第45話 海の向こう
この年、海の向こうのMLBにおいても、シーズンは最も加熱するポストシーズンに突入している。
MLBのプレイオフはNPBよりも少しだけ複雑であるが、普段は投球制限などをしっかり守っているエースたちが、ことプレイオフになると限界まで投げてくる。
レギュラーシーズンの興行とはまた違った、本当のベースボールがここで行われると言ってもいい。
ただし上杉にとっては、それはどうでもいいことだ。
MLBのマウンド自体は、過去にWBCなどで経験している。
そして上杉からまともに打てるバッターなどほとんどいなかった。
一線級のメジャーリーガーではなくても、翌年から期待されているホープのバッターなどは参加していたが、全く上杉には歯が立たなかったのだ。
そして直史もまともに打たれてはいない。
上杉の興味を引くのは、己の治療についてのみ。
周囲には気遣ったが、もう元のように投げるのは無理だろうな、とあっさり諦めてはいたのだ。
問題は元のように投げるのは無理として、ここから何をするか。
だがそこにおいて説明されたのが、筋断裂再生手術。
なんでもIPS細胞を使って筋肉組織の元とし、それで切れてしまった筋肉をつなぐのだとか。
ただしこれで元のように投げることが、保証されたわけではないという。
保証されるのはまず、平均よりもはるかに早い、断裂部分の治癒。
そして断裂した部分の、成長の促進。
「IPS細胞はそんなに便利であったか?」
首を傾げる上杉であったが、一応臨床例で既に成功はしている。
ただしスポーツのトップレベルの選手が、これによって復帰した例は、まだないという。
これまでのように、普通に断裂部分を縫合したとして、ピッチャーとして復帰できる可能性は1%あるかどうか。
それに対してこの治療法では、一般人の臨床例では完全回復を果たしている。
「実験動物のような感じがして、いい気分ではないな」
上杉としてもそうは思うのだが、何事においても最初の一人というものはいるものだ。
トミー・ジョンのような最初の一人になるべきか。
上杉の肉体であれば、本当に完全復活するかもしれない。
だが今までのものであれば、それはまず不可能なのだ。
結局上杉は頷いた。
己の選手生命を、未知の治療法に賭けたのである。
ハーバード大学の経営するマサチューセッツ総合病院にて、手術は行われた。
従来のような縫合手術に加えて、接着剤のように細胞組織を培養して移植、というかくっつける。
これが上手く定着するなら、理論より先に現実が誕生し、新たな治療法となる。
実際のところ神経細胞においては、これによって臨床例は存在するのだが、筋肉などでそれが通用するのか、プロスポーツ選手レベルでは試していない。
医学の新しい一歩であるが、その実験台にされる選手にしても、度胸は必要になる。
もっとも悪くとも、これまでと同じ程度には治療はされる。
ピッチャーとして投げるのはともかく、上杉はホームランも打てるバッターだ。
最悪打者転向というのもありなのでは、などと海の彼方の日本では、気が早すぎる議論もされていたりする。
明日美は上杉の新潟の実家に子供たちを預けて、夫と共にアメリカへ。
球団の通訳などがついていてくれるが、しばらくはホテル暮らしとなるだろう。
マサチューセッツ総合病院は、州の州都ボストンに存在する。
ボストンはアメリカの都市の中でも、比較的治安がいいことで知られており、またMLBのボストンデッドソックスのフランチャイズとして知られている。
この年もボストンはポストシーズンを勝ち上がって、まだ試合は行われている。
だがもちろん明日美が、そちらに向かうことはない。
手術の終わった上杉は、完全なVIPルームの個室で過ごすこととなる。
しばらくは肩を動かさないように、完全にギプスで固定してあるし、腕も吊ってある。
この状態が少なくとも一ヵ月半は続くが、普通ならもっと長くかかるのだ。
明日美もホテルからこちらに移ってきて、身の回りの世話をしようとする。
だが慣れない外国においては、精神的な支えぐらいにしかならない。
それでも気丈に振舞う彼女は、上杉にとって確かな存在になるのだ。
長い滞在になりそうなので、二人の子供もこちらに呼び寄せた方がいいだろうか、とも思う。
だが右も左も分からないアメリカで、子供たちを預けるのは難しい。
やはり日本において、養育するのがいいだろう。
二人ともまだ物心がつくかどうかと完全な幼児なので、寂しさと共に不安もあるのだが。
テレビも付属したこの病院は、様々なサービスを行っている。
大富豪や政治家なども使う病室なだけに、色々と整っているのだ。
そんな中で上杉は、ポストシーズンのMLBを見たりもする。
自分が復帰できるかどうかも分からないのに、他人のプレイを見るのが苦痛ではないのか。
明日美はそう思ったりもするのだが、上杉はそんな柔な人間ではない。
強いにも限界があるだろうと明日美は思うが、その弱さを見せたいと思う上杉でもない。
ならば自分に出来るのは、そっと身を寄せ合うことぐらいだ。
試合を見る上杉は、難しい顔をしている。
それはもどかしさとか憧憬ではなく、戸惑いと思えるものだ。
「どうしたの?」
明日美の問いに、ざらりと顎を撫でて上杉は答える。
「思ったよりも雑だと思えてな」
この番組はネット配信されているものに、日本語の解説が加わったものだ。
日本の野球中継よりも、様々なデータが画面には表示される。
今年のバッターの打撃成績などが表示され、野球の試合を見ていると言うよりは、数字を見ているような気分になる。
それもまた、間違いとは言い切れないのだろう。
現在のMLBの成績というのは、評価の指針が様々な数字を元に組み立てられ、そこから年俸が算出される。
だが実際のところは若手がFAになるまでの期間を安く使い倒す、弱者の経営術がまかり通ってきた。
この数年は年俸調停などがまだしも働くようになってきたが、それでもベテランの年俸が高騰しすぎていることは変わらない。
ロックアウトなどの選手のストライキもあるため、ややMLBの人気は落ちてきていると言える。
特にその傾向が顕著なのは、この数年で日本からのプレイヤーがリーグトップレベルの成績を残し、また国際試合の成績が奮わないことも原因である。
WBCなどはMLBが主催であるのに、いまだに自国の代表として、MLBのトップ選手を出すことがない。
設立四度目にしてようやく優勝出来たWBCであるが、ここ最近は圧倒的に日本が強い。
特に日本の場合、自国のリーグからの選手は出しているが、MLBの選手までは招聘していない。
それなのに優勝するのだから、優勝決定戦をワールドシリーズなどと称するMLBの実力に、ファンが懐疑的になるのも無理はない。
バッターは全員がホームラン狙い。盗塁も送りバントもない。
ピッチャーはより複雑化していて、アッパースイングをどう三振に取るか、あるいはボテボテに打たせるか、とにかくホームランと三振が多い。
緻密な日本の野球に慣れた上杉の目からすると、現在のMLBは大味すぎる。
もちろんパワーを最大に活かすための理論やトレーニングはあるのだろうが、その行き着く先がこのフィジカルだらけの野球なのか。
守備シフトなども全てベンチから指示を出しているらしく、選手たちは正しく駒扱い。
もちろん駒として、高い性能を発揮しなければいけないのだが。
そのようにテレビを見ていると、病院の職員が食事を持ってきたりする。
蛋白質多めの食事であるが、まだ全く体を動かせないので、明日美が「はい、あ~ん」などをしたりする。
そしてそれに照れを見せず、堂々とスプーンを頬張る上杉の姿に、職員たちもびっくりだ。
「日本でもトップレベルのピッチャーと聞いていますが、将来的にはMLBも視野に入れているのですか?」
サービスの向上のために、日本語の通訳が出来る職員を、わざわざ手配している。
もっとも彼女は日本語とベースボールにはそこそこ詳しくても、日本の野球には詳しくない。
「ワシは考えとらんが、何か周りが最近妙ではあるな」
「それとうちの旦那様は、元から世界一のピッチャーですので」
「明日美、世界で二番目で、日本でも二番目だ」
上杉の脳裏にあるのは、今年のオールドルーキーである。
上杉と大介の対決は、お互いが強力な力と力をぶつけ合っている。
しかしそこに直史は、技術と戦術で待ったをかける。
上杉がラオウで大介がケンシロウだとしたら、間違いなく直史はトキ。
それも病に侵されていない、柔の拳を使うトキである。
イチャイチャしているVIP患者であるので、早めにここは去るべきだろう。
「いくらベッドが頑丈でシャワーまであっても、今は運動はダメだからね」
完全にセクハラな発言をして、明日美は頬を赤らめる。
子供をもう二人も産んでいて、いまだにその純朴な反応はなんなのか。
ちなみに明日美が上杉との間に第三子を出産するのは、これから12ヵ月後のこととなる。
医師の診察により、症状は急激に改善しているのは分かった。
だいたい普通の三倍程度の速度で、右肩は治癒していっている。
だが本来この筋肉は、出力のための筋肉ではなく、出力を抑えきるための筋肉。
つまりこの筋肉が切れるということは、そもそも出力に対して、耐久力が不足していたということなのだ。
今年中には安静期間は終わって、リハビリが開始される。
それらの費用については球団持ちなのだが、球団側からフロント付きのマネージャーがやってきたりした。
治療が上手くいっても、来年一杯はさすがに、上杉は投げられないだろう。
何の話かと思ったら、年俸の下交渉であった。
怪我は公傷と言えるため、これを理由に下げるわけにはいかない。
だがそもそも来年以降にも投げられるか、それとも二度と投げられないかさえ、上杉にも分からないことだ。
減額制限幅を超えた減額でも、来年一年投げられないピッチャーに、払うのは厳しいだろう。
大幅な減俸でも了解するつもりの上杉であったが、球団の提示した減俸は、減額制限の40%であった。
減額制限を超える減額であっても、選手の了解があれば成立する。
上杉の知る限りでも、いくらでもそういう例はあった。
ただ球団の提示した金額に、選手が納得しなければ、自由契約となってしまうのだ。
上杉の場合は本来、今年の成績を元に年俸計算をするのだが、インセンティブが大きいため、来年が少なくなりすぎる。
さらに来年一年上杉が投げられないのは、そして二度と復帰できないかもしれないのは、普通にどの球団にも伝わっていくだろう。
だがそれでもスターズは超一流の選手に払うよりも、さらに高額の年俸を提示している。
つまり確実に上杉はもうダメだと分からない限りは、見捨てないつもりなのだ。
それでも全く投げられないピッチャーに高額年俸は難しい。
なので治療費に加えて明日美の滞在やそれに関わる費用など全てを、球団が負担するという形にしておくと、球団は経費計上で税金が浮き、上杉も治療以外の費用を自分で負担せずに済むというわけだ。
上杉としては球団がそう言うなら、ありがたく受け取っておく。
しかし、来年一球も投げられないであろう選手を、七億で引き止めておくのか。
確かに怪我をしたからといって、また上杉なら納得するからといって、制限幅を超える減俸になったら、球団としてのイメージは悪くなるだろう。
チームの選手の士気にも関わるから、球団としては上杉を切るわけにはいかない。
だから約束の範囲内での、最大の減俸にとどめるというわけだ。
この上杉の分の年俸を他に回せたら、どれだけスターズの強化に役立つことか。
だが上杉もここで自分から、自分の価値を下げようとは思わない。
そもそも税金を払うために、ある程度の金銭は必要になってくる。
元々あまり金には不自由していない上杉であるが、問答無用で年俸カットなどを許容する人間でもない。
「来年はもちろん、再来年も契約するとして、限度額いっぱいの減俸でかまいません。ただしインセンティブだけはつけていただきたい」
上杉は復帰するつもりである。
そしてまたパワーによって元のような成績を残せるなら、それはそれで評価してほしい。
大介や直史と同じく、上杉もまた評価報酬型の契約を良しとする。
だが実はこれに関しては、他の選手からは苦情が上がっていたりもする。
上杉には直接言えないが、大介などはよく言われることだ。
投打のトップの二人が単年契約でOKとしているため、他のそれ以下の成績の選手が、高額の複数年契約を結びにくくなっているというものだ。
これは大介にも上杉にも、信念的なものがあるのだが、一般的な一流の選手には、評判がいまいちだ。
複数年契約で落ち着いて試合に臨みたいと思っても、怪我などを心配してそれが難しいという理由だ。
実際のところは、かつてのプロ野球のように、あの選手でさえこんな契約なのだから、お前が偉そうなことを言うな、という文脈で交渉時に用いられることが多い。
もし上杉の今回の故障が、五年契約の三年目だとしたら、球団はあと二年間、合計24億ほどを払う必要があったわけだ。
球団としては実のところ、それぐらいのリスクは抱えた上でも、上杉ならば抱えるつもりはあったのだ。
特に上杉の場合は、二年前に既に海外FA権が発生していた。
国内にも海外にも、行ってほしくないというのは本当のところだったのだ。
ただ最近では複数年契約などの条件をケチると、選手はFA権を取ったら出て行ってしまうことも多い。
なのでそれなりには複数年契約も使われるのだが、上杉の場合は単年契約が、完全に裏目に出たパターンである。
二年間全く投げられなければ、ファンもさすがに納得するだろう。
それぐらいの打算はあって、上杉を囲ったままにしようとしている。
だが上杉としては、それぐらいは当たり前のことだと思うのだ。
これまでどれだけ貢献してきたとしても、投げられないピッチャーに払うには、七億というのは充分すぎる金である。
本格的な交渉などはなく、これで決着するであろう。
二年間でおよそ10億を、投げられないピッチャーに使わないといけない。
上杉のネームバリューだけでも価値はあるし、それにここで上杉を切ったら、球団からファンが離れることは間違いない。
それでもスターズとしては、痛い出費である。
これまでは上杉の力によって、純粋に彼一人の成績だけではなく、他の選手の力も引き上げていたからだ。
そんなスターズのフロント陣に対して、接触してきた者がいる。
そして出してきた条件は、スターズにとってはありがたいものであった。
上杉が復活するなら、むろんそれが一番望ましい。
だがもし復活しなくても、このような条件であれば、スターズには非常にありがたい。
スーパースター上杉が、スターズからいなくなるというのは、球団にとっては痛手であるが、ファンとしては上杉のピッチングが見られるなら、それはそれでいいのだ。
スターズのフロントとしても、復活するならスターズに戻ってくれなければ、上杉の生み出す利益にはつながらない。
上杉は絶対に、スターズにとっては必要なのだ。
もしこのまま引退するにしても、その背番号は永久欠番になるだろう。
だがそういった情緒とビジネスは別の話だ。
上杉の怪我は、間違いなく偶発的なものだ。
しかしアメリカの最先端医療を向こうで受けさせるというのは、このための布石であったのではないか。
話を持ってきた人間の背後に、必ず黒幕はいる。
だがこの提案は、間違いなくスターズにとっても有益なものなのだ。
強いて言うなら上杉が完全に復活できたとき、もっと早く投げさせれば良かった、と言えるぐらいで。
上杉の知らないところで、世界は動いていく。
この流れの全てを把握しているのは、金髪の小悪魔ただ一人であった。
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