第52話 ラスボスVS裏ボス

 ※ 今回は第三者視点になります。対決する両者は東方編。そちらを先にお読みください。

   リアルタイムで読まれていない方は東方編80話が表の話になります。




×××




 はるか遠く離れたところで、彼はその対決を見ていた。

 やや不恰好に、かつては林檎を剥いていた妻は、今ではずいぶんと器用にそれをこなすようになっている。

 だが彼女の手は今、完全に止まっている。

 アメリカでは林檎の皮は厚く剥いて食べるべし。

 先ほどまではそんなことを、楽しそうに言っていた。

 生きてきた中で初めて見つけた、女と少女と天使を合わせたような妻。

 それが今は画面の中の、一つの人間の極致の対決に意識を向けている。


 上杉が感じるのは、感嘆と嫉妬だ。

 自分では絶対に、この画面を描くことは出来ない。

 比べても、どちらが上とはいちがいには言えない。

 おそらく熱狂の具合ならば、自分と大介の勝負の方が大きい。

 しかし対決が観衆の目を奪い、球場から音が消えてしまうなど、自分の対決ではありえない。


 もう一度、マウンドに立つ必要がある。

 もちろん元の力を取り戻して。あるいは元の力に代わるものを身に付けて。

(一年……)

 一年はまるまる、治療とリハビリ、そして復帰への本格的な練習にかかるだろう。

 上杉の肩が元に戻るとは、医師でさえ首を振った。

 元の状態には戻らない。大切なのは元の状態へどれだけ近づけるかだと。

 あるいは完全に、生まれ変わったように違う形で、マウンドに戻らなければいけないのか。

 マンガでは利き腕を壊した後、逆の腕で投げるようにしたりした例がある。

 実際のところは利き腕と逆で投げるなら、数年から10年以上、脳が逆の腕を利き腕と同じように認識するまで、訓練する必要があるという。


 遠い目標だ。

 だが今の上杉にとっては、しっかりと見えている目標である。

 投打の極みに立つという二人の対決。

 それを純粋に楽しめない、珍しい状態が今の上杉であった。




 あのライガースを、無失点で抑えている。

 それどころかヒットさえわずか一本なのだ。

「う~ん」

 既に日本シリーズ出場を決めているジャガース。

 ピッチャーも休ませることが出来て、どちらが勝ちあがってきても、その部分では有利に戦える。

「これは熱くなる部分っすね」

 毒島の言葉に、蓮池は冷たく返す。

「それが分かってるから、球場も静かなんだろうな」

 余計なことを言わずに、黙ってみていろと言わんばかりだ。


 珍しくも蓮池が、正也を誘ってジャガース寮を訪れているのだ。

 二年目の毒島はともかく、正也も蓮池も、既に寮は出ている。

 だが正也はおそらく、今年でジャガースは最後だ。

 怪我などもあったとはいえ、去年の時点で複数年契約を結ばなかったことからも、それは分かっている。

 上杉の故障に関して、正也は知らされているが、他の者には言っていない。

 そもそも敗退したスターズなのだから、来年までは関係ないとも言える。


 神奈川に、兄のいるスターズに行きたいと、正也は思っているのだ。

 別にそれはいい、と蓮池はやはり冷たく考えている。

 だが日本一になるには正也の力は必要であるし、今年はそのいい機会だと考えている。

(レックスが来い)

 正也はともかく、蓮池はまだ、プロで日本一になったことがない。

 とにかくこの10年ほどは、セ・リーグが強すぎたのだ。

 唯一勝ったのが、五年前のジャガース。

 戦力の再建によって、今年のジャガースもかなりの強さをキープして日本シリーズ出場を決定した。

 ただ、日本一になれるかどうかは微妙だ。

 

「レックスが上がってきた方が楽だな」

 他の若手にも聞こえるように、正也は言った。

「樋口なしのレックス投手陣は、かなり弱体化する」

「そっすか? うちの正捕手も負けてないと思いますけど。あ、打撃は別として」

 毒島が軽い感じで言うが、正也は高校の三年間、樋口と共に過ごしたのだ。

 樋口のキャッチャーとしての、ピッチャーの能力を引き出す力がどれだけ強いか、身にしみて知っている。


 蓮池は今年、交流戦で直史と投げ合っている。

 そして感じたのだが、あれは本当に化け物と言うよりは、もっと生物離れして機械的だ。

 11回までを投げてヒット三本に抑え、そして球数は122球。

 そして出したランナーも、二人をダブルプレイで殺している。

 セットポジションからのクイックが速いということもあるが、とにかく盗塁のしにくいピッチャーであった。

 もちろんキャッチャー樋口の肩もあってのことである。


 だが、樋口がいない。

 怪我をしているとは公表されたが、ベンチには入っている。

 なのでたいしたことはないか、試合勘を鈍らせないためのものだとは思う。

 打撲による挫傷から、無理をして肉離れとも聞くが、どこまでが本当か分からない。

 樋口は出てこないと思って出てきたら、かなり精神的なダメージは大きいだろう。

 ピッチャーとしての勝負では、いくらでもこの先も対戦の機会がある。

 だが今はとりあえず、優勝がほしいのだ。

 単純に優勝すれば、ご祝儀相場で年俸も上がる。


 日本シリーズで待つ、ジャガースの選手たち。

 樋口がいないレックスの中軸は、それなりに打ち取れるかな、と思うものであった。

 それ以上に樋口にリードされないレックスのピッチャーは、それなりに打てると思う。




 はたして野球のルールを理解しているのだろうか。

 一番目の子供はともかく、二番目はまだかなり怪しいと思っている。

 ただテレビの大画面を通して、何かを感じ取ってくれているのかもしれない。


 わずかに客観視している自分が、大観衆のほとんどが、応援を忘れて見入っていることに気づく。

 野球は瞬間のスポーツだ。

 マウンドからキャッチャーミットまで、18.44m。

 その間にどれだけの時間が経過するというのか。


 この勝負、どちらが勝つのかはセイバーも分からない。

 ただ仕掛けておいた爆弾の、爆発するタイミングが違うだけだ。

 ただ個人的には仕掛けの時間のため、直史が勝ってくれた方がありがたい。

 ライガースは大介のおかげで、日本のプロ球団とは思えないほどの、大きな経済効果を得ている。

 10億を超える年俸というのも、上杉と並んでそれだけの経済効果が充分にあるからだ。


 野球を楽しむために生まれてきたような大介。

 対する直史は、そういうタイプではない。

 競技に対する情熱が、その練習効率を高めるのだが、直史にはそういったものがない。

 ただ彼が、どんな時でもどんなものでも、自分が選らんだことでは負けたくないだけなのだ。


 直史と大介の対決を見守る、大観衆。

 バックネット裏の観客は、前傾姿勢でそれを見守っている。

 やはり現地で見たかったな、とセイバーは思ってしまう。

 ただこの後の動きを考えると、そうもいかないのだ。

 試合後の素早い動きが、計画の要になる。

 世界を動かすのだ。




「面白い」

 直史と大介の最後――になるかもしれない対決の打席で、イリヤはそう呟いた。

 プロ野球の応援と言えば、だいたい応援する方もお祭り騒ぎで、その大歓声が勝負を盛り上げてくれるものだ。

 ピッチャーとバッター、それが傑出すれば傑出するほど、観戦者のボルテージも高まっていく。

 だがこの打席はいったいなんなのか。

 

 イリヤは音楽をやっているので、二つのパターンを知っている。

 演奏者の純粋な技巧を楽しむための、クラシックやオペラなどの観客席。

 基本的にはそこに雑音を挟むことは許されない。

 演奏が終われば、そこで初めて拍手がなされて、ブラボーと叫ぶ者もいるだろう。


 だが彼女はポピュラーミュージックの舞台も知っている。

 あくまで演奏者が主役で、その熱狂のきっかけとなる。

 そして観客も歓声を上げてそれを盛り上げ、共に感情の爆発を作る。

 野球は後者のスポーツだ。

 ゴルフやテニスとは違い、選手の集中力に応援は無関係とされる。

 あるいはお互いを盛り上げるためのものかと。


 バッターボックスに向かう大介に向かって、ダースベイダーのテーマが吹かれたのが、最後であったろうか。

 雰囲気に飲まれて、観客から音が消えていく。

 その出所を失った熱量は、おそらく勝負が決まった瞬間に爆発する。

 イリヤは隣に座る瑞希を見るが、その手元は動いて、やたらと長い文章を書いている。

 漢字の苦手なイリヤであるが、瑞希が自分の感情を、ひたすら書き記しているのだとは想像がつく。

 もう隣のイリヤの声も、耳に入っていないだろう。


 イリヤはここで、直史に勝ってほしい。

 なぜなら彼女にとっては、ポピュラーミュージックであっても、その根っこはクラシックの芸術性にあるからだ。

 直史の技術に秀でたピッチングは、イリヤの感性に近い。

 だが大介のホームランは、その芸術を破壊してしまう。

 静寂も熱狂も、イリヤは好む。

 だが本当の熱狂は、静寂の圧力の後に、解放されるべきものだ。


 イリヤと違い、瑞希はただ見つめていた。見守っていた。

 いつか誰かに、この光景を伝えるために。

 自分の感情は声にすることはなく、ひたすら文章として残しておく。

 直史が一球投げて、そのボールの行方が決まるごとに、客席からは大きなため息が洩れる。

 多くの観客の中には、まさに呼吸をするのも忘れて、この勝負に見入っている者が多いのだろう。


 この勝負、果たしてどちらが勝つのか。

 どちらが勝つべきなのか。

(本当に、面白い)

 イリヤは心の中でだけ呟いた。




 直史と岸和田のバッテリー。

 これが大介と対決する。

 直史と樋口であれば、直史有利だろうな、とジンは思っている。

 今日も今日とて野球部の活動は早めに終わらせ、完全に私情優先でテレビを見る。

 そしてそれを悪いことだとは思わない。


 この二人を、一番長く見てきた。

 おそらく実家かどこかで、父もこれを見ているのだろう。

 野球中継とは思えない静寂。

 解説のアナウンサーも、ボールカウントを呟くぐらいのことしかしていない。


 また解説者の方も、無駄にべらべらとは喋らない。

 ただ自分の頭の中で、大介を打ち取るための配球を考えて、それを口にしている。

 元ピッチャーの彼は、あくまで大介を打ち取る目線で対決を見ている。

 これがレックスの攻撃中であれば、真田がどう投げるのかを解説している。


 そしてジンも、キャッチャー目線としては、大介をどう打ち取るかを考える。

 結果的に打ち取れそうなコンビネーションは色々思い浮かぶが、決定打となるようなものがない。

「ナオとしては単打までに抑えればそれでいいと思うんだけどな」

「甘いわね。ここで大介を打ち取らないと、レックスに流れがこない」

「まあそれはそうなんだけど、樋口がいないと打線も弱くなるんだよね」

 どちらを応援するべきなのか。

 どちらも共に、甲子園を戦った戦友である。


 ジンとしては、キャッチャーとして直史に勝ってほしい。

 シーナとしてはジン以外のキャッチャーと組んでいる直史なら、打たれてもいいと思っている。

 ただ、積極的にどちらかに、負けろとは思わない。

 条件を見るならば、間違いなく大介が有利にならないとおかしい。

 実際にレギュラーシーズン終盤から、大介は直史に合うようになってきたと思う。

 第一線でも長打を打って、かなりボールには合ってきているはずだ。


 それに、樋口がいない。

 マウンドで話し合ったあと、投げた初球のスルーを後逸した。

 苦い思い出があるが、樋口ならば今のは捕っていただろう。

 ランナーがいないとはいえ、落ちる球を使いにくくなった。

 それでもカーブ程度なら、なんとか前に落とせるのだろうが。


 この打席、二球目のスルーは、大介には打ち頃だったのではないか。

 岸和田は体で止めて前に落としたが、これで最後に落ちる球は使いにくくなった。

「ちゃんと捕れよ……」

 思わずそんな声が出たりするのは、かつての相棒としての偽らざる心情だろう。


 並行カウント。

 ここでもう一球ボール球を入れてくるのか、それとも決めにくるのか。

(インハイに外れる全力ストレート。それでたぶん空振りは取れる……のは大介以外のバッターだろうな)

 自分ならどうリードをするか、ジンは考える。

 そして思いつくのが、別に直史は、大介を歩かせてしまっても構わないということだ。

 もう一球ボール球を投げて、最後はアウトローにスライダーかカットボールを投げる。

(いや、それでも大介ならカットしてくるか)

 やはり高めのストレートを打たせて、フライアウトにするしかない。

(あえてフルカウントにして、そこからボール球を振らせる。ランナーもいない状態ならそれでいい。ランナーがいない状況を作り出したナオの勝ちだ)

 ジンとしてはそう判断するが、果たして直史はどう考えるか。


 両投手が共に、無失点で進行してきたゲームだ。

 ヒットでも充分に防いだと言えるが、攻撃に勢いをつけるには、凡退、出来れば三振が望ましい。

 だが最高の威力のストレートでも、大介は内野フライぐらいにはするだろう。

(ベンチの樋口からじゃ、どうしても空気は読み取れないはずだ。ナオが考えて投げるしかない)

 ジンの想像は、確かに間違っていなかった。




 この日、野球中継を実況しながら観戦する者の数は、とてつもなく多かった。

 だがこの場面、ほとんどの書き込みが止まった。

 カメラは対決する両者を映す。

 闘志に満ちたはずの大介が、静かに動かずに構える。

 直史はやや俯くようにして、その表情を見せないようにする。


 そして岸和田のサインに、直史は頷いた。

 カーブか、それともストレートか。

 あるいはゾーンに入れるか、それともボール球か。

 多くの予想、そして予感が飛び交い、そして全てが外れることになる。

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