第15話 打撃の波
どれだけ優れた選手であっても、その好調と不調には波があると言われる。
好調の波はあっても不調の波はないと言われる大介であるが、ようやくその不調の波がやってきたらしい。
気がついたのは、レックスとの二連戦で連勝した二試合目。
バットがボールをジャストミートしないようになっていた。
「っかしいなあ」
レックスの次は、タイタンズとのスターズとの三連戦。
三位スターズとのゲーム差は圧倒的なので、ここで三つ落としても、まだ深刻な事態ではない。
だが四球を選んで出塁はしても、ヒットが出ない。
四試合ぶりのヒットは、完全に打ち損ないの内野安打で、それでもようやくのヒットであった。
白石大介、スランプに陥る。
それを聞いたセ・リーグの投手陣の半分は、歓喜の涙と共に大歓声を上げた。
もう半分は、どうせすぐ復活してくるんだ、と諦めたような乾いた笑みを浮かべていた。
だが現実問題、この状態の大介であっても、しっかりと抑えるのは重要なことである。
この不調の原因かは分からないが、きっかけははっきりしている。
レックス戦で武史から打った、ホームランだ。
あの後も、警戒したバッテリーからはボールを選んで塁には出ている。
西郷やグラントが帰してくれると信じて、盗塁で二塁までは進むのだ。
そこから西郷のホームランが出て、試合も勝利することはある。
だがスイングをしてもボールをジャストミートしないというのは、かなり深刻なものであった。
似たようなことは以前にもあった。
上杉との対決で、かなり深刻なスランプになったものだ。
いや、今でも上杉と本気で勝負をすれば、その後の数日はパフォーマンスが落ちる。
逆に上杉は大介にだけは、本気で投げてきているが。
今年は上杉や直史と対決した後も、それを引きずってスランプに陥ることなどない。
それだけ武史が、大介が本気を出さないといけない選手に進化したということか。
(いや、俺はずっと本気だよな)
本気を出さないと打てないなど、傲慢なことである。
それに今までも充分、武史は大介相手でもそれなりに封じてきた。
ただ去年までとは、決定的に違うことがある。
それは直史がリーグの中にいることだ。
対戦したのはまだ一試合だけだが、完全に封じ込まれた。
だがあそこからも大介のバッティングは落ちていない。
武史のレベルのピッチングを打つために、何かが狂ってしまった。
認めたくないが、認めた上でどうにかしなければ、チームに迷惑がかかる。
ライガースは、やはり大介が打ってこそなのだ。
動作解析で様々に見ても、何が悪いのかは分からない。
だが感覚としては、ジャストミートできていないのは確かなのだ。
バットの真芯でボールを捉え、そこからバックスピンをかける。
空間の中に一本、通った道を駆けていくような感じで、ボールは伸びていくのだ。
そんな大介は、右の打席に入って、バッティング練習をしている。
以前にもやったことであるが、こちらで打っても普通にマシンの球なら、スタンドまで運ぶことが出来る。
ただし大介に特有の、ライナー性の打球にはならない。
フライ性のボールでスタンドに叩き込んでも、それは違うと思うのだ。
なんとか八月のレックス戦までに、調子を戻しておかないといけない。
おそらくそこで、直史の投げるローテと当たる。
通常時の大介でさえ、三打席連続で封じられてしまったのだ。
今の大介であれば、おそらくヒットを一本、適当に打たせるだけで済まさせてしまう気がする。
直史はパーフェクトを狙って投げているが、勝つためにはそれを捨てることが出来る。
今の大介はわざわざ抑える必要がないと思われれば、まともに勝負してこないかもしれない。
タイタンズとの三連戦、二試合でヒットが出なかった大介は、右打席に入った。
元より右で打ったことのある大介に、それだけで油断するということもない。
だが普段打っている左に比べ、右ならば落ちると考えるのは当たり前のこと。
やや安易に勝負にきて、三打数の二安打。
久しぶりに打点がついて、ホッとする大介であった。
天才というのは孤独である。
ピッチャーであればまだしも、キャッチャーという相棒がいる。
だが大介はバッターボックスに入れば一人、強大なピッチャーと戦わなければいけない。
そこにアドバイスできる人間など、いるものではない。
大介はもう、前人未到のバッティングの境地へ、既に歩みを進めているのだから。
スランプに苦しんでいても、技術的に何がおかしいのかは分からない。
おそらくほんのわずかな、大介が大介であるための、説明しがたいものが、この不調の原因なのだ。
首脳陣が頭を悩ますのは、少し先の話。
レックスとの次の三連戦である。
ローテの間隔から考えて、第一戦に直史が投げてくる。
武史に黒星をつけたことで、今のセの先発ピッチャー陣の中で、まだ無敗なのは直史だけとなっている。
このままライガースがローテ通りに回すなら、対決するピッチャーはオニール。
もしも得点できても、レックスの反撃に耐えられるとは思えない。
だが武史との対決で消耗した真田が、一つローテを飛ばしている。
真田であればレックスの打線を、かなりの部分まで抑えることは出来るだろう。
前回の武史との対決もだが、最初に直史と対決した時も、真田が対決している。
今年はここまで、15先発の12勝2敗と、見事な成績を残している。
同時代にレジェンドの中のレジェンドとでも言うべきピッチャーがそろってしまっているが、真田もまたレジェンドと言っていい数字を残しているのだ。
直史と投げ合って勝てるのは、やはり真田しかいないだろう。
あとは大介がレックスとの試合までに、どれだけ調子を戻すことが出来るか。
七試合、ホームランが出なかった。
今年の大介はそれまで、三試合ホームランが出なかったのが最長だったので、どれだけ異常かが分かる。
実際のところは七試合ホームランが出ないぐらいで、何を不思議がるのか、というところだが。
大介の場合は安定してホームランを打つので、七試合出なかっただけで異常になる。
ようやく51本目のホームランがでたところで、七月が終わった。
スランプによって、相当に打率を落としてしまった。
それでも出塁した大介を帰すために、活躍した西郷が月間MVPに選ばれたりした。
0.339という打率は普通に超一流なのだが、大介にしては物足りないといったところだろう。
打てないので無理に打ちに行かなかったことで、出塁率は五割を超えていたことは驚きである。
現時点では打率0.446 出塁率0.617 OPS1.719
ホームランの数は51本と、100試合が消化された時点で、昨年までよりさらに化け物に近い。
ここからどうホームランの数を戻していくか。
それ次第ではおそらく、二度と更新不可能の記録が生まれる。
八月になれば甲子園球場は長期間使えなくなり、慣れない大阪ドームでの試合となる。
それがある程度は影響が出るかもしれない。
もっともホームランの出にくい球場としては、統計的にはそう変わらない。
右打席で打つ場合は、大介のホームランはフライ性の打球になりやすい。
甲子園ではそれが、ホームランになりにくい理由にはなっていた。
大介が気にしているのは、次のレックス戦である。
先発のローテを見る限り、おそらく次には直史が第一戦に投げてくる。
歴史的な勝率を残しながらも、レックスはライガースを完全に苦手としている。
それはライガースの打撃が、主に大介が、レックスのピッチャーを上回るからだ。
樋口というキャッチャーの、唯一と言ってもいい弱点。
それは基本的に、バッターを歩かせることがないということだ。
もちろんツーアウト二塁で大介などという状況では、樋口がどう考えようと、申告敬遠で歩かせてくる。
だがそれ以外の場合は、よほどピッチャーが嫌がらない限りは、勝負をさせてくるのだ。
大介以外でも、強力なスラッガーであっても、勝負を基本とする。
大介と西郷をもっと敬遠できていたら、対戦成績は逆転していたかもしれない。
樋口にはキャッチャーなりの美学らしきものがある。
あくまでも冷徹であるが、その根底にあるのは熱意。
野球で食っていこうなどという人間に、それがないわけがないのだ。
八月に入ればフェニックスとの試合を終え、次のカップスとの三連戦の後が、レックスとの対決となる。
直史が投げてくるなら、万全の状態でなければ、とても打つことは出来ない。
万全の状態で、戦いたかった。
だが現実は、そうそうどちらもが完全な調子で、対決できるとは限らないのだ。
直史の記録している、連続無失点イニング記録。
大介が止めないのだとしたら、他に誰が止められるというのか。
調子を取り戻すのには、時間がかかっている。
左打席に最初は入って、ストライクが一つ告げられたら、右打席に入りなおすということもしている。
珍しく苦悩しているのだ。
直史との公式戦での対決を、ハンデ付きで戦わなければいけないというのは、不利であるという以前にもったいない。
全力でもって対決することを、大介は望んでいる。
そもそもこのスランプの原因は、あの武史との対決にある。
前後関係からして、それは間違いない。
ホームランには出来たものの、あのボールはミスショットであったことは間違いない。
そう、ミスであるのに、ホームランになってしまった。
それが何かを狂わせているのだ。
動作解析などを見ても、あの打席の前とスイングは変わらない。
だがあの打席を拡大して動作解析をすれば、原因らしきものが見えてくる。
「腰? 膝の落とし方かな」
ミートがおかしくなっているのは間違いない。ボールの下を叩いていることが、最近では多いのだ。
右打席で打っても、ややアッパースイング気味にはなる。
「たぶんだけど」
上半身を裸でスイングをする夫を見て、ツインズは推測を立てる。
「打つときにほんの少し、体軸が曲がるんだと思う」
そのあたりのバランス感覚に関しては、ツインズの言うことに間違いはない。
体軸か、と大介は考えるが、こういったことは頭で考えても、なかなかしっくりこないものだ。
バッティングピッチャーにとにかく量を投げてもらって、そのミートの感覚を取り戻そうとする。
こういう時に必要なのは、速い球を打つ練習ではない。
ゆっくりとした球をしっかりミートできるかが、重要なのである。
スランプというのは、それ自体だけではなく、それを下手に克服しようとすることによって、事故につながる場合がある。
大介は遅い球をミートすることを基本にしながら、また素振りを続ける。
右のスイングには違和感がない。
だが左のスイングには、わずかなブレがあるように思う。
足でしっかりと地面を握り締め、トップから伝わっていく力を、足首、膝、腰などの関節で加速させていく。
重要なのは腕の力ではない。腕の力はバットを支えることを目的とする。
スピードを求めて、右の引き手でバットを振り切る。
左打席でホームランが出たのは、実に11試合目。
カップスとの三連戦の、二戦目であった。
不調のはずの大介は、この日二本のホームランを打って、また二試合に一本のペースに戻す。
カップスは三戦目にもホームランを打たれて、復活してるじゃないかと嘆いたものである。
大介が復調してきたのは、素直に喜ばしいライガースの首脳陣。
ただレックスは打線もかなりいいだけに、こちらもピッチャーはエース級を出さなければいけない。
前のレックス戦で投げた真田は、少し休ませているため、間隔が空いての登板は厳しいだろう。
ならば山田か阿部ののどちらか、ということになる。
するとローテの関係上山田は難しいため、阿部という選択になる。
今年はこれまで11勝2敗と、充分にエースと呼べる活躍の安部。
負けた試合の相手は上杉に武史と、負けても仕方がないと言うか、納得できる相手であった。
阿部の今年の防御率は、おおよそ2点。
直史から二点、あるいは三点以上取れるかと、ライガース首脳陣は考える。
全ては大介次第であろう。
どんなドーピングをしても不可能であろう、異次元のピッチング。
オープン戦ではまだそれなりに点も取られていたのに、開幕戦から完全に抑え切っている。
点は、取れたとしても一点。
向こうが真っ向勝負してくるなら、あるいは二点といったところか。
佐藤直史は技巧派であるが、フォアボールはない。
少ないのではなく、今までに一度も投げていない。
ボール球は投げていて、それはしっかりとバッターに振らせるためのものだ。
確実にバッターを抑えるというその自信が、あるいは攻略のきっかけになるのかもしれない。
中五日であるが、ここは阿部を使っていく。
そして真田にもベンチに入ってもらって、あるいは左打者のところで抑えに出てもらうかもしれない。
もしも点を取ってリードできたら、そこからは投手陣全員をつぎ込んででも、勝ちを取りにいく。
レックスにとっての絶対のエースを負かすことは、このシーズン中であっても、絶対に意味のあることのはずだ。
思えば三年前も、武史が無敗であったルーキーイヤー、レックスはクライマックスシリーズを進み、日本一となった。
もちろん統計的な事実などではないが、ここしばらくルーキーの活躍した年には、日本一になっているチームが多い。
直史はオールドルーキーであるが、ルーキーであることは間違いない。
そしてその実力は、上杉とほぼ互角。
今年のライガースは上杉とは三度しか当たっていないが、一点しか取れていない。
それを考えれば全てのピッチャーを使ってでも勝ちにいくというのは、大げさなことではないであろう。
残りの試合数とチームの勢いを考えれば、ライガースはこのあたりで、レックスに完全に優位に立っておく必要がある。
そして打撃のチームであるライガースにとって優位に立つというのは、レックスのピッチャーを叩いておくということだ。
レックスの他のエース級は、ほとんど一度以上叩いている。
あとは直史と、故障勝ちで遅れた吉村ぐらいだ。
あるいはこの対決が、今年のペナントレースの行方を左右するのかもしれない。
場所は神宮。
八月に入った、夜にも気温が下がりきらない、熱帯夜の中。
レックスの本拠地で、直史と大介の、二度目の対決が始まる。
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