59話

 俺も昔、父親に連れられ蛍を見物した事があった。車の助手席に座りどれだけか飛ばして到着したどこか。幼い時分で何処に来たのか覚えていないが、知りもしない場所であったのは確かだった。そこから背の低い草を踏んで進んだ先にある小川で、光の群れと対峙した。非現実的な光景に息を呑み、無数の輝きに圧倒されていた。過去の記憶など続々と消え失せていくこの頃であるが、あの景色だけは依然焼き付いていて離れない。子供の頃の、象徴的な体験である。それと同じ経験をこの子供がしたと思うと、正体不明の喜びが湧き出て、平静を取り繕うのに苦労した。





「蛍かい。昔見た事ある。綺麗だったろう」



 なんとか落ち着き普段と変わらない態度を作る。今スポットを浴びているのは俺ではなく目の前の子供である。それを忘れてはいけない。



「はい。彼が言うにはゲンジボタルのコロニーとの事らしく、清水でないと生息できないため随分珍しいと説明していました」


「そうかい」



 蛍は主にゲンジとヘイケに分かれているとの知識は備えていたが見分けなどつくはずもなく、俺があの日見た蛍光がいずれに属するのか知らない。恐らく世を生きる人間の半分程度は区別できないのではないだろうか。



「博識なんだね彼は」


「はい。僕よりもずっと……」



 口から出かけた言葉を呑んだ子供は、悟ったような表情を作り、影を見せた。



「彼は僕の知らない事を知っています。また、僕も彼が分からない事を理解しています。互いに足りない部分があったのです。それを見下していただなんて、愚かでした」


「そうだね。ただ、その友人が勉学を怠っていた事は恐らく事実だと思う。それを踏まえて、今後の関係を構築していったらいいんじゃないかな」


「……はい」



 子供は「遅刻です」とはにかみながら席を立った。いつもより長く話してしまったが、こんな日があってもいいだろうと都合よく解釈し、すっかり冷めたコーヒーを飲み干す。



 一息ついて、俺は先日、天才ばかりのコミュニティを作ればいいと、頭の良い人間は学校など通わなくとも問題ないだろうと持論を展開していた事を思い出し、恥じた。稀かもしれないが、あの子供のように良き友との出会いがあるかもしれない。それを考えると、義務教育というのも捨てたものじゃないなと、しみじみと感慨に耽ったのである。


 もっとも、俺のように交友とは無縁の人間がいるのも確かだが……

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