117話
コーヒーの香りに、少し咽せる。
洋袴にみっともない模様が馴染み始めていた。長くかかったが、ようやく乾き始めだしたようだった。冷たかった部分に少しずつ絹の暖かさが持ってくると、俺は帰宅した後の事を考える余裕ができた。まずはシャワーを浴びて汚れを落としたい。今日はコーヒー以外にも、自分の体液で酷く汚れてしまった。間欠泉のように定期的に吹き出す嫌な汗は例え乾いてしまっても不愉快さが身体に纏わりつくのだ。熱い湯に浴びたい欲求が湧く。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
戻ってきた女からコーヒーを受け取る。カップ越しに伝わる熱で再び汗が溢れそうになる。アイスコーヒーを頼めばよかった。
「こちら、お釣りです」
「あぁ、はい。どうも……」
女の白い手の平には小銭が幾らか乗っていたがそれよりも彼女の指が気になった。それまで近くで、またまじまじと見る機会がなかったため気付かなかったのだが、花の茎が如く細いと思っていた指は実際肉が付いており健康的な印象を受けた。
「……」
その指を前にした俺は知らずのうちに息を呑んでいた。かつてこれほどまで女の体の一部が我が身に迫った事がなく、色白に浮かぶ血管の一筋一筋に、つい魅力されてしまっていたのだ。
「どうかなさいましたか」
「いえ」
差し出された手に触れられる口実ができていた。女の暖かさを感じるまたとない機会だった。これまで女を知らなかった俺は、手を握る事さえ特別な事のように感じ、心臓が不規則に動いていた。女の身体に触る。その背徳感と欲望で、身体が飛び上がりそうになるも、そこに孕む恐怖の存在に竦む。抗う勇気が、俺にはなかった。
……
「せっかくですから、お菓子でも買ってください。小腹も空いたでしょうから」
「あら、よろしいんですか」
「えぇ。かまいません」
「ありがとうございます。それでは、またカウンターまで行ってまいりますね」
嬉しそうに元来た道を再び辿る女の背中から目を逸らし、俺は人知れず、ベルトの穴を一つ緩めた。
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