第31話 第一打席
※ 今回も時系列が東方編58話が先になります。
×××
レックスが先制点を取ったのは、ライガースベンチはもちろん重く受け止められているが、これまでの数字を見てきた応援団や視聴者にとっては、絶望に近い事実として感じられた。
この試合までの直史の防御率が、客観的な絶望である。
防御率0.0448
20試合フルイニングで投げてようやく、一点取られるかどうかという数字なのだ。
実際にここまで一点しか取られていないのだから、間違っていない。
ライガース打線が相手であれば、それも例外になると言う者もいるかもしれない。
だが過去の二試合では、無失点どころか無安打に抑えられている。
八回途中で11奪三振、九回14奪三振と、前に飛ばすことも難しい。
直史は普段は手を抜いて投げていて、大事な試合やライガース相手には、本気で投げているのだろうというネットなどの意見は、そこそこ正しい。
正確には大介と、そして西郷を抑えるのが、バッテリーとしては大変なのだ。
直史との対決が待ちきれない大介であるが、だからと言って守備がおろそかになることはない。
レックスもライガースと同じく、三番打者を軸に打線を組み立てている。
正直な話、大介にとっては樋口は、わずかだがトラウマになっている。
夏の甲子園決勝で、逆転サヨナラホームランを打たれ、岩崎は確かに完全にトラウマになったが、白富東の選手の多くは、樋口に悪感情とはいかないまでも、確執めいたものを持っていてもおかしくない。
自分が打たれたわけじゃないし、と負けた直後にバッテリーを組んで、ワールドカップに出た直史が異常なのである。
もっとも樋口はキャッチャーとして、そしてバッターとしては間違いなく、リーグトップの選手である。
正捕手となった時期と、レックスの防御率が劇的に改善した時期が、ぴったりと重なっているのだ。
二年目からベスト9とゴールデングラブに連続で選ばれており、打率と打点でトップ5、ホームランでもトップ10に入る打力、そしてキャッチャーとしては史上初のトリプルスリーと、上杉や大介に比べると地味だが、既にレジェンドレベルの活躍である。
特に今年は打率で二位と、大介の次につけている。
大介が四割を打ってしまっているので、さすがに首位打者は取れないのだが。
レックスとスターズ、それにフェニックスは、大介を相手にしても、それなりにちゃんと対決してくる。
なので大介としても、ありがたいと思っている部分はあるのだ。
だが本質的に樋口は、野球が好きだから野球をやっている人間ではないということは分かる。
野球の才能があって、それで稼ぐことが出来るから、仕事として野球をやっている。
力と力、技と技の勝負を演出することもあるが、あくまでもそれは商売として。
年俸に関わるような場面では、利己的な選択をする。
樋口のリードやバッティングによって、調子を崩された選手は多い。
レックスの攻撃は、ライガースほどの破壊力はない。
だが、一言で言うと、しぶとい。
ベテラン西片は出塁率がまだ高く、緒方は今年は安打を量産している。
なんとか緒方の調子を崩せれば、最後の最多安打のタイトルも、大介のものになる。
残り試合数は少ないが、逆転不可能なものではない。
そんな大介の祈りが通じたわけでもないだろうが、山田は二人をしっかりと打ち取ってくれた。
続くのは三番の樋口だが、これがまた厄介である。
樋口は読みで打つ。
失投は見逃さず、空振りか見逃しかで、バッテリーの思考を誘導する。
ここしかないという球を投げさせて、それを狙い打つというえげつなさ。
なんであそこで打たれるんだと、ピッチャーやキャッチゃーの判断力を低下させるのだ。
困った時のアウトローが通用しない打者の中の一人、それが樋口である。
ただ数字だけを見れば、かなりアウトローでも見逃している。
それは大介を反面教師にしているからだ。
大介は過去、一シーズンに172個のフォアボールを投げられた。
敬遠も50を超えた。申告敬遠でそれだけ歩かされたのである。
通算でも既に350以上の敬遠をされていて、これまた地味なところでも記録を塗り替える可能性を持っている。
それほどのスラッガーであるのに、通算でまだデッドボールは二つしかない。
踏み込んで打つので、内角での死球があってもおかしくないのだが、自分の体に当たるコースというのは、バットが当たるコースでもある。
避けきれないと思ったら、バットでファールにしてしまうあたり、そのバットコントロールも卓越している。
樋口は確かに歩かされることもあるが、大介と同じように四番に強打者がいる。
それも浅野は、打率は樋口よりも低いが、ホームランは樋口より多い。それにつれて長打力も高い。
樋口を敬遠しても、盗塁をしてくるほど足の速いキャッチゃーなのだ。
浅野がやや深めのシングルヒットを打っても、打球で判断して二塁から一気にホームを落とすことが出来る。
そのあたりのことを考えると、この最初の打席の樋口は、さらに山田の体力を削ってくるだろうか。
大介の予想に対して、樋口は初球を振り抜いた。
打球はショートのはるか頭上、レフトスタンドへと飛び込む。
初回の、初球から打ってくる。
樋口はそういうキャラクターではなかったはずだ。
(ああ、それが先入観か)
樋口は本当に、頭を使って野球をやっている。
身体能力において、樋口は体格以外、大介に優るものはない。
怪我をしないのは大介よりも、パワーに頼っていないからである。
だがこの舞台で、最初に打点を上げたのは樋口だ。
戦略的に、打撃のスタイルを選択している。
普段のルーティンでバッティングスタイルを確立しているのが、ほとんどのバッターのはずである。
樋口のチートっぷりは、そういった先入観や、合理を外れたところにある選択を、それに相応しいところで発揮しているからだ。
目の前をゆっくりと走る樋口に、大介は尊敬と共に敵意を向けて声をかける。
「上手くペテンにかけたもんだな」
それに対して樋口は皮肉な笑みを浮かべた。
「野球においてはペテンにかけられる方が悪い」
その通りだよ、こんちくしょう。
直史を相手に、初回から一点のビハインド。
これはかなり厳しいが、一点ならどうにかなる可能性はある。
二点ならそれは、可能性が0ではないだけで、実質的には0である。
下手をすれば大介の打席は、いや下手をしなくても、この試合で三回しか回ってこない可能性が高い。
その二打席のどちらかで、ホームランを打つのだ。
同点にさえ追いつけば、延長戦に回る可能性もある。
ライガースも今年は、先発だけではなくというより、先発よりもさらに、勝ちパターンの時のリリーフが強いのだ。
続く浅野を外野フライで打ち取り、いよいよライガースの攻撃である。
一番の毛利は出塁の鬼。ただしもちろんその出塁率は、大介よりは下である。
この三年、大介がフォアボールか敬遠で歩く数は、毎年150を超えている。
ルーキーイヤーから五割を超える出塁率を達成し、何度もそれを塗り替えた大介。
そんなものと比較されたら、どんなバッターだろうとたまらない。
必ず打席が回ってくるので、大介はバットを持ってベンチ前で準備する。
直史のピッチングを、しっかりと見ている。見て、見極めるのだ。
(全っ然、本気出してねえな)
毛利の意識がヒットではなく出塁だと、完全にあのバッテリーは見切っているのだ。
そのくせ最後には、ミーティングで狙い目としていた高めのストレートで、打たされてしまった。
(149km/hか。体感はもっと速いんだろうけど)
大江がバッターボックスに向かうので、大介もネクストバッターサークルで待機する。
大江もまた、初球のストレートを打てなかった。
直史の投球割合とは全く違う、ストレートから入る組み立て。
こうやって相手によって、ピッチングのパターンを変えてくるのだから、本当に性格が悪く頭はいい。
優れたキャッチャーがいるチームは強くなる、というのは間違っていない。
だが頭脳が優れていても、心理的な駆け引きまで把握していないと、本当に通用するキャッチゃーにはなれない。
ともあれ、大江も打ち取られた。
いよいよ大介の出番である。
初球に何を投げるかが問題である。
初球から次につなげていくのは、考えていかないといけない。
つまりそこに思考というノイズが入る。
だが初球だけは、本当に決め打ちで打ってもいい。
ここまで続けて、直史は初球にストレートでストライクを取ってきた。
だが大介にそれはないだろう。
大介を相手にして、純粋に空振りを取るかジャストミートされない球。
それはまず、普段もっとも見かけない軌道と速度で投げられる、スルーであろう。
意表を突いてストレートということもあるかもしれないが、それなら大介は反射で打ってしまう。
そして直史が投じたのは、シンカーであった。
ツーシームやシュートのような、高速シンカー。
投げ方や変化が違うので、一応は別枠の球種である。
左バッター相手には、逃げながら沈んでいく。
比較的速度もあるため、ゴロかファールを打たせやすい。
大介はバットを止めて見送った。
変化量がそれなりに大きく、ゾーンから外れていった。
基本的にゾーンでほとんどの勝負をして、ボールに逃げる球は振らせるのが基本の直史である。
だが大介が相手の場合は、別の前提で考える。
打たれても単打までならOK。
しかしそこから、走ってくるかもしれないのが大介だ。
もっともシーズン終盤に入って、大介の盗塁数は減っている。
直史のクイック、樋口の肩、それらを総合して考えるに、単打までならいいと判断する。
二球目は高めの、高すぎるところへのストレート。
大介はさすがにこれは見送った。
(高めに伸びる球を投げたってことは、次は沈む球なんだろうけど)
大介はそう考えながらも、幾つかの可能性を残しておく。
力強い動作から投げられた三球目は、チェンジアップであった。
それも単にタイミングをずらすだけではない、失速の大きなスルーチェンジ。
大介はスイングを始動していて、下手に追いかけずに空振りする。
ボール球二つの後に、チェンジアップを空振り。
二球目のストレートを活かしている。
この組み合わせからなら、次に何を投げてくるかは想像がつく。
速球系で、そのくせ伸びもあるボール。
スルーだ。
真ん中に近いところから、落ちてくるボール。
しかしそれに、伸びはない。
内角に切れ込んでくるそれは、カットボールだった。
大介はそれを右方向、ファールスタンドの中に放り込む。
スルーのタイミングで待って、変化ごと破壊して放り込むつもりだった。
だがやはり安易にストライクは取りにこないか。
ここからなら次は、変化量の多いカーブあたりを使ってくるのか。
その通りに、カーブが落ちてきた。
見逃してもストライクになるか、判断は難しいところだ。
大介は体勢を崩しながらも、ボールをしっかりと右のファールグラウンドへ引っ張る。
ホームランには出来ないが、強い打球を打つ程度ならば簡単だ。
カウントはツーツーと変わらない。
大介は一度打席を外して、スパイクで地面を蹴る。
(三球目のチェンジアップを見逃し出来ていたらなあ)
そうなればボールカウントが増えて、投げられる球が限られていただろう。
この勝負は基本的に、歩かせるという選択を直史から奪っているので、大介に有利のはずなのだ。
レックスベンチが歩かせると判断したら、申告敬遠を使うだけである。
バッテリーがベンチの指示を無視して勝負するという、古くからのマンガ的展開は使えなくなってしまった。
まったくつまらないルールが作られたものだと思うし、今でも是非の議論は続いている。
バッテリーが歩かせると決めたら、それはそれで仕方がないとも思うが。
直史は勝負してくる。
球速は上杉に及ばなくても、コンビネーションで大介と対戦できるピッチャーだ。
そして樋口もいるからこそ、二人分の頭でボールを投げてくる。
ここから投げるとしたら何か?
(ここまでは高速シンカー、ストレート、チェンジアップ、カット、カーブ)
タイミング的には、次は緩急差で速い球を投げてくる。
ストレートの軌道は意識してあるが、前のボールの残像が残っていると困る。
そのために大介は、一度バッターボックスを外しのだ。
足の裏で、地面を握り締めろ。
そこから生まれる力が、ボールをスタンドにまで放り込む。
次の球、一応あと一つはボール球が投げられる。
だが直史はどんなカウントからでも、勝てると思ったらゾーンの中にボールを投げ込んでくる。
(速いボールのはずだ)
そこから裏を書いてくるのが、このバッテリーだとは分かっているのだが。
足を上げて、直史が投げた来たボールは、速くも遅くもない。
(これは――)
外角から曲がってくるスライダー。大介なら打てる。
スイングが起動し始めたが、ボールは想像以上に曲がってくる。
(高速スライダー!)
振り切ったバットは、ボールには当たらなかった。
外かと思ったボールが、思い切り内角の懐に飛び込む。
空振り三進にて、スリーアウトである。
最後のスライダーは、曲がりすぎていた。
振らなければおそらく、ボールのコースではなかったのか。
ただしゾーンはちゃんと横切っていた。
樋口のミットに収まった位置は、ボールであったろうが。
振らなかったら、どうなっていたか。
もしも時間が巻き戻せるなら、振らずにコールを聞いてみたかったものだが。
(う~ん)
予想していたよりも、コンビネーションの幅が広い。
確かにスライダーのあの変化と速度のタイプは、高校時代は投げていなかったものだが。
(さんざんあいつで変化球打ちやってたから、まだ残像が残ってるのか)
大介としては、そう考えてしまう。
ベンチに戻っていく直史に、笑みはなかった。
いつも通りに投げる、いつも通りの表情。
球数を多めに使っていたが、それでもスルーはチェンジアップバージョンのものしか使わなかった。
(意識しすぎか?)
だがスルーを打てるほどになっているバッターは、大介ぐらいであるはずなのだ。
ともあれこの第一打席。
直史が奪った、この試合最初の奪三振。
まず勝利したのは、直史であると言えよう。
実際のところは後の打席になるほど、投げられる球が減っていくのであるが。
レックス側のベンチで、直史は座りこんだ。
(スライダーに対応してたけど、あの変化量のスライダーは考えていなかったわけか)
スルーをあくまでも見せ球のように温存する。
他のバッターまで抑えつけて、あと二打席。
既にあるコンビネーションによって、大介を封じなければいけない。
疲れることだが、心地いい疲れだと、直史は感じていた。
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