってもいい。

 もちろん日本の標準とは誤差があるので、最初は今よりも成績は下がるだろう。

 だがそれでもMVPレベルには活躍するのではと分析されている。


 そもそも日本の、間違いなくトップと思われるバッターが、MLBで通用しなければまずい。

 近年では織田もMLBで活躍しているし、おそらくは大丈夫だろうというのが実力面での見方である。

 大介はとんでもない成績を残し続けているが、それはつまり年間を通じて離脱が少ないことも理由である。

 九年間でフル試合出場をしたのは七年間であり、100試合の出場を切ったことは一度もない。

 あの体格で、というのはNPBの時点で既に言われているので今さらだ。


 話し合っていて、どういう方針で行くべきか、ある程度は考え付いた。

 ライガースは全力で、大介を応援するというものである。

 例の重婚もどき騒動については、個人のことなので関知しない。

 あとはFA宣言の期間になってから、球団が主導して、円満な関係のまま、大介を送り出すだけだ。

 どうせシーズンオフには帰ってくるのだろうし、そこでは色々と取材も受けるだろう。


 一つ条件をつけるとすれば、選手生活最終年には、日本で引退するということぐらいか。

 もっとも大介の年齢的に、それは長くても7~8年後ぐらいになる可能性が高い。

 ショートの選手の寿命は短いということもある。

 ただMLBにもリーグによってはDHがあるので、やはりあの打撃力がどこまで通じるかがポイントだ。

 小さな巨人が、大きな大陸で戦う。

 それはとてつもなく夢があることであり、そして同時にイメージとしてもライガースの遺産となることだろう。




 大介はもちろんまだMLBとの交渉など始めていない。

 だがエージェントはセイバーから聞いて決めている。

 ドン野中。日米の選手のやり取りの中で生きる、優秀な寄生虫。

 そんな風に揶揄されることもあるが、当人は別に違法なことをしているわけでもない。

 エージェントフィーも他と同じであり、むしろ選手の中には、彼に感謝している者の方がずっと多い。

 結果を出せなかった者は、誰かに原因を求めて、彼を悪く言うこともあるが。


 野中との対面は、東京の大介のマンションで行われた。

 もちろんツインズも同席している。契約関連はこの二人がいた方が強い。

 大介の要求したのは、東海岸で特にニューヨークに近い球団ということ。

 野中の経験としては年俸より先に、そういうことを決める選手は少ない。


 野中自身は、大介の能力を信頼している。

 だが一つだけ、まだ証明されていないものがある。

 それはMLBのシーズンを戦い抜く耐久力だ。


 162試合というシーズンは、年によって一試合か二試合、増えたり減ったりすることがある。

 とにかく確かなのは、日本のシーズンよりも試合は多いのに、シーズンの期間はむしろ短いことさえある、ということだ。10連戦は当たり前、20連戦さえある。

 NPBでも以前はそこそこあったダブルヘッダーが、今でもそれなりに起こりうる。

 週に一日も休みのない、移動したらその日の夜にはすぐに試合という過密日程。

 体力と言うよりは耐久力。それも肉体のものではなく、精神的な耐久力だと思うのだ。


 また、ポジションの問題もある。

 MLBにおいてはショートは花形のポジションで、ピッチャーよりも人気があったりする。

 守備の重要度でもキャッチャーの次に高いとされており、そのためどの球団もいいショートはほしい。

 野中からすると、NPBにおいてさえ、ショートでこれだけバッティングまで優れている大介が、不思議ですらある。


 あとは金銭的な問題もある。

 大介の年俸は、MLBにおいてはそれほど高い年俸ではない。

 だがMLBの実績のない新人に対しては、充分に高い年俸だ。

 MLBは日本と違って、サラリーキャップに似たものがある。

 その範囲内で選手を集めるのだから、大介の年俸をどう捉えるか、それはMLBの各球団のGM次第だ。

 もっとも野中は、セイバーが何か動くだろうな、とは思っている。




 大介としては一時的に年俸が下がることは問題にはしない。

 税金を払うのが大変であるが、彼の資産は結婚してから、ツインズの運用でどんどんと膨れ上がっている。

 もちろん金はどうでもいい、などという傲慢なことは言わないが、実績でさえ評価してもらえば充分だ。

「二年契約がいいでしょう。さすがに一年目は、あちらに適応しきれない可能性がある」

「まあ……そうかな」

 日本においては毎年、一年ずつの契約更新をしていた。

 それは一般に言われるように、複数年契約だとそれに安心してしまう、という理由があった。

 毎年、成績でしっかりと判断して、次の年の年俸を決める。

 長期間離脱した年でさえ二冠王に輝き、次の年は年棒増となったのが大介である。


 二年契約で1200万ドル。

 日本円にすれば現時点では、13億円と少し。

 今年の大介の年俸が、13億であることを考えると、まさに半減である。

 だがここに野中は、インセンティブをつけることを提案する。

 アメリカの契約はまさに、このインセンティブもはじめ、生活環境にまで手厚いフォローをしてくれることが多い。

 打率、出塁率、ヒットの数、得点圏打率、打点、決勝点、ホームラン数、その他もろもろ、とにかく細かく決めておくのだ。


 打率三割はともかく、三割五分となれば、ほとんど首位打者の記録である。

 三割でプラス100万ドル、三割五分でさらに200万ドルなどという数字は、さすがに無理だろうと思って飲んでくる可能性がある。

 だが大介なら、それぐらいはやってもおかしくない。

 その中で野中が注意したのは打点や盗塁だ。

 昨今のMLBでは、あまり盗塁が重要視されない。

 失敗率が高いこともあるし、走塁で怪我をする危険性もあるからだ。

 また打点に関しては、大介の出塁率を考えると、一番に固定されてしまうかもしれない。

 すると一人で打点を取るのは、ホームランしかなくなる。

 三番に固定などという条件は、さすがに飲む球団はないはずだ。

 そういったものを決めるのは、現場の者であるからだ。


 打率よりも出塁率。

 それが今のMLBである。

 ただしそこに長打率も加わる。

 ぶっちゃけると全員がホームランを狙っていくのが、今のMLBの打線である。

 計算上、レギュラーシーズンではそういう大味な作戦の方が、統計でいい結果を出すのだ。

 全ては確率で考える。

 現場はともかく年俸の交渉などにおいては、数字が全てと言っていい。


「な~んかつまんねえな」

 大介はもっと、パワーとパワー、パワーとテクニックの対決を、MLBに対しては夢見ていた。

 実際にWBCなどで対戦したピッチャーなども、パワーで押してくるタイプが多かった。

「それはWBCでさえも、出場選手にとっては、スカウトなどのアピールの場所に過ぎなかったからですね」

 金にならない、正確に言えばMLBの高学年俸に比べれば、たいしたものでないのがWBCの報酬だ。

 選手たちは自分の価値をアピールするか、もしくは怪我をしないことを第一に考えるのだ。


 このあたり野球が、マイナースポーツと言われる所以である。

 サッカーであれば代表に呼ばれれば、参集して国の威信を賭けて戦う。

 だが野球はそのマーケットの大部分が、北米だけで完結してしまっている。

 ある程度の大きさがある日本の史上も、MLBへの挑戦をする選手が多いため、傘下組織になりつつある。

 WBCに価値を求めないのが、むしろMLBの選手やオーナーにとっては当たり前なのだ。




 FA宣言をした後、MLBの球団はどう動いてくるか。

 今の時点からもう、大介の情報は流しておいた方がいい。

 もしも大介を取りたいと思っても、あちらで既にショートが磐石に埋まっていれば、多少はお徳であろうと強かろうと、資金的に動くことが無理となる。

 出来るだけ多くの球団に獲得に動いてもらって、条件のいいところと契約する。

 契約期間は短期にして、早々に実績を残してより良い契約を結べるようにする。


 ただしニューヨークにある程度近い球団に限る。

 つまりトレード先を絞った契約条件もつけなくてはいけない。

 実際にどんな契約が可能になるかは、手を上げて条件を提示する球団と話し合う必要があるだろう。

 基本的にMLBであれば、エージェントに全てを任せてしまう選手もいるが、大介の場合はツインズがいる。

 単純な年俸だけではなく、その他の条件を全て含めて、総合的に判断する。

 野中にとっては口うるさいが、それでもやりがいのある選手だな、と久しぶりに思った。



×××



 ※ FA権やポスティングシステムは、現行のものとは変化した時代と考えてください。

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