第24話 遺伝子

 農業や畜産においては、商品の遺伝子というのはとても重要なものである。

 収穫量や病気への耐性、肉質や成長速度など、全てが効率的に考えられている。

 それとはほんの少しだけ自然に近い場所に、サラブレッドがいる。

 競馬において競走に使用されるサラブレッドは、実は人工授精が認められていない。

 実際の牡馬と牝馬の交配による自然生産された馬しか、レースには出られないのである。

 ここまでは人間以外の話だ。


 人間もまた人工授精で生まれてくるというものに、年々理解が浸透している感じはする。

 不妊症であったり、女性の同性愛カップルであったり、シングルマザーであったり。

 直史の身近なところでは、セイバーは息子と娘がいるが、自分では出産していないし、子供の父親も知らない。

 ただ精子提供は同じ人物からしてもらっており、母親は二人のそれぞれの卵子を提供しているため、遺伝子的には母親の違う兄妹という扱いになる。


 直史は弁護士として、遺産相続に関しては色々と勉強をしてきた。

 特に多いパターンは、金持ちが外に子供を作っていたパターンである。

 かつては嫡出子、庶子などという分類もあったが、現在では基本的に、子供は全てが同等の扱いになっている。

 だが精子提供などというパターンはさすがに珍しく、改めて調べてみたりもした。

 昔は人工授精の存在自体を認めておらず、父親というのは全て遺伝子的な父親が、最終的には法律上も父親になっていた。

 現在では法律も変化し、出産した女性が子供の母親であり、その母親に夫がいれば、その男性が父親になることが可能だ。


 ここに問題が発生する。

 現在はあくまで他者からの精子や卵子などを提供してもらう人工授精は、割合が少ないから問題にならない。

 しかしこれがもっと当たり前になってきたら、法律上は赤の他人なのに、遺伝子上は兄妹などというものが誕生する可能性がある。

 アメリカなどでは提供される精子はかなり条件が厳しいため、提供者はそれなりに絞られるため、このパターンで出生すると、将来的に知らない間に母親の違う兄や姉、弟や妹と恋愛・結婚をしてしまう可能性が出てくる。

 日本の場合は民法では、あくまでも自然血族、つまり血縁関係によって、婚姻の可否が決められる。

 だが現在の法律では血縁上の事実までを、調べる義務などがない。

 数が圧倒的に少ないので問題になってはいないが、遺伝子上のルーツを知らなければ、いずれは知らない間に、上記の兄妹や伯父姪などが、恋愛し結婚する可能性が現実的になるだろう。

 実際のところは一世代程度の近親婚なら、さほど問題にならないという話しもあるらしいが。

 ハプスブルク家は除く。


「なんだか昔のレディコミにありそうな展開ね」

 調べてくれた瑞希の母は、そんなことを言っていた。

 瑞希はあまり興味がないが、そういう展開の禁断の兄妹ものがあったとかなかったとか。

 直史は頭痛を感じながらも、武史と連絡を取った。

 



 小さくなった武史と、その妻である恵美理。

 そして武史の兄である直史と、その妻である瑞希。

 最後に問題の発端であるイリヤ。

 東京都内のホテルの一室を使って、いきなり降って湧いたような問題について話し合う、佐藤家の面子であった。


 全く悪びれた様子を見せず、口だけの謝罪がイリヤからは飛び出た。

「なんだか私のせいで厄介なことになったみたいだけど、無理なら無理でいいのよ」

 謝罪とは言えなかった。

「いや、ぶっちゃけこの場合の問題はむしろ武史にある」

 直史は冷徹な人間であるが、人間の心情の機微にはむしろ通じたところがある。

 通じた上でそれを無視することが多いが。

「お前、嫁さんがいて、しかも子供も生まれてるのに、自分の精子を提供するってどうなんだ?」

 この非難するような言葉に、武史も自分なりの倫理性は持っている。

「いや、だって本当にやったらそりゃまずいけど、遺伝子提供だけなら別に浮気じゃないし、イリヤには色々恩があるし友達だし、恵美理とも友達なわけだから、了解を得ればいいかなって」

 眉間のあたりをぐりぐりと揉む直史である。


 武史は認識が軽くて甘いだけで、悪気自体は全くない。

 それが分かっているのか、恵美理の怒り自体は落ち着いたらしい。こんな男を選んだのは彼女自身である。

 直史も直感的にそれはまずいに決まっているだろうと昨日は思ったのだが、それが理論だっていないことにも気づいた。

「そもそもなんで、タケとか俺を選ぶ?」

「面白そうな遺伝子だと思うから」

 イリヤの回答は振るっていた。


 直史は相続関連の法律から、一応調べてはみたのだ。

 何よりもまず、精子提供による妊娠というものについて。

 そしてそこで、現在の日本ではまだ、親子関係の法律や判決が、時代に即したものではないように感じた。

 だがアメリカなどと比べてみて、向こうが一概にいいとも言えない。

 さすがにマイナーすぎるために調べていなかったのだが、代理母が他人の受精卵で出来た子供を出産した場合、日本の判例ではその子供は出産した女性の子供になるという判決が出ている。

 アメリカでは遺伝子上の父が、出産した母親を誘拐で訴えたりもしている。

 そもそも日本では本来、代理母は認められていない以上、生んだ女性の子供となる。

 

 なんでわざわざこんなどマイナーなことを調べなければならんのだ、と直史が何度ため息をついたことか。

「日本でも最近、精子バンクは展開されてるだろう。それにお前ならアメリカでいくらでも、優秀な遺伝子を手に入れられるんじゃないか?」

 アメリカの精子バンクは、確かに存在する。

 そこははっきり言えば、遺伝子差別の極致とも言える。

 主に提供しているのは、有名大学の学生で、身長や体重、過去の病歴などで、厳密に審査される。

 そこから提供される精子は、、実は案外安い。

 しかし人種や髪や瞳の色など、かなり選び放題で、生まれる子供の予想図さえも分かるのだ。


 ただ単純に、子供がほしいわけではない。

 その子供の父親の資質を、しっかりと選びたいのだ。

 もちろん父親の義務などは求めないし、それが可能な財産がイリヤにはある。

 なのでかなり贅沢に、父親を選んでいる。

 その選んだ結果が、友人でもある武史に、そして次点の候補として直史になるわけだ。


 理屈は分かった。

 学歴や外見だけで、その遺伝子の特質が全て分かるわけもない。

 イリヤは人格まで見てその先天的なところから、父親の条件を絞ったというわけである。

 理屈は、確かに分かった。

 だが感情的に納得できる者は少ないだろうな、と直史などは思う。

 実際自分も、精子提供はしたくない。

 法律上も父親としての責任を果たさなくていいとあるが、実際には自分の息子か娘。

 何かあれば責任感が生じてしまうのが、普通の人間であろう。


 


 武史は普通ではない天然であった。

 ただ彼の考えも、感情を無視すれば、あるいは利害関係を無視すれば、納得出来ないものではない。

 友人が子供をほしがっているが、全く知らない男の遺伝子では不安が残る。

 イリヤは自分のことはおおよそ財力で解決出来る。

 なので遺伝子提供ぐらいなら問題と思わないし、たとえ結婚していても妻の許可があればいいだろう、と武史は考えたのだ。


 そして直史は調べている間に、実際にそれを行っている男性がいることも発見した。

 結婚していて妻の許可を得て、実費だけで精子提供をする。

 アメリカなどではなく、日本の話である。

 現在はさらに、SNSで精子提供の話をしていたりする。

 提供の仕方は交配、手渡し、郵送なのである。

 武史の場合は実際に致してしまえば問題だが、それ以外の手段で提供するのなら、問題はないという考えだ。


 このあたりは、確かに妻あたりの感情論である。

 そして夫婦というのは、お互いの感情を大切にしなければいけない。

「恵美理さん、もうこのバカとは離婚したほうがいいんじゃない? 慰謝料と養育料たっぷり取って」

「それはさすがにちょっと」

 直史の言葉に武史は半泣きになっていたが、恵美理もそこまで見捨ててはいないらしい。


 そしてある意味理屈っぽいのは、直史だけではなく瑞希もである。

「現状の精子バンクは問題ないけれど、現代日本で独身女性が男性の許可を得て精子提供を受けた場合、男性が父親とされるのよね」

 あくまでも父親としての責任を果たさないと約束があっても、同意して親になった場合は、親としての義務を果たさなければいけなくなる可能性が高い。

 カップルへの精子提供は、父親が社会的に父親として存在するため、遺伝子上の父親よりも優先される。

 たとえば病院で何かの手違いで、子供が入れ替わってしまった場合。

 ここでは子供の意思が一番尊重されるが、今まで育てていた子供の方を、社会的に本当の子供とする。

 ただこのあたりの価値観も、どんどん変わっているし、そもそも法律が整備されていなかったりする。


 なので瑞希は感情を排して、こんなことが言える。

「イリヤならこちらに迷惑もかけてこないだろうし、直接的な性交渉意外による提供なら、私は許すけど」

 あくまでも事実を、客観的に見るクセがついている瑞希。

 そのためイリヤが子供をほしがるということを、人間としては一つの権利だな、と考える。

 そして自分の夫であっても、愛まで提供しろと言わないなら、別にそれは構わないかな、と思うのだ。


 客観的に、論理的に、感情を排して。

 すると瑞希のような言葉が出てきて、恵美理を驚かせたりする。

「え、いいの?」

「私は構わないけど」

「俺が構う」

 止めるのは直史である。


 瑞希はヒステリックなところがなく、一般的と思われる女のメンタルから遠い人間である。

 常に公正さを考えて、基本的に感情では判断しない。

 そのくせ事実をまとめた文章で、他人の感情を動かすことが出来る。

 頭脳はともかく肉体的には貧弱だが、精神的にはタフである。


 恵美理が引いているが、イリヤは顔を輝かせている。

 しかし当事者は、もう一人いる。

 直史は瑞希に向き合うと、珍しくもベッドの上以外で暴力的な行為をした。

 ぐに、と瑞希のほっぺたを、左右からサンドイッチにする。

「あのな、瑞希。俺は自分の子供を、お前以外に産ませたくないから。分かったか?」

 ひどく露骨な愛情表現を、笑うべきなのかどうなのか。


 男は基本的に、女相手にはおおよそ発情し、繁殖できる存在である。

 実のところは女も、そうそう変わらないのだが。

 それでも生物的に男は、種を出すだけで繁殖の役割を果たすので、より繁殖に適して性欲が強いと見られる。

 そう考えると妻に操を立てて、遺伝子だけなら提供するよ、という妻に夢中の武史は、実は誠実な方なのである。

 樋口などは名古屋と大阪に愛人を囲っていて、うすうす妻もそれに気づいている。

 あいつの方こそ、いずれは誰かに刺されるかもしれない。


 直史のこの価値観は、幼少期の年上女性との関係性による。

 結果的に直史は、自分も貞淑であるが相手にも同等の貞淑さを求め、付き合う時の瑞希には処女性を求めた。

 その中にあるのは倫理や整合性や合理ではない。

 自分が勝手に決めた、己のみのルール、あるいは誓いだ。

 ただ女性にとってみれば、直史のような社会的に成功している男性に、お前以外は興味ない、と宣言してもらうのは普通なら嬉しいことかもしれない。

 瑞希としては、そのあたりの論理性は少し直史と合わない。


 もちろんそれでも、直史の意思を無視することなどはない。

 直史が提供したくないというなら、それを説得しようなどとは思わないのが当然である。




 イリヤはこの人間関係を、面白そうに眺めていた。

 そもそもの発端であるのに、今では完全に傍観者である。


 価値観的に見れば、割り切っている武史と瑞希、そして割り切らない直史と恵美理の方が、より近い人間である。

 だが実際にくっついているのは逆の組み合わせで、これは相手が自分と違う価値観を持つことを、いいことだと思っているのかもしれない。

 そもそも直史は論理性や合理性を重視するが、それ以前に徹底的に保守的なのだ。

 妻以外の女性を持たないというのは、実はあまり保守的ではないのだが。

 直史の場合は純粋に、根本的なところでは女性に不信感を持っている。

 なので自分が確実に大丈夫だと判断した女性以外に、遺伝子を提供しようなどと思わない。

 瑞希と違って、理性的に見せながらも、実は徹底的に感情的である。


 イリヤにとって子供は、確かに産んで育ててみたいものであるが、絶対に今必要なものでもない。

 まして友人の家庭を崩壊させてまでとは、思ってはいない。

 だいたいアメリカの芸能関係は、そのあたりの倫理がぶっ飛んでいる人間が多く、そのノリで来てしまっただけで、悪意があったわけではない。

 はっきり言ってなぜか傍観者の立場になって見ているのは面白いが、この両夫婦との関係を悪化させたいわけでもない。

「まあ、もう少し探してみるわ。誰でもいいわけではないんだから慎重に」

 ホッとする直史と恵美理に、違うベクトルでホッとする瑞希と武史である。

「どうしても見つからないなら、なかなか遺伝子良さそうなやつは紹介してやるから。ただあいつ、実際にやりたいとか言ってくるかもしれないけど」


 人工授精の方法は、実はかなりの数がある。

 女性側からも卵子を抽出し、精子で受精させて子宮に着床させるという手は、かなり一般的である。

 他に精子を排卵日に合わせて子宮内に入れるという手段もある。ただ実際のところは排卵日に合わせて直接交渉をするのが、かなり確率は高いらしい。

 もっともイリヤは、男性とも恋愛は出来るが、男性との性交渉には抵抗があるタイプなのだが。

 バイセクシャルであるが、セックスの相手は女性に限る。

 なんとも困った性癖であるが、それをも許容するのが多様性の社会だ。


 直史の言う遺伝子提供の人間が誰なのか、他の人間は?と思う。

「私の知ってる人?」

「ケント。ただあいつは普通に性欲が強くて、女を屈服させないと我慢が出来ないタイプなんだけどな」

「ああ、彼はダメね」

 遺伝子的に、秒で振られた樋口であった。

「なんでだ? 頭もいいし運動能力も高いし、性格は悪いが合理的だぞ」

「だってメガネをかけてるから」

「……なるほど」

 つまりイリヤの求める遺伝子には、目が悪くない血統であることも含まれているわけか。


 確かに佐藤兄弟は目が悪くなく、裸眼である。

 樋口は小学生あたりから目が悪くなったと言っていたし、メガネのキャッチャーは成功しないという偏見を打破した、古田捕手を尊敬していた。

 彼がいなければ樋口も、いくら優秀とはいえ捕手で一位競合はなかったかもしれない。


 瑞希もまた時折コンタクトは使うが、基本的にはメガネっ子だ。

 視力というのは先天性の近視以外は遺伝ではなく、環境により悪化するものだと言われている。

 だが同じ環境でも、視力が悪化しやすい人間はいるようのではないかという仮説も存在している。

 そこまでこだわるのか、と直史は思わないでもないが、どうせなら優秀な子供がほしいというのは、イリヤにしては俗っぽいなとは感じた。  

 それでも優秀さよりは、友好度を優先したあたり、やはり人間らしいといえるのだろうか。


 ともあれ、これでイリヤの遺伝子騒動は、いったんは終了した。

 また違うところで似たような事件を起こしそうだな、と直史は予感したものだが。

 そしてこの夜、武史と恵美理は仲直りのために、色々とお互いを気持ちよくしたらしい。

 避妊はしなかったが、受胎もしなかったようである。

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