第49話 一期一会
試合に負けるたびに相手を恨んでいては、それはカロリーの無駄としか言えない。
敗北は勝利への糧とするべきだと、一流のスポーツ選手であれば分かっている。
興行を目的としていようと、それは変わらない。
だがそれでもなお、因縁を感じる対決はあるものだ。
大阪ライガースの先発は真田。
17勝3敗のライガースのエース。
勝ち星では山田と並び、防御率や勝率では上回る、最強の先発札。
今年で国内FA権を得る彼は、行使の意思を持っている。
WBCに選抜されそうになったこともあったが、使用されているボールとの相性が悪く、参加することはなかった。
つまりそれはMLBでのピッチャーの適性がないことを示す。
大介ほどに好戦的ではないが、試合の中で一対一の対決を求める真田が、一番勝負したい相手が、同じライガースの大介である。
よって来年は大介と対戦するため、複数年契約を断って、このオフには移籍するつもりなのだ。
だが、それはポストシーズンの試合も全てが終わってからだ。
今はただ、レックスを破ることを目的とする。
今シーズン負けた、三つの試合のうちの一つが、直史との対戦。
それに雪辱を晴らす機会が最後に訪れるというのは、運命的な因縁というものであろう。
大介としても、真田が投げてくれることはありがたい。
野球はかなり個人の強さも重要だが、最後のところではチームスポーツだ。
高校時代は直史と共に、真田や樋口を相手に戦った。
それが今度は真田と共に、直史を相手に戦うわけだ。
経験の少ないキャッチャーと組んでいる分、直史の方が不利かもしれない。
だがこれまで日本一のキャッチャーと組んでいたのだから、一度ぐらいはこちらが優位になってもいいだろう。
大介としての不安要因は一つ。
それは相手が強いことではなく、弱体化しすぎていないか、ということだ。
第一戦の直史は、明らかに過剰に力を使っていた。
ライガースの戦意を折るという意味では、確かに適切であったろう。
しかし三振を取りすぎて、少し球数が多かった。
中四日だ。大介の期待している通りに、直史は回復しているのか。
そう、大介は期待している。
チームの勝利を願うことなど、首脳陣に任せてしまえばいい。
自分は三億で、あの小さな赤ん坊の命を買ったのだ。父親である直史と対戦するために。
五年という制限は、自分の中の小さな良心が告げたものだ。
ただピッチャーで五年もプロの世界でもてば、それは充分すぎるとも、大介は既に知っていた。
直史は球数が少ないし、その球数に比べてもスタミナを消費していない。
だが肉体的な頑健さだけは、フィジカルお化けのプロの世界では平凡だ。
五年という期間の中で、どれだけの対決がなされるか。
あるいは五年をもたずに、直史は戦力外になる可能性もある。
この中四日の日程なども、完全に直史を回復させているとは思いにくい。
もちろんさすがに、球団の判断で戦力外になった直史に、どうにか復帰しろとまでは言わないつもりの大介である。
神宮球場に熱が集まっている。
直史が神宮で投げるということの意味を、多くの人間が知っている。
このレックスのホームであるという以前に、大学野球の聖地でもあるこの球場で、直史は一度も負けたことがない。
六大学のリーグ戦に限ったとしても、29勝0敗7セーブ。
ノーヒットノーラン15回のうち11回は完全試合。
意外なことに最多勝を取ったのは二回だけだが、ベストナインには8シーズンの全てで選ばれている。
野球の神は存在するのか、という問いに対して、甲子園の決勝で見た、と返すのは一時期のネットの流行であった。
その後の四年間、神宮で見た、と返されるようになったのが、直史の大学野球生活である。
(あいつが高卒でプロに入ったとしたら、どんなピッチャーになったのかな)
大介はたびたび、そんなことを考えたものである。
プロ野球の解説者などは、直史の球速や体力などに言及し、案外プロでは通用しないなどと言っていた。
あの時点でも通用しただろう。
だが大学の四年間で、さらなる異形として君臨した。
球速の上昇だ。
元々球速よりは球質にこだわっていた直史は、150km/hを投げても普通という昨今の甲子園では、そこそこ速い程度のストレートしかもっていなかった。
だが緩急を使ったコンビネーションではいくらでも三振が取れた。
そしてさらに大学時代に、150km/hを投げられるようにはなっていた。
WBCではワールドカップよりも、さらに強い敵が相手のはずであった。
いやそれを言うなら、大学選抜との壮行試合がそうであったか。
あれ以降に故障離脱した代表の補充に、直史が選ばれたのはもう、必然とも言えた。
(あの対決は結局、俺に対するプレゼントだったんだよな)
もう二度と、道が交わることはないという、強烈なメッセージ。
そんな機会を作ってくれたことを思えば、三億がその10倍であっても、大介は黙って渡すべきだったのだ。
ただ、大介の楽観的というか、自分に対して都合のいい見方をすれば、直史もまた楽しんでいるのではないだろうか。
少なくとも来年の年俸は、直史はインセンティブも含めて一億五千万にはなるだろう。
直史は自らを俗物というから、金の必要性は分かっている。
子供のためにも金という、この世で一番分かりやすい価値は、手元に置いておきたいはずだ。
一般の野球選手が引退後、何をして稼ぐか悩むところに、直史は悩まなくてもいい。
だから潰れてしまうぐらい全力で、自分と戦ってほしい。
観客席からの熱量がすさまじく、ここだけ夏のようだ。
高校野球も東京都大会の終盤は、この神宮球場を使ってやるらしい。
もちろん今までもレックス相手に、ずっとこの球場で戦ってきた。
だが、熱量が違う。
二年秋の、神宮大会に似ている。
だがあれよりもずっと夏に近いからか、擬似的に夏の気配までがしてくる。
負ければ終わりの試合だ。
来年があるとは思ってはいけない。
自分が壊れることもあるだろうし、直史が壊れることもあるだろう。
これを最後の戦いのつもりで戦う。一期一会だ。
在京のライガースファンと、遠征してきたライガースファン。
大きな旗が振られて、歓声は怒涛のように響いてくる。
「やかましすぎて、逆に静かだな」
大介は一人呟いて、ネクストバッターサークルに入る。
三振してきた毛利が、大介に短く囁く。
「キャッチャーの代わった影響、少なくとも佐藤兄にはないみたいです」
「であるか」
それぐらいのことはしてくれるだろうな、と大介は微笑を浮かべる。
二番の大江には、内野フライを打たせた。
これも軽くサードが捕って、あっけなくツーアウトにしてくれる。
さて、いよいよ対決である。
ここまでの三連勝、ライガースは10点を取っているが、そのうちの大介の打点が半分である。
つまり大介を抑えれば、レックスが勝つであろう。
ライガースもまた逆説的に、大介が打たないことには、レックスに勝つことは出来ない。
引き分けならばレックスの勝利だ。
明確に、勝たなければ、ライガースに続きはない。
ついにやってきた。
ランナーがいる状態ではなく、樋口も欠けてほぼ状態は同じ。
キャッチャーは壁になってくれればいい。
本当の直史との対決だ。
(さあ、何を投げる? やっぱりカーブか? それともスルーか? ランナーもいないし、後逸の危険性もないぞ)
そう考えていた大介への第一球は、ど真ん中へのストレートだった。
かつて一度体験した、ハーフスピードのただのホームランボールではない。
おそらくは速度MAXの、しかしながらど真ん中のストレート。
(う)
このまま打てば、ミートしきれない。
力を抜いた大介は、バットの出だしを遅くして、サード方向のラインを割った方向にカットした。
分かっていれば、ホームランに出来たボールだ。
あのまま打っていれば、おそらく外野フライでアウトだったろう。
(152km/h出てたか……)
そう表示されているのは、直史のストレートのほぼMAXである。
確かに大介はしとめそこなったが、いったい誰がこのサインを出したのだ。
完全に読みきっていないと、打たれるボールである。
ただこれで、ストライクのカウントが一つついた。
棒球が案外打たれない理由は、まさかそんな遅い球が、という意識が動作を鈍らせるからだ。
高校野球などでは、絶好球で力んでしまってアウト、というパターンが知られる。
今の大介のそれも、近いものがある。
バットを支える程度に腕の力を抜き、動かす筋肉を固定する筋肉に一瞬で移行する。
それが本当に一瞬でも変わったら、ヒットは打てないものだ。
大介は返球を受け取る直史の顔に、一切の感情を見ることが出来ない。
上杉のような、炎すら幻視するものとは、全く違うエネルギーの形。
揺らがない。揺るがせられない。
楽しみと苦しみと圧迫と愉悦と、全てを一つに感じてしまう。
(二球目はなんだ?)
二球目、相変わらずタイミングの取りづらいフォームから、リリースされたボールの角度。
(カーブ!)
そこまでは見て取れたが、急角度でゾーンを斜めに切断する。
審判の判定はストライクになったが、ボールと思われても間違いではない。
二球で追い込まれた。
さすがである。
バッターボックスを外した大介は、イメージを脳裏から消し去る。
150km/hオーバーのストレートと、90km/h台のスローカーブ。
あの落差と角度のカーブは、大介でもイメージが取りにくい。
球速差60km/hというのは、なんの冗談だろう。
球速は、その投げる球の下限が低ければ低いほど、上限も効果的になる。
今は速い球と、遅い球を使ってきた。
ならば次はまた速い球、というのがセオリーである。
(単純に速い球なら、ストレートかスルー。だがそんな常識的な配球をしてくるか?)
樋口がいないと言っても、それは直史の外付け計算機が外れただけである。
CPUに負荷をかけるなら、色々と計算して投げてくるだろう。
速球にタイミングを合わせた上で、遅い球はカットする。
速い球を打って勝つのだ。
そんな大介に投げられるのは、ふわりと浮かんだ軌道から逃げていくシンカー。
手が出そうになるが、これはボール球だ。
まだ反応が適切ではない。
速い球を待って、そのスピードによる反発力も加えて、スタンドに持っていく。
遅い球を自分のパワーだけで持っていくのは、さすがに難しい。
四球目は何がくる?
遅い球を二つ続けて、次は速い球であろう。
そう考える大介の裏を書くように、速度のあるパワーカーブが投げられる。
これはゾーンに入るので、カットしていく。
打ってもスタンドまでは届かない。
カウントは変わらず、次が五球目。
ここで投げてくるのは、高めに外したストレートか、あるいは。
予想通りに、スルーが投げられた。
ゾーンから外れて沈んでいくが、バットは止まらない。
軌道を変更して、どうにかボールには当てる。
幸いなことに前には転がらず、ワンバウンドでキャッチャーのミットを弾く。岸和田はプロテクターでそれを前に落とす。
厄介なスルーを、これで連投はしにくいようにした。
常識的に考えるなら、ここからはまだ大きな変化球を使ってくるのだろう。
ボール球を二つは使えるのだ。目をそちらに向けてくるかもしれない。
ゾーンだけで勝負するようなことは、してこないはずだ。
もっと丁寧に組み立てて、上手く打たせて取る。
そういったことを大介は期待している。
力と力の勝負だけではない。
力に加えて読みをもって、技巧派ピッチャーのウイニングショットを打つ。
これもまた四番の役目だ。大介は四番ではないが。
六球目。
膝元に入ってくるボールは、打てる。
(変化する!?)
手元で変化するボールは、わずかに沈んだカットボール。
これを、カットしきれるか?
(右方向に――)
打つには、既にバットが入りすぎている。
打球は一塁線に飛んだが、それは反応できる範囲の打球速度。
ファーストが飛び込んで捕ったそのまま、一塁のベースにタッチした。
とりあえず最初の打席は、ファーストゴロで直史の勝ちである。
今の打席で、どれだけ直史の引き出しを開けることが出来たのか。
とりあえず緩急は使ってきたし、大きなカーブも使ってきた。
チェンジアップをまだ使っていない。
グラブを受け取った大介はショートの守備位置につく。
ベンチの中の直史を見るが、無表情のままである。
この熱狂した神宮の中で、直史の周りだけが静かだ。
樋口と二人で岸和田を挟み、色々と話をしている。
(あの二人に挟まれるって辛いだろうな)
ただ岸和田もスルーを当てられて前に落とすあたり、かなり捕手としてはいいだろう。
一回の裏、レックスの攻撃。
先頭打者の西片は、左であるために真田との相性は悪い。
それでもしっかりと見てきて、スライダーまでは引き出した。
スライダー以外の球種はカットしていくつもりらしい。
守備に集中しながらも、大介は考える。
レックスは明らかにバッテリー能力だけではなく、バッティング能力も落ちている。
樋口はリーグ打率二位で、大介がいなければ首位打者であった。
他にも色々と数字は高く、本当にこれ以上はないというほど、打てるキャッチャーであるのだ。
(緒方はともかく小此木はルーキーだろうに)
それでもしっかりと結果を出していれば、今のレックスでは使われるというわけだ。
西片の後、小此木と緒方もあっさりとしとめて、真田は楽な表情のままベンチに戻る。
対する直史は、四番西郷との対決が始まる。
ただし西郷は足が遅いので、単打までならOKというのが正直なところだろう。
(せごどんもナオと戦うのは、高校以来ずっと悲願だったんだろうけど)
西郷の成長曲線も、確かに大学でおおいに上昇した。
だがそれは直史の変化球を相手にしていたからだ。
直史もまた、西郷に投げた球数は多いはずだ。
そしてプロ入り以来、西郷がどれだけ成長しているか。
遅い球三つで、西郷は内野ゴロを打たされた。
そして続くグラントも内野ゴロ、そして黒田は内野フライ。
第一戦とは違って、打たせて取る方針らしい。
もっとも窮地になれば、自然と三振も奪ってくるだろうが。
味方のバッターの凡退も、大介の頭の中では情報となる。
直史の条件、中四日で投げているのだから、確かに球数は少ないほうがいいのだろう。
ただ第一戦の内容に比べると、迫力は少ないのか。
(樋口の脱落も、そりゃあ痛いんだろうけどな)
自分が打たなければ勝てない。そう思いながらもボールが飛んでくれば、反射的にキャッチしてファーストに投げる。
ライガースのショートの守備範囲は、とてつもなく広い。
どちらにしろ、この試合の流れは分かっている。
投手戦だ。それは間違いない。
あとはどちらがミスをするか、それとも一発があるか。
(レックスは下位打線にロマン砲を置いてるから、始末がわるいんだよなあ)
大介はそう思いながら、強打と言われる自軍の打者が、直史に打ち取られていっているのを眺めるしかなかった。
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