第43話 可能と不可能の間に
負けた。
つくづくそれを感じながら、上杉はロッカールームに向かう。
「上杉さん、あの」
球団マネージャーを見つけると、短く伝える。
「マネージャーさん、タクシーを呼んでくれ。病院に行かんと」
色黒なその顔は、分かりにくいが赤みを増している。
「右腕が上がらん」
慌てて車の手配をしつつ、トレーナーにも付いてきてもらう。
タクシーでは情報が洩れる可能性があるため、こちらで借りていた球団用の車を動かした。
だらりと右腕は垂れ下がり、トレーナーがゆっくりと腕を上げると、激痛にもかすかに顔を歪める。
「いったいどうして……」
「最後の球を投げた瞬間、肩の中で太いゴムが切れたような音がした」
冷静に説明しているように見えるが、流れている汗は痛みからのものなのか。
世界最速達成など、中継を見ながらもすぐ傍で、この熱戦が行われているのだと直接見に行きたくなったものだ。
トレーナーとしての己の持つ知識の中で、全く腕が上がらなくなるというのは、それほど珍しいものではない。
(腱板の損傷……いや、これは完全断裂か)
上杉のパワーに、肉体の方が耐えられなかったのか。
だがこんな球を投げていれば、いずれは訪れた事態であったのかもしれない。
(恨むぞ、白石)
大介以外の相手ならば、もっと楽に勝てていた。
筋違いと分かっていても、上杉を壊したのは、間違いなく大介だ。
西郷に投げた球が抜けたのは、単なる結果。
大介との対決で、限界は訪れていたのだ。
ピッチャーとバッター、無理をして壊れやすいのは、当たり前だがピッチャーだ。
より全力を出しやすいと言った方がいいかもしれない。
アドレナリンが出ることで、限界以上の力を出してしまう。
上杉ほどの肉体を持っていてなお、それには耐えられないのだ。
(いや、あの時に白石と対戦した時からか)
今年のシーズン中に大介と対戦し、175km/hを出した。
その後は肩痛を発症し、珍しく少し休んだものだ。
医師も炎症と言っていたが、あそこからこの予兆はあったのかもしれない。
ただ勝ち続けていたため、見ないふりをしていたのだ。
終わったのだ。
野球史上最強のピッチャーの、選手生命が。
腱板の筋肉の断裂なら、おそらく手術の必要がある。
そこから三ヶ月は休み、さらにリハビリをして半年で、ようやく普通の人間のように手が動かせるようになる。
しかしそこから上杉のスピードが戻る可能性は0だ。
失われてしまった。
野球界の至宝が、永遠に失われてしまったのだ。
これからずっと、多くの伝説を残すはずだった、最強の鉄腕が。
「大変なことになった」
だが上杉の声は、車の揺れに痛みを感じながらも、平然としたものであった。
「だいぶかかるな」
それはまだ、諦めていないということか。
だが詳しいことを聞けば、いくら上杉でも絶望するしかないだろう。
「また、0から始めるだけだ」
その声には、自分の現状を嘆く響きなど、一切感じられない。
0ですらない。マイナスなのだ。
もちろん球団は再起不能の上杉でも、すぐにクビになどはしないだろう。
だが長い、本来なら選手として最も脂の乗った時期を、完全にリハビリについやすことになる。
それに加えて、元に戻る保証は全くない。
だが諦めるということは、上杉からは最も遠いところにある言葉だ。
新たな挑戦の道が現れただけ。
不屈の上杉は、まだまだ自分は、道の途上にあると思うだけである。
勝った勝ったと喜んでいられるだけではない。
ライガースの面々も、明日には東京に移動して、明後日からはファイナルステージを戦うことになる。
その中では真田が、病院送りとなっていた。
「故障ではなく炎症ですけどね」
その言葉に、ホッとする本人とコーチである。
試合中に左肩の中に、微妙な違和感は生まれていたのだ。
だが投げている間はずっと、しっかりと動いていた。
それが試合が終わってしばらくすると、確実におかしい兆候が現れた。
真田はこれまでの故障らしい故障は、肘であることが多かった。
しかし肩にしても、痛めたことはある。
高校時代は柔らかくて治りやすくても、大人になれば硬くなり治りにくくなる。
もっとも硬くなるというのは、頑丈になるという意味も含んでいるので、全てが悪いわけではないのだが。
「いつまで休んだらいいですか?」
「本当なら三週間ぐらい休んだほうがいいんだけど……」
それではファイナルステージはおろか、日本シリーズまで終わっている。
スポーツ選手の無理には、長年付き合っている医師である。
「じゃあとりあえず今日は、酸素カプセル入ってみようか。明日は一日ランニングだけして、そこでまだ重さが残っていたら考えよう」
真田の状態は、上杉に比べれば圧倒的に軽症である。
だがここで下手に投げれば、本格的に故障する可能性はある。
FAになったとして、故障した選手をどこが取るというのか。
また一年、ライガースにいるべきなのか。
直史との対決を考えなければ、今年のプレイオフは終わっても仕方がないのだが。
何も知らない真田は、悪態をつきながらもファイナルステージの先発は諦める。
まずは疲労を取らないと、あの天敵には勝てないのだから。
真田と山田をファイナルステージの第一戦で使うことは出来ないと、ライガースの首脳陣は考えていた。
真田はとにかく、今日も投げすぎた。
肩を重そうにしていたし、念のためにスポーツドクターに診せてみれば、やはり疲労がたまっていた。
軽い炎症だといっても、それは筋肉を限界に近いところまで使っているため。
第一戦はもちろん、第二戦も投げさせるのは難しい。
「初戦は大原でいこう」
金剛寺は予告先発の直前に決めて、大原にもそれを伝えた。
おそらく万全の準備をして、レックスは本拠地神宮球場で待ち構えている。
当然ながら第一戦は、第六戦までもつれこむことも考えて、直史を投げさせてくるだろう。
直史を打てると、言えないのが首脳陣の辛いところである。
過去にも上杉や武史が、化け物のような数字を残してきた。
だがそれに比べてさえ、直史の成績は異常であったのだ。
25登板23勝0敗1セーブ。
取られた点がシーズンを通じてわずかに一点。
上杉でさえも完投すれば、それなりに点は取られていることが多かったのだ。
それでも今のNPBで、狙って完封が出来るのは、上杉だけだと言われていた。
だが直史は当たり前のように、完封をしてくる。
それだけではなく、ノーヒットノーランやパーフェクトも複数回達成し、多くのピッチャーの成績を、既に一年目だけで上回った。
誰が投げても、直史を相手にしては負ける可能性が高い。
こちらの勝ちに行くピッチャーは、山田、真田、阿部、そしてやや劣るが村上にオニールといったところか。
大原はあくまでも、点の取り合いで勝ち星を稼ぐタイプ。
なのでこの対決は、弱い札で強い札を使わせるためのものだ。
それにもしも大介が打てたなら、たとえ負けたとしても、その試合には意味が出てくる。
命じられた大原は、その意味を察した。
負けると分かっている試合。だがだからこそ、どう負けるかが重要になるのだ。
「第一戦先発か。燃える」
そう言って笑った大原の笑みは、あくまでやせ我慢の笑みであったろう。
だがそのピッチングを裏切らないために、第二戦以降を勝っていかなければいけない。
ファーストステージとファイナルステージとの間に、休みは一日。
大原が身を捨ててもう一日休みを作ってくれれば、その間に投手陣を回復させることが出来る。
レックスの投手陣は強力であるが、それを打ち破ってきたのが今年のライガースだ。
もっともそういう時は、ライガースもピッチャーをエース級を当てていたのだが。
佐藤兄弟をどう打つか。
金原と佐竹も厄介であるが、あの兄弟の組み合わせはさらに強力すぎる。
おそらく第一戦は、直史が投げてくる。
それを承知の上で、大原には捨石になってもらう。
全ては最終的な勝利のために。
上杉の故障については、普段から情報網を作ってある彼女には、普通に同日中に知らされていた。
再起不能か、ほぼそれと同様の状態。
セイバーは眉間に皺を寄せて、この状況を考える。
日米の間でプロ同士の対決があった場合、必ず日本側の中心になるのが上杉であった。
長年その体制が続き、今後もそうなっていくのかとは思っていた。
「けれど……」
これで大介を日本に引き止めていく理由が、一つなくなってしまった。
今年から直史がプロ入りし、そしてオフには真田がライガースを離れるのではないかと言われている。
その場合、大介はMLBの世界に乗り込もうとするだろうか。
大介との約束に従い契約に加えた、もしも大介がMLBに挑戦したら、翌年には直史もMLBに向かうという約束。
セイバーの伝手があれば、直史を迎えることは難しくない。むしろずっと前から、それは考えていたことなのだ。
大介を引き止めておく理由は、一つなくなった。
そして計画は、次の段階に進めなければいけない。
これにはセイバーはもちろん関わるが、それ以外の人間も動かしていかなければいけない。
アメリカの地でMLBで働いていてから、もう10年以上の月日が流れている。
金銭を目的ではなく、手段としたきっかけ。
それはささやかに言えば、復讐に似ている。
MLBの現在のシステムでは、直史に正しい価値がつけられない。
だからそこは、自分がフォローする。
対して大介に関しては、あまり自分が表に出ないほうがいい。いや、表に出てはいけない。
「上杉選手の怪我は、もう本当に回復の余地はないのですか?」
SBCのお抱え医師に対して、セイバーは問いかける。彼女は医学の専門家ではないのだ。
「0.001%とかを可能性と言っていいなら、あると言うしかありませんね」
それは実質的にはありえないということだ。
上杉の損傷した部分の筋肉は、出力よりはむしろ、安定を保つためのものだ。
もちろん筋肉はそれぞれが連動しているため、完全に一つの働きだけをするわけではない。
だがもし治癒してボールが投げられるようになっても、おそらくは一般人と同じ程度にしか投げられないだろう。
完全に上手く回復しても、コントロールがでたらめになっているはずだ。
子供が最初からボールを投げ始めるように、とにかく時間をかけて取り組まなければいけない。
ただしそれも、全て上手くいったといっての話だ。
それでも、本当に上杉が終わりだとは、どうしてもセイバーは思えない。
あの鉄人の非常識さのおかげで、彼女は世界を相手にした裏賭博で、色々と儲けさせてもらったのだ。
その資金は完全に自分の財産とは別にして、タックスヘイブンに保管してある。
説明を受けたセイバーは、アメリカへとダイヤルした。
この時間になら、向こうも電話を取れるはずだ。
もしも不可能であるならば、それはそれで仕方がない。
上杉はアメリカに行くつもりなど全くなかったのだから、セイバーの計画にはあまり変更点はないのだ。
だがそれでも、いてくれた方がありがたい人間であることは間違いない。
アメリカの最先端医療を使ってでも、復活の可能性を探るべきだろう。
「まったく、何をしているんだか」
こんな形で計画が進むとは、思いたくなかったセイバーである。
セイバーはレックスのフロントの一員であるが、同時にスターズにも影響力を持っている。
上杉の状態についての情報が、すぐに回ってきたのはそのルートからである。
そして今度はそのルートを逆に回して、上杉の治療方針を考える。
現実的なスポーツドクターは、ほぼ全員が匙を投げた。
もちろんある程度までは元に戻せるが、全盛期に戻すのは無理だ。
そんな返事はセイバーは、いくらでも分かっていたのだ。
だがアメリカの医師に聞いてみたら、まだ実験段階に近いが、これを修復することは出来るだろうという返事があった。
ただし修復できたからといって、元と同じパフォーマンスを発揮するとは言えない。
人間の肉体というのは、成長と共に全てが鍛えられ、そしてようやく上杉のような怪物になるからだ。
しかしセイバーに言わせれば、0ではないのならやる価値はあるだろう、というものである。
自分自身が上杉に接触するのは問題がある。
なのでセイバーが話を通させたのは、日米間の選手の移籍に関わることの多いドン野中。
セイバーとは協力者ではあっても、上司と部下などではない。
もちろん背景にある財力によって、力関係はセイバーの方が強い。
ただこの際必要になるのは、そういった伝手を持っていてもおかしくなさそうな、人脈なのである。
セイバーとはまた違う経路で、そういったつながりを持っていてもおかしくはない。
上杉を治療するのに、セイバーにどんな旨味があるのか。
もちろん単純に、スターズの球団母体の株式を取得しているので、復活させる意味はある。
ただ本当に損をしないだけなら、誰も分かっていない今のうちに、株式を手放せば良かっただけだ。
もっともそれはインサイダー取引にあたるので、バレる可能性はきわめて低いが、セイバーとしては取りたくない手段だったのだ。
株式売買における金融庁のSESC(証券取引等監視委員会)の恐ろしさは、存分に分かっているセイバーである。
今年はまだファイナルステージと日本シリーズが残っており、シーズン自体は終わっていない。
だがセイバーはもう、次の段階を見越して活動しようとしている。
もっとも上杉の件は単純に、地球で一番優れた才能が、このまま消え去るのを惜しんだからとも言えるが。
ストーブリーグを前に、セイバーの動きは活発になっていくのであった。
ライガースの選手たちは、一部を除いて翌日、東京に向かった。
決戦の地は神宮球場。学生野球のもう一つの聖地である。
この三年、セ・リーグの勝負はレックスとライガースの争いとなっている。
しかし二年間は、ライガースが逆転している。
もっとも今年はそう、甘くはいかないだろう。
レックスには直史が加入したからだ。
東京。
大介は元は、東京が出身地なのである。
東京でも田舎の方で、だいたい千葉を中心に活躍したので、千葉出身と勘違いされることが多い。
今年はツインズも東京のマンションに戻って、大介の応援に来る予定である。
直史と大介の対決。
シーズン中のそれとは、また違った本気の対決が見られるはずなのだ。
その中でツインズには、イリヤから情報が流れてきた。
どうしてイリヤがと思うが、それは恵美理や明日美から流れてきたものらしい。
上杉の故障。しかもほぼ選手生命が終わるほどの。
原因となったのは、間違いなく大介とのあの勝負。
もちろんお互いがプロであるため、大介に責任があるわけではない。
だが大介であってもそんな事実を知れば、満足なプレイは出来なくなるかもしれない。
大介はタフであるが、同時に繊細なところもある。
そういったところがなければ、プロとしては成功しないのだ。
ツインズはその情報を、ここで止めておくことにした。
全てが終わったら、一緒にお見舞いにでも行けばいい。
ただ同時に、不穏な気配も感じる。
強者の傲慢な気配。それはツインズにとって、常に潰すべきものであった。
そういった者は、自分たちの前からは消し去っておくべきだと。
だがこれは、今までのものとは違う気がする。
ともかく最終対決を前に、既に色々な事態は進行しているらしい。
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