126話

 抱いたものが性愛なのか単なる性欲なのか。どちらが正しいかといえば性欲だろう。俺自身、愛故に抱きしめたいというものではないと分析してしまったのだから、そういう風になってしまう。これはいかん。やはり、涅槃。魔羅を退けた、沙羅双樹の木の下で入滅した釈迦の如くならなければならない。俺は無。感じず、惑わず、乱されず、一点の曇りなく迷わない境地へと至らなければならない。それこそが、俺が救われる唯一の道なのである。

 そうだ、一切の欲望から解放され、執着から脱すれば、それは幸福以外の何者でもないではないか。求める必要のない生とはそれ即ち充実である。

 なにもなく孤独の中において満ち足りた心持ちとなれれば、俺のようなもち得ない、もつ資格がない人間にとっては至上である。進む先がいずれも地獄に繋がっている身なれば、それは残された最後の希望となるだろう。かくなるうえはこの先に進み、現代に生きる覚者と成り果て現の世を渡ろうではないか。俺は無だ。無。何もなく、何者でもない、無……無……






「お待たせいたしました」



 女が皿にのったケーキを持って戻ってきたのは俺が輪廻の輪から外れる意気込みを胸に燃やした直後であった。騒がしい色合いをしたクリームは、見るだけで味わう事ができ、胸焼けがする。





「早かったですね」


「早かったでしょうか。随分長く悩んでしまって、申し訳ないなと感じていたのですが」



 その言葉に反応し時計を見ると、彼女のいう通り迅速とは言い難い時間が経過していた。驚いた俺は、「本当だ」と、独り言を大きな声で呟いた。



「お気付きにならなかったのですね。何か考え事をされていたのでしょうか」



 彼女の問いにはにわかに答えかねる。「君に欲情した自分を許せず、ニルヴァーナを目指す決意を固めた」などとは余程言い出せなかった。

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