61話

「ごんぎつねや大造じいさんとガンもそうだけれども、生と死についてはこれまで多くの人間が思案し、様々な方法で表現してきた。宗教なども生死感については大きく触れ、教義の中に組み込まれているね」


「キリストの死は象徴として確固たる影響力を築いたと思います」


「そうだね。その後に復活したエピソードや千年王国の概念などと合わせると、キリスト教は生を重要視しているように思えるね」


「あ、少し待っていただきたいです。千年王国の意味を調べます」


「うん、待つよ」



 この子供でも知らない事があるのかと新鮮な気持ちとなり、即座に自習する姿に末恐ろしさを感じた。



「ありがとうございます。調べ終わりました。キリストの再臨と建国。そして最後の審判を経て永劫に至るという終末論ですね」


「そうだね。キリスト教は死は過程として見ているような気がするね。反面、仏教は死、ありきのような教えを説いている風に見える。輪廻や涅槃、解脱なんかの概念は死にゆくまでの心構として有用な気がするよ」


「なるほど。しかし、死を肯定するというのは中々できません」



 子供はぞっとしたように両肩を抱き震えてみせた。それは勿論演技であり、大袈裟で滑稽に見えたが、当人がふざけているのが真面目なのか判断がつかなかったため触れないようにし、質問を投げる。




「君は死が怖いかい」



 即座に姿勢を正した子供は真っ直ぐにこちらを見直し、迷いなく答えた。



「はい。自身の意識がなくなる事を想像すると、途方もない恐怖に苛まれます。感覚も思考も消え去るなんて考えられません」


「なるけど。それは確かに怖いね。どうなるか分からないし、分かる事もできないんだから」



 それこそ釈迦が、恐怖は妄想から来ると教えていたなんて記述を何かで読んだ事がある。理解できない事象というのは恐ろしく不安だ。死というのは身近にあるくせに一度しか経験できない未知であるわけだから、深く考えようとしても浅瀬止まりで、遠方から感じる深淵の気配に怯えてしまうだろう。痛みや苦しみへの忌避も当然あるが、死そのものへの根源的な恐怖というのは中々払拭できるものではない。だからこそ、宗教で取り扱われているのだろうが。



「そちらは、怖くないのですか」


「死ぬ事がかい」


「はい」


「勿論怖いよ。ただ……」


「ただ、なんでしょうか」


「……」



 俺は言うべきか言わざるべきか迷ったが、この子供ならば構わないだろうと、続きを述べる事にした。



「自殺を図った時は、それでも死にたいと思ったね」

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