第14話 限界を超えて
大介は武史のことを、間違いなく日本でも、いや世界でレベルで見てさえ、トップ10には入るピッチャーだろうと思っている。
だが彼との対決には、あまり高揚を感じたことはない。
技術と経験、そして直感によって、対戦を楽しむことは出来る。
だがそれ以上の、自分の限界を超えたところまで、それが届くことはないと思っていた。
おそらく武史が、まだ自分自身の限界に、全く到達していないからだろう。
限界を超えたさらにその先に、大介の求める領域がある。
ほとんどの人間は、生涯にその境地に至ることはない。
大介も一人ではそこへの扉を開けることは出来ない。
上杉とならば可能だ。
己の人間としての肉体の、限界を超える領域への挑戦。
その場所に至ることは、究極の悦楽であるかもしれない。
大介が思うに、おそらくは直史は、既にその領域に、より大介よりも近づいている。
樋口というパートナーを得たということも理由の一つだろうが、高校時代からずっと行ってきた、常人とは違うアプローチでのピッチング。
テクニックとコントロールに、パワーが備わったとき、本当の実力が発揮されることになった。
今が直史の、その実力のピークだろう。
その直史と戦うことによって、ようやく自分も到達することが出来る。
しかし野球の神様は、まだ何かを迷っているようだ。
あれだけ焦がれた対決なのに、まだ一試合しか戦っていない。
それ以外は全て、他のピッチャーとの対決。
だがその中で、感じていることもある。
武史が兄と近くにいることによって、その潜在能力が本当に解放されつつあると。
今年のレックスとの対戦で、ライガースは勝ち越している。
歴史的な勝率を誇るレックスに対して、唯一互角以上の戦績を残しているのだ。
しかし五勝四敗のうち二敗を、武史に喫している。
しかも両方とも完封負けであるのだ。
大介に打たれても、点に結びつけることはしない。
それは武史ではなく、樋口のリードによるものであろう。
だが樋口がリードしても、金原と佐竹は打ち崩すことに成功している。
なのでやはり、武史の力は大きいのだ。
対戦した大介がそう感じなかったのは、自分でも不思議であるが。
雨で順延されたため、エースクラスのピッチャーはスライドして翌日の試合に登板することになる。
球団や、選手の調子によっては飛ばすこともあるのだが、真田と武史の対決なのだ。
両チームの、去年であればナンバーワンだったピッチャー同士の対決、
あの夏の甲子園、武史が勝利したことによって、真田は甲子園の優勝投手に、一度もなることが出来なかった。
しかしプロ入り後の実績を見てみれば、間違いなく真田もまた、10年に一人と言われるべき逸材。
三球団が競合したが、その倍ぐらいいてもおかしくはなかったのだ。
一回の表レックスの攻撃であるが、真田はあっさりと西片と緒方を打ち取り、ツーアウトで樋口と対決する。
右打者であるということも関係するが、樋口は好投手真田を、比較的打ち崩している方だ。
それでも打率は三割に到達しないあたり、やはり真田を攻略するのは難しい。
今季も防御率は、今のところ1点台であるのだ。
樋口は下手に手を出さず、真田のボールの球筋を見る。
必殺のスライダーは、下手にバッターボックスの前で打とうとすると、確実に右方向へのファールになってしまう。
バッターボックスの真ん中よりも後ろに立つ。
それでもそのスライダーの軌道は、届かない外から懐へ飛び込んでくる。
打球は最後に、セカンドゴロになってアウト。
レックスの先制点を防いだライガースである。
ピッチャーにとって最高の栄誉である沢村賞を、ルーキーイヤーに獲得した武史。
その後も最高勝率や奪三振王などで、今では上杉とそのタイトルを分け合う活躍をしている。
大介を真っ向勝負で抑えることの出来る、数少ないピッチャーの一人。
それが世間一般の認識である。
実際のところ武史は、自分が大介に勝っているとは思っていない。
二打数一安打、四打数二安打と、打率を見れば完全に負けているのが分かる。
それが点につながっていないのは、樋口がそう計算しているからだ。
この初回の攻防、大事なのはまず大介の一発を避けること。
基本的には歩かせることを嫌う樋口だが、武史の先発であれば、第一打席は敬遠気味に外で勝負する。
樋口の見る限りにおいては、シーズンの上杉と武史を比べれば、普段は武史の方がパフォーマンスが高い。
ただ本気の勝負の時の上杉は、完全にその姿を変えてくる。
そんな姿を見せるのは、ほとんど大介相手だけであり、他のバッターはまず相手にならない。
武史が限界までその力を出せば、大介相手でもかなり互角に近い戦いが出来るのではと思っている。
ただしまだ肩が暖まっていない武史では、勝負にならない。
大介にとっては165km/hのストレートも、普通に対処できるからだ。
単に速いだけでは、棒球になるのが大介なのである。
一回の裏のライガースの攻撃は、先頭の毛利を少し球数を使いながらも三振に取ってアウト。
二番の大江は打ち上げて内野フライ。
そしていよいよ大介である。
この序盤の武史のストレートは、まだ魔球化していない。
ただツーアウトなのでホームラン以外は、どうにかなると樋口は考えている。
四番の西郷はともかく、五番のグラントはそろそろピークを過ぎている。
ホームランを打つ長打力は衰えていないが、打率はもうかなり低い。
日本でもう10年ほども働き、300本近いホームランを打っている。
大介の後ろに置くバッターは、むしろ長打より打率が重要なのだ。
普段の樋口であれば、大介が相手でも初回から勝負していく。
だが今日はライガースの先発ピッチャーが真田なのである。
国際試合でも真田と組んだことはないし、オールスターでも自然とバッテリーとして組むことは避けられていた。
真田を打ち崩して何点取れるのか、正直に言えば自信がない。
迂闊には大介と勝負出来ないのだ。
アウトローとアウトハイを中心に、あとは逃げていくナックルカーブを投げさせる。
完全に外での組み立てであるが、最後は内角ギリギリを攻める。
しかしそのコースに対しても、大介は対応した。
腕を上手くたたんで、バットの根元でジャストミート。
打球はファーストの頭を越え、そのまま失速することなくフェンス直撃。
あの弾道でどうしてあそこまで飛ぶのか、というスリーベースヒットであった。
大介はホームランでさえなければいい。
そう考えている樋口であるが、それでも今年の大介は異常すぎる。
六月の打率五割オーバーというのは変態すぎたが、六月も四割を軽く超えて打っている。
出塁率はまたしても六割オーバーで、そこから足を使われれば、あっさりと一点は入ってしまう。
それでもツーアウトにさえしておけば、ほぼバッターとの対決でどうにか出来る。
この初回の攻撃も、西郷を外野フライに打ち取ってスリーアウト。
しかし次の瞬間には、二打席目の大介をどう抑えるか、考えている樋口である。
左打者ばかりで固めているわけではないレックスは、それほど真田を圧倒的には感じない。
だが普段は頼りになる一番の西片が、スライダーに翻弄されるのは困る。
中軸がほぼ右打者ぞろいというレックスは、実は珍しい存在だ。
どうにか真田を打ち崩さないと、おそらくライガースに一点は取られる。
そしてその一点は、決勝点になってもおかしくはない。
現代の野球においては分業制が当たり前だが、武史はもちろん真田も、完投能力のあるピッチャーである。
ただし真田は、武史ほどの耐久力はない。
なのでここで完投させるなら、次の試合には影響が残ることも考えなければいけない。
今年の真田は既に11勝。
例年ならば上杉に、わずかに離された二位といったところだが、今年の直史は新人として、上杉や武史を凌駕する一年目を送っている。
どうすればあれに勝つことが出来るのか。
ライガース首脳陣としては、頭の痛いところである。
ライガースは他にも優れたバッターがそろっているが、樋口が徹底してマークするのは、三番の大介と四番の西郷。
この二人の長打力は、フライボールを打たせる武史にとっては、ホームランを打たれてしまう可能性が高い。
今年はここまで、12勝して無敗の武史。
兄弟でどれだけ貯金しているのかと言いたいところだが、兄弟の貯金をなしにしても、圧倒的なのがレックスである。
三回まではパーフェクトに抑えていた真田であるが、四回はワンナウトから緒方が内野の間を抜いて、この試合初めてのヒット。
そして二打席目の樋口が回ってくる。
内野ゴロを打ってダブルプレイにしない確率は、実は大介よりも優れた樋口。
その樋口に対して投げたカーブを、真田は打たれた。
センター前の打球で、ワンナウト一二塁。
ここで四番の浅野と、レックスは先制のチャンスである。
この浅野に対して、果敢に内角を攻めた後、高速シンカーで三振を奪う真田。
そして左の五番には、必殺のスライダーでスリーアウト。
ランナー二者残塁と、ピッチャーの制圧力が強すぎて、一人ランナーを出してもあまり意味がない。
そして四回の裏は、大介の二打席目が回ってくる。
ワンナウトからの大介を相手に、どう攻めていけばいいか。
統計的にはナックルカーブを使えば致命傷にはならないのだろうが、大介がそれを待っていたなら、打たれる可能性はある。
ただし四回ともなれば、武史のストレートも最高速に近くなってくる。
二番からの打順だが、大江をあっさりと三振に取る。
ストレートの表示が167km/hと出て、甲子園の観客席もざわめく。
武史のプロ入り後の最高速は169km/h。
上杉に次ぐ、そして史上二人目の、170km/h台さえ期待される。
もっとも本人は、調子に乗れば大介に打たれることを、しっかりと理解しているが。
ナックルカーブは初球に使った。
逃げていく球を見送って、これはゾーンから外れる。
おそらく大介が腕を伸ばして打てば、ヒットを打つことは出来たかもしれない。
だがそれは、狙っていたものとは違う。
ボール球に手を出してヒットを打つのではなく、この場面ではツーストライクまではホームランを狙っていく。
武史のボールは大介から三振を奪うことも出来るだけに、勝負してきてくれる可能性はたかい。
そこを打つのが、大介の今の考えである。
樋口のサインに、武史は頷く。
そして投じられたのは、高めに浮いたストレート。
大介の鋭いスイングが空を斬る。
169km/hの表示に、スタンドから大きなざわめきが聞こえた。
高めに外れたボール球でも、大介は打てると判断したのだ。
だがそれを越えて、ストレートは樋口のミットに収まった。
力の勝負かと、大介は楽しくなる。
だがすぐに頭は醒める。キャッチャーは樋口なのだ。
三球目は内角に入ってきた球が、手元でわずかに変化した。
160km/hオーバーのツーシームは、ファールグラウンドに弾き返される。
これでストライクカウントでは追い詰められ、あと二球はボール球が使える。
こういう時も樋口は、遊び球を使わずに勝負してくるはずだが、ここではそれはないかな、と大介は感じる。
四球目は、ストレート。
大介の予想を外したそれは、本当は振らせるつもりだったのかもしれない。
高めに外れていて、これでツーツーの並行カウント。
今のは打てたかな、と大介は思った。
高めなら打てるという意識を、大介に印象付けたはずだ。
だから今度は、さらにボール半分、高めに外したストレートを要求する。
前の球の印象が残っているなら、これも振ってくるだろう。
そしておそらくは微調整がつかず、当たっても外野フライまでで抑えられる。
武史の指先から放たれたストレートは、この日一番の伸びを見せた。
そしてそれは大介のスイングに当たり、高く上がる。
予想外だったのは、その速度と高さ。
想像以上に高く上がったボールは、レフト方向に飛んでいく。
遊び心に富んだ風は、大変な気分屋だ。
普通なら外野フライだろうという高さのこの打球を、レフトはフェンス際まで追った。
そしてグラブは届かず、ボールはスタンドに入った。
なんであれがスタンドに入るんだ。
あまりにも理不尽なパワーに、武史よりもむしろ、樋口の方が呆然としていた。
確かにレフト方向はライト方向に比べれば、向かい風の影響は受けにくい。
だがあれだけ高く上がったなら、そもそも外野の定位置ぐらいでキャッチできるだろうに。
滞空時間の長すぎるホームランに、樋口は大きくため息をついた。
(まだ一点だ)
真田からは右バッターの多いレックスは、だいたい一点は取れるはずなのだ。
そう樋口は考えるが、武史との投げ合いとなっている真田は、普段とは気合の入り方が違う。
結局この一点が、決勝点となった。
ただし真田はこの試合を完封したのが響いたのか、少しローテを飛ばすことになる。
負けた武史は七回で降板し、レックスはさらに一点を取られたが、武史はローテを外れることはなかった。
翌日の試合も、ライガースの山田相手に、レックスは敗北する。
一試合目が雨天中止であったため、ライガースとの二連戦は、連敗となった。
この年、レックスが連敗をするのは三度目。
そして対ライガース相手には、4勝7敗である。
他の確実に勝てる相手には、絶対的な勝率を誇っているレックス。
しかしながらライガースだけは、そのレックスを相手に優位にシーズン戦を進めている。
それはこの二年、ペナントレースはレックスに及ばずとも、クライマックスシリーズで二年連続で下克上を果たしている、ライガースを象徴するような試合であった。
金原、佐竹、そして武史と、エースクラスのピッチャーが投げて負けている。
もちろん勝っている試合もあるのだが、吉村のようにだましだまし使っているローテ陣を除いては、敗北していないのは直史一人。
しかも勝った試合は、真田との投げあいであった。
七回三分の一をパーフェクトに投げて、そのリリーフの豊田と鴨池もパーフェクトリリーフ。
やはり怪物を倒せるのは怪物しかないのか。
レックス首脳陣としては、頭を悩ませるところである。
樋口としては、プレイオフまでにもう一度必ず、直史で対戦しなければいけないと考えている。
もしもプレイオフにようやく当たって、その時に点を取られたら、もう取り返しがつかない。
だがシーズンの間に点を取られるなら、なんとか修正が出来る。
エースの力に頼るだけとなってしまうが、どうしようもないことだ。
真田、山田、阿部といったあたりのピッチャーと勝負するなら、こちらもエース級のピッチャーをそろえ、ある程度の打撃戦を想定しないといけない。
それでも直史が点を取られるかは、微妙なところであるが。
灼熱の八月を前にして、首位レックスは二位ライガースとのゲーム差を縮められた。
だがそれでもまだ、首位を走るのはレックスであることに変わらない。
ただこの対決は、どうしても不安を残す。
統計的に強いのはレックスだが、直接対決ならライガースが勝つ。
この印象をどうにか払拭して、プレイオフに進出しないといけないであろう。
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