127話

「ケーキ、そちらの分も買ってまいりましたので、お好きな方をどうぞ」


「あ、どうも」



 気が回る女だなと思ったが俺はケーキが苦手だった。ケーキというより、甘い物を好まなかった。子供時分はこの生クリームの塊に信仰のような絶対的価値観をおいていたものだが、いつの間にやら受け付けなくなり、もう何年も食べていない。あれ程卑しく頬張っていた菓子を毛嫌いするようになった理由は明確でないが、大人と呼ばれるようになり、魚や野菜を美味いと思うようになった頃にはもう口に入れることは無くなっていた。恥ずかしながら、精神面を置いておいて味蕾だけ発達、成長したようだ。

 そういえばコーヒーも同じようにミルクも砂糖もいれなくなっていた。昔は、あの子供のように甘ったるいカフェオレばかり飲んでいたくせに、急にブラックを嗜むようになったのだが、これについては経緯を覚えている。日照る夏。仕事の休み時間。何か飲みたいが、甘い物は喉が渇くと悩んでいると、ふと、ブラックコーヒーが目に付いた。それまで忌避してきたが今なら飲めるかもしれないと買って喉を鳴らす。


 爽やかな苦味が沁み渡り、脳が覚醒していった。これまで甘く薄められてきた特有の深い味わいがダイレクトに刺激し、俄に気分が高揚していった。


 なるほど周りの中年達がわざわざ苦い汁を飲んでいたのはこういうわけかと腑に落ち、以来、コーヒーはブラックを選ぶようになった。



 こう思うと、このでき事以来、甘味を避けるようになった気がする。そして、どんどんと決まった毎日を送るようになっていったのも、この頃だった。仕事中はコーヒーと水。弁当を食べて、またコーヒーと水を交互に飲む。家に帰るとシャワーを浴びて、酒と肴を摘み、適当なところで寝るといったルーティン。面白みも甘美もない、黒で塗りつぶされた人生。そこに別段不満はなく、要らないストレスを感じないだけ良いと考えていたのだが、そういえば彼や彼女と話すうちに、どこか退屈さを自覚していた。

 俺は、彼と彼女と同じ時間を過ごしていいのかと密かに振り返るようになっていた。この不安定の正体が劣等感と羞恥である事は、最初から分かっていた。

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