第16話 集結
決戦前日、東京には様々な人間が集まる。
レックス関係者はもちろん、ライガース関係者も。
そして海の向こうからさえも。
「相変わらず、この季節は暑いわね」
サングラスをかけたイリヤは、もう慣れてしまった日本の空港から、マンションへ向かおうとする。
日本でも活動することが多いイリヤは、自分用にマンションを一つ買って、その中にスタジオを作ってしまっているのだ。
そして普段はそのマンションを、勝手に使わせてもらっている二人が、迎えに来てくれていた。
佐藤家の、いや今では白石家のツインズとなった双子である。
実家に息子を預けてきて、イリヤと共にマンションにGO。
明日の試合の前に、まずはスタジオで音あわせなどだ。
イリヤが持ってきたのは、新曲の譜面が二枚。
ただしそれは印刷されたものだけで、頭の中にはまだ無数の曲がある。
ある計算によるとイリヤの頭の中には、既に20万以上の曲が存在するのだという。
それを取り出すための条件が、まだ分かっていないだけで。
天才が求めるのは、また違った形の天才の姿。
だがそれに付随して、天才を打ち砕く天才もまた存在する。
イリヤにとって直史は、彼女の中から音楽を導き出す、インスピレーションの具現化なのである。
対して大介は、それを破壊する芸術の天敵。
ある者にとってはそうだが、ある者にとってはまるで逆の存在にもなる。
イリヤは大介を恐れるが、同時に認めてもいる。
破壊の中から創造は生まれるのだ。
彼女の音楽を最高だと言ってくれる人間は多いが、イリヤはまだ、このずっと先を見ている。
その果てに何があるのか、音楽家はまだ何も知らない。
平日にも関わらず神宮球場は満員御礼。
昨今のプロ野球人気を考えれば、もっと座席数は増やすべきではないだろうか。
もちろんどんどん増やす計画はあるのだが、それでも直史が投げるならば足りないだろう。
それでもしっかりとバックネット裏を用意しているあたり、さすがセイバーはフロント陣なだけはある。
その気になれば貴賓室に呼ぶことも出来たのだろう。
だが応援するチームが違うのならば、それも難しいものである。
直史の記録は、無失点、無四球と、ルーキーの記録するようなものではない。
これはプロ入り後数年のベテランがやっていることではなく、オールドルーキーのやっていることなのだ。
高校時代や大学時代に対戦した、多くのバッターが一年目から活躍していることを考えれば、確かにプロ相手でも相当の数字は残せたはずなのだ。
だがここまで完璧なピッチングを行っていると、いつまでこれが続くのか、遠い目をしてしまう者もいる。
ただ、多くの者が予想している。
この数字の記録を途切れさせることが出来るとしたら、それはライガースだろうと。
またホームランを打てるとしたら、白石大介であろうと。
大介は上杉や武史からも、ホームランを打っている。
数試合は不調であったが、ここ二試合で三本のホームランを打っており、二試合に一本ペースでやはりホームランを量産している。
直史の伝説が、途切れることがなく続くのを見たい。
だが同時に、途切れさせることが出来るとしたら、それは大介だろうという期待もある。
味方のエラーさえなければパーフェクトという試合が二試合。
NPB史上前人未到の、二つ目のパーフェクトピッチングの達成を、多くの者が期待している。
強打のライガースからそれが出来るとは、さすがに思えない
だが前回の対戦では、七回と三分の一を終えたところでは、まだ一人の出塁も許していなかったのだ。
無四球で無失点。
どれだけこの記録が続いていくのか、プロの世界を理解している者ほど、この成績は信じられない。
ただし大介ならば許す、という伝説の終焉も待たれているのだ。
同じ頃、他の球場でも試合は始まる。
だがそれぞれの試合のベンチメンバー以外は、こちらの方の試合をテレビで見ていた。
シーズンが始まって三分の二は消化され、まだ直史は無失点。
無敗ならばまだしも、無失点である。
こちらはそれに対して目立たないが、無四球の記録も続いている。
こちらの記録を続けるならば、直史は大介と勝負しないといけない。
それでも試合の勝敗と引き換えにするなら、歩かせることもあるかもしれない。
普通ならばチームが歩かせてもおかしくないのだ。
「ないな」
本日はローテに入っていないということで、わざわざ球場に見に来ていた上杉である。
「まあ、ないですね」
ほとんど並ぶような位置に座って、三日後の先発の武史も座っている。
この両者の間にはお互いの妻が、久しぶりの久闊を叙しているわけだが、完全にVIPの空間になっている。
シーズン中に他のチームの試合を生で見るのか、と上杉は時々テレビカメラに映っているが、本人は気にしない。
「ないの?」
恵美理の問いには、前の座席のツインズが首を振る。
「お兄ちゃんはしないね」
「それにベンチも敬遠はさせない」
「そんなことをされたら興ざめね」
イリヤとしてもそんなことは期待していないのだが、彼女はこの期に及んでも、まだ野球の見方が分かっていない。
「でも審判がどう判断するかは分からない」
瑞希はそう言うが、直史の考えは、別に歩かせるのは構わない、というものであることを知っている。
ただ、大介に対しては、結果的に狙いすぎてフォアボール、というのはあるのではないかと思っている。
もっともこれもまた大介は、際どい球はカットしていくかもしれないが。
「けれど点差がついたらどうなるかなあ」
武史は樋口のリードと、それを理解している直史が、試合の流れを見て、そのコンビネーションを変えていくことを知っている。
基本的には常に、完封を意識しているのが直史である。
だが実際は絶対に点を取られないという考えでは、ピッチングの幅が狭くなってしまうのだ。
点を取られることを覚悟した上で、ピッチングの幅を広げていく。
そうすることによって逆に、点は取られにくくなる。
何を投げてくるのか分からなければ、それだけバッターは狙い球を絞ることが出来ないのだ。
武史の場合は序盤は、ナックルカーブやチェンジアップを多用し、打たせて取るピッチングを考えている。
中盤以降は基本的に、ストレートのパワーだけで押し切っていく。
さすがに直史ほどではないが、武史も一試合あたりのフォアボールの数は、二個に満たない。
ストレートが低めに決まれば、まずおおよそのバッターは打てないのだ。
試合の開始は18時。
アウェイのライガースが先攻で、お互いの守備練習も見た。
ブルペンを見ていた大介は、この試合自体は負けることを覚悟した。
(プレッシャーがかかってるよな)
阿部のピッチングを見ていたが、普段よりも伸びがないように感じた。
ピッチャーはデリケートだ。その日によってバイオリズムには違いがある。
どんな日も安定して投げることが出来たら、それはもう化け物なのだ。
上杉や直史だけではなく、真田もその意味では人外の部類に入る。
しかし阿部はまだ人間だった。
今年はこれまで11勝2敗と、間違いなくエース級の活躍をしている。
だが投げあわなければいけない相手が、それ以上なのが不幸なのだ。
(まあチームが負けても、俺が勝てばいいんだ)
大介はそう割り切っている。
直史の記録は、誰かが止めなければいけないのだ。
無敗記録ではなく、無失点の記録。
大介だけではなく、今のプロ野球のバッター全員が、直史には勝てないということの証明だ。
それもここまで、フォアボールを出さずにそれを達成している。
直史は一度も逃げていない。
ピッチャーという、常に主導権を握った存在が、常に勝負してきて勝っているのだ。
ヒットは打たれているが、長打も数えるほど。
点を取られないということ、そしてそのためにフォアボールで逃げないことが、直史の記録となっている。
MLBでは古い記録に残っていないものもあるが、少なくとも残っている限りの記録では、既に抜いている。
もちろん上杉の日本記録も抜いて、既にダブルスコアとなっている。
世界のギネスに登録されているが、それがこの先どれだけ伸びていくのか。
(俺が止める)
自分以外には止められないという自負を、大介は持っていた。
前の対戦において、大介は自分が特別扱いされていると感じた。
他のバッターに対しては使わない、タイミングを外すピッチングをしてきたからだ。
いや他のバッターにも、分からない程度のタイミングずらしはしていたのだろう。
だが大介に対しては、明らかに別の色のピッチングをしていた。
試合前のわずかな投球練習では、マウンドの具合を確かめている。
ここのところの直史は、ストレートが一度も150km/hを超えないまま、試合を終わらせることが少なくない。
だが別に手を抜いているわけではなく、力だけを抜いているのだろう。
必要なのは、失点を防ぐこと。
ボールのスピードは手段であって、目的ではないのだ。
先頭の毛利に対しては、どう攻めてくるか分かっている。
最近は下手に組み立てても歩かせてしまうだけと分かって、積極的に勝負されることが多い。
その中でも甘い球を打って、打率は三割に乗っている。
そこから盗塁をするなり、そうでなくても足を使って、相手のピッチャーを揺さぶっていく。
しかしそれも、塁に出られたらの話である。
変化球二つの後のストレート。
150km/hも出ていないそれを、毛利は空振りした。
(伸びてるんだろうな)
コンビネーションを警戒したのか、二番の大江は初球から打っていって内野フライでアウト。
もう少し飛んでいれば、なかなかおいしいところに落ちたのかもしれないが。
これでツーアウトランナーなしで、大介の打席が回ってくる。
マウンド上の直史は、静かだ。
その肩が上下することもなく、ひたすらに静かだ。
そして大介と対して、クイック気味に投げ込んでくる。
インハイギリギリのボールを、大介は見逃した。
(いい感じのストレートだな)
この日初めてというか、久しぶりの151km/hのストレートであった。
球速はいらない直史が、球速を出して戦いにきている。
なるほど本気だな、と大介は殺気をバットにこめる。
二球目は、外にカーブを落としてきた。
点で捉えればヒットになったかもしれないが、大介が求めているのはそれではない。
期待値的に考えて、西郷まで回しても、ヒットを打ってくれて点が入る可能性は低い。
甘く見ているわけではないが、直史を相手にしては誰もがそうなのだ。
自分で決める。そのつもりで大介は立っている。
三球目の外の球に、手が出そうになった。
だがボールに、ストライクになりそうな気配がなかった。
ベースの手前で沈む球はスルーで、これでボールカウントが先行する。
(今のも147km/hは出てるのか)
ならば次は遅い球を投げてくるか。
その読みは正しかった。
斜めに入ってくるカーブは、バットが充分に届く。
いや、内角に入ってきて、むしろ打ち頃。
想像よりも、スピードがない。
踏み込んだ足にブレーキをかけて、どうにかジャストミートする。
しかしタイミングが速すぎたか、ライト方向の特大のファールにしかならなかった。
一番打てたであろう球は、最初のストレートだった。
大介はそれを承知の上で、一度バッターボックスを外す。
追い込まれたが、ここで速い球を投げてきたら、それを打つことが出来る。
カーブの残像を消して、もしまた遅い球が来ても、それはカットしてしまえばいい。
何を投げてくるのか、楽しみにしている自分がいる。
そして投じられたのは、これはスルー。
(打てる!)
そう思ったが、ボールが来ない。
(チェンジアップか!)
体を泳がせながらも、バットをグリップで保持して、ぎりぎりのところでカットする。
左のファールグラウンドに飛んでいったボールを、サード村岡が追いかける。
スライディングキャッチによって、見事捕球してのけた。
一打席目は直史の勝利だ。
サードが必死で追いかけたということもあるが、大介は泳いだスイングで打ってしまった。
なんとかもう少し待てなかったのかとも思うが、あのチェンジアップなら仕方がない。
(今日は緩急で勝負してくるのか?)
凡退しておいてなんだが、このままのピッチングをしてくるのなら、今日の大介なら打てる。
(一点、とりあえずホームランで点を取れれば、それで記録は切ることが出来る)
そう考えている大介は、自分の思考が誘導されていることに気づかない。
だがそれも無理はないのだ。
直史からヒットを連打して、点を入れるというイメージが、全く湧かないのだから。
下手をすれば、この試合に回ってくる打席は、あと二回。
一番を打てばよかったかな、とも思う大介は、守備に意識を切り替える。
(阿部の調子があんな感じだと、守備の方でも活躍しないとな)
そう考える大介の様子を、じっくりと眺めているのが、レックスのバッテリーであった。
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