第42話 爆発
左打者の多いスターズのクリーンナップを、三者凡退で抑える真田。
ベンチ裏に引っ込んで、肩をぐるぐると回す。
(少し痛い……かな?)
時々戦線離脱をすることもある真田は、だいたいどの程度の問題か、自分でも分かったつもりでいる。
高校時代から故障とは、それなりに付き合ってきている。
ただこの年に肩が痛いのは、あまりいいことではない。
今年の真田は22先発17勝3敗。
負けた相手は、直史、武史、細田といった各チームのエース級である。
防御率は1点台と好調で、完封勝利も経験している。
ちょっとした体の各部の痛みで、ローテを飛ばしたことはある。
だがそれを置いて考えても、充分な成績だろう。
高卒八年目で、既に115勝。
上杉という化け物とほぼ同時代であったことが、不幸と言っていいのか。
だがそういった化け物がいたからこそ、リーグ全体のレベルが強制的に引き上げられたとも言える。
(単に優勝がかかってるだけならともかく……)
真田の成績からして、FAとなったらオファーがあるのは間違いない。
だが故障でもしてしまえば、話は別だ。
無理と言ってドクターストップをかけるのは、普段であれば構わない。
そもそもここで打たれてしまえば、ファイナルステージに進むこともなくなる。
だが勝てば、神宮で佐藤直史と戦える。
(あいつには一度も勝ててない)
高校時代から、そしてこのプロに入っても。
さすがに日程的に、真田がファイナルステージの初戦で投げることはないだろう。
対してスターズは、初戦に直史を出してくる可能性が高い。
ライガースが直史にぶつけるなら、それはおそらく大原ではないかと思う。
大原は長いイニングが投げられるため、たとえ負けても完投させる。
そしてリリーフ陣も休みを入れて、第二戦からが本番といったところか。
真田が監督であれば、大原を捨石にしてでも、ピッチャーを回復させる。
大原と直史を戦わせるなら、充分ではないか。
問題は第二戦以降だ。
この試合で真田を使っているということは、まだ第二戦でも投げさせはしないだろう。
オニールか村上あたりを使って、あとはバッティングで援護をするか。
レックスには完投能力どころか、狙って完封できるピッチャーが二人もいる。
間違いなく今のNPBで、最高の投手力だ。
いや、先発陣もリリーフ陣も、数字を見たら史上最強とさえ言えるかもしれない。
(せめて、佐藤兄弟のどちらか)
真田の執念は、直史と武史の両方に向かっている。
八回の裏、ライガースの全く油断できない五番以降の打順。
五番のグラントは30ホームラン、六番の黒田も三割近くに二桁ホームラン、そして七番の孝司は三割と、隙のない打線。
特に今年、打てるキャッチャーである孝司を獲得したことは、ライガースにとって大きなことであった。
リード面に関しても、それほどの差はない。
ならばより得点を取ってくれるキャッチャーの方がありがたい。
そんな三人を、やっと肩が暖まってきたといった感じで、三者三振。
ボールが前に飛ばないという、上杉の伝説の再現が、この甲子園で成されるのか。
一年の夏に既に、155km/hを投げていた。
だが実はそれはキャッチャーが捕れないからそれ以上を投げていないだけで、実際はもっと速い球を投げられたのだ。
次の年は春と夏の連続で、決勝にまで進出した。
しかしこのあたりからさすがに、向こうも打線が粘りつつ、春日山に得点を許さないというパターンなっていたのだ。
甲子園球場で胴上げ投手になったこともある。
だがこの先は、神宮での対戦だ。
もう、10年以上も前になる、あの夏。
今年こそはと万全の状態であった春日山の打線を、試合以外の場面で完璧に抑えたあのピッチャー。
上杉もワールドカップで投げたことはある。
だが球数制限と他にピッチャーが負けたことで、結局優勝を果たすことは出来なかった。
だが、日本に初めての優勝をもたらしたあのチーム。
もちろん大介の役割が巨大であったが、最優秀救援投手に選ばれたのも、大介と同じ二年生であった。
今年はシーズン中に二度、投げ合っている。
お互いの投げているイニングの間では勝負がつかず、試合の勝敗で言うならば上杉から代わったピッチャーが打たれて、一試合は負けている。
本気で投げ合えば、どれだけの0行進が続くのか。
(勝負だ)
上杉は肉体に疲労がたまっていても、負けるつもりなどまるでない。
九回の表、スターズの攻撃は三者凡退。
真田もまた、立派なエースだ。
それでも上杉にとってみれば、その気になれば勝てる相手だ。
ここまで互角なのは、お互いの打線陣の能力の差による。
最強の打撃力と得点力を誇るライガースを、上杉は相手にしている。
それでも同じように、0の行進を築いていた。
九回の裏、真田の打順には、代打が出された。
その代打は実力は認められながらも、外国人にポジションを奪われることが多く、代打や守備固めなどで、いまいちスタメンに定着していない主に外野手の山本。
大卒30歳になる彼は、戦力外には絶対にならないし、一軍にいることがかなり長い。
FA権まで実は発生しそうなのだが、代打や代走や守備固め以外で、なかなか使われることがない。
ここで一発打ってサヨナラならば、評価はいきなり高まるだろう。
だが上杉を打つには、一軍経験が圧倒的に足りない。
やや抑え気味のストレートでも、詰まらせて内野ゴロ。
コンパクトにスイングしなければ対応できず、そしてそのスイングでは飛ばない。
完全に開き直って一発狙いを出来ないところが、スタメンに定着しない理由の一つである。
この回も三者凡退。
上杉に交代してから、大介のヒット一本だけである。
その大介も一発は打てず、スターズも真田を打つことが出来なかった。
ただ10回の裏には、その大介の打席が回ってくる。
しかしその前に、スターズは10回の表の攻撃がある。
ライガースのリリーフ陣も強力であるが、ここで一点を取れば、合理的な選択さえ出来れば勝負は決まる。
だが決まらなかった。
ライガースリリーフ陣は、バッターとしても恐ろしい上杉もしっかりと抑え、ツーアウトまでを奪った。
しかしスターズに出塁を許す。長打で一点が入れば、ほぼスターズの勝利は確定するだろう。
だがライガースはスターズの三番西園に対して、さらなるリリーフの投入。
外野フライを打たせてアウトを取り、無失点のまま10回の裏へ。
ライガースとしては、最後のチャンスになるかもしれない。
もしもこのまま上杉が、12回まで投げきるなら、そしてヒットを打たせないなら、引き分けになる。
ならば一勝しているスターズが、引き分け二つでファイナルステージへ。
上杉から一点を取る?
しかもシーズン中の油断している上杉ではなく、勝ちにきている上杉から?
上杉はしないだろうが、ベンチから申告敬遠が出たらそれで終わりだ。
さすがにスターズ首脳陣も、それはやってはいけないと分かっているはずだが。
大介であっても、狙って一発は難しい。
ならばどうするか。
「大江からか……」
打順は二番の大江から。
大江が出塁してくれたら、大介の長打でも帰って来れるかもしれない。
もっともスターズの外野は深く守っているし、そもそも大江が塁に出ることが難しい。
首脳陣からの具体的な作戦もなく、バッターボックスに入る大江。
そしてモブキャラのごとく、三球でしとめられた。
ここが最後だな、と大介は覚悟する。
ここで自分が打てなければ、終わる。
後ろに続く西郷や黒田を信じないとか、そういうレベルの話ではない。
試合の流れがそうなっている。
野球の神様が、そういう舞台を用意してくれている。
(どうせならツーアウトランナーなしの方がそれっぽいけどな)
ワンナウトなら大介がツーベースで塁に出て、そこから三塁に盗塁。
そして西郷に気合で内野ゴロを打ってもらって、一点を取る。そんな展開もありえるのだ。
ツーアウトなら、もう西郷は打つしかない。
大介が三塁にいるなら、キャッチャーの後逸などでも一点は取れることになるが。
まさか敬遠はないよな、とスターズのベンチを見るも、動く様子は見せない。
勝負だ。上杉に全てを任せている。
スターズは上杉に対する信仰が強すぎる。
(一発狙うしかない)
大介はマウンドの上杉の、陰影がかかった表情を見つめる。
殺し合いの表情をしている。
下手に当たれば、それで致命傷になるような球を投げてくるのだろう。
頭部以外でも、たとえば脇腹に当たれば、肋骨が内臓に突き刺さりそうな。
(けれど、燃えるよな)
集中した大介は、バットを支える力を残し、完全に脱力した。
体が燃えるように熱い。
ずっと限界だと思っていた、さらにその先が見えている。
上杉はだが、この熱さが地獄への道だとも分かっている。
限界のさらに先がある。
だが、限界は限界であるのは間違いない。
だが体だけではない。魂も熱い。
野球をやってきて、ここまで熱くなれることが、まだこの先にもあるのか。
今が自分の全盛期だ。
29歳。11年目のシーズン。
記録を作り、あらゆるバッターと対決し、ほぼ制圧しても、まだ足りなかった。
必要なのは、ライバルであった。
ピッチャーとバッターとしてではなく、ピッチャー同士としての。
今年も上杉は、大介にホームランを打たれている。
シーズンにおいての敗北は一試合だけだが、そういうことではないのだ。
自分は野球というチームスポーツにおいて、かなりひどいエゴイストだと思う。
直史に勝ちたい。
そのためには、大介に勝つことを証明しなければいけない。
チームのことなど、考えたことはない。
ただ、勝つためにはどうすればいいかは、常に考えていた。
そう考えた結果が、かなり不器用なやり方にはなったかもしれないが。
(行くぞ)
上杉はマウンドの上で振りかぶった。
低い。
大介がそう判断したボールは、地を這うような軌道から伸び上がった。
アウトローに決まったそのボールは、ストライクのコール。
175km/hが、ここまで見事にコントロール出来るのか。
二球目はチェンジアップが外に外れた。
だがこれは明らかに、緩急である。
(速い球で勝負してくる)
それは読める。もはや上杉にとって、それは本能のようなものだ。
そして高めに、大介の予想通りに、速いボールがきた。
打てると思った振ったバットの、上をかすっていくストレート。
ミットに収まったボールのスピードは、176km/hの表示を出していた。
「マジか……」
人体の構造からして、人間が出せる球速は、最高で178km/hと言われている。
上杉のボールは、その限界に近づいている。
まあウサイン・ボルトは人間に可能であるはずの100m走のタイムを更新して、新しい理屈を逆に生み出したりもしているのだが。
焼け焦げた匂いがするのは、ボールとバットの摩擦によるものか。
大介はタイムをかけて、バットを交換する。
おそらくもう一度当たれば、このバットは折れる。
(未熟だ)
折れるようなスイングをしているうちは、まだまだ一人前ではない。
上杉は限界を超えた。
ならば自分も、限界を超えなければいけない。
バッターボックスに入った大介に、四球目はツーシーム。
わずかに逃げていく球をカットして、三塁線の向こうにボールは飛んでいく。
五球目、チェンジアップがまた外に。
ツーシームと合わせて、大介のタイミングを速い球に合わせないための策か。
速い球が来る。
大介はそれを、反射で打つ。
176km/h。
それを打つ、初めての人間になる。
打球の彼方の向こうに、まだ見ない地平が広がっている。
上杉の投げた球は、高めへ回転のきいた176km/h。
大介のスイングは、それを捉えた。
打球は、高く上がった。
ひたすら高く、まるで見えない階段を駆けていくように、ひたすら高くへ。
だがそれは、長く感じたが永遠ではない。
ボールが落ちてきた。
フェンス際、グラブを構えていたセンターの場所へと。
高く上がりすぎたために、風の影響を受けたのかもしれない。
ただ結果としては、センターフライ。
ほんのわずかの差が、勝敗を分けた。
負けた。
人間の限界へと、上杉の方がより近づいていた。
見送ればボール球だったと、後から言われた。
しかし結果は、どこまで惜しいところまで運んでも、センターフライであることは変わらない。
これがドームなら、天上に当たっていたのだろう。
だがここは甲子園。野天の球場だ。
わずかな力の差だろうが、結果はこうだ。
大介の負けだ。
バットを持ったまま、一塁に歩くこともなく、大介はボールの行方を見守っていた。
そしてキャッチされて、メットを取る。
(終わったな)
これで今年は終わりか。
だが、手ごたえの残る終わり方であった。
ベンチに戻ってきた大介に、声をかける者はいない。
あのスピードに対応出来るバッターなど、他にどこにもいないはずなのだ。
(もう一打席なんて、回ってこないよな)
二人ランナーが出れば、第六打席が回ってくる。
しかしそんなことはなかった。
大介の打席は、この五打席目で終わり。
そして西郷が、上杉の球を打った。
160km/hも出ていない、高めのストレートであった。
あまりにも上杉としては甘い、失投とも言える球。
初球だった。
大介との対決で、力を使い果たしたのか。
バックスクリーンへ、そのまま入るホームラン。
ライガースのサヨナラ勝ちと、ファイナルステージ進出が決定した瞬間であった。
打たれた上杉は、帽子のひさしを深くかぶり、下を向いた。
そして打った西郷は、しばらくそれが信じられないように、入ったボールがてんてんと転がるのを見ていた。
ようやくバットを地面にそっと置くと、ベースランを開始する。
誰もが予想していなかった、あっけない幕切れであった。
こんなこともあるのか。
いや、こんなこともあるのが野球なのか。
大介と、そして打った西郷が呆然とする中、ベンチの中はもみくちゃになる。
我先にと飛び出して、ホームを踏んだ西郷の下へと駆け寄る。
最後に出たのが、大介であった。
そして体にまとわりつくチームメイトををそのままに、大介のところまで歩いてくる。
「上杉さあ、もう力が抜けとった」
大介との勝負で、全ての力を使い果たしていたのだ。
西郷からすると、そうとしか思えない。
野球はチームスポーツだ。
誰か一人が打てなければ、それで負けなどというものではない。
それを多くの人間が、忘れていたのだろう。
大介は、上杉との勝負には負けた。
しかしライガースは、スターズとの試合に勝った。
(まあそう全てが都合よくいくはずもないよな)
そう思ってスターズのベンチを見た大介だが、そこに上杉の姿を見ることはもうなかった。
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