50話

 学校教育の必要性については誰しもが抱く疑問だろう。優秀な家庭教師さえ付ければ学業面では問題なく、合理的に時間を使える。秀でた人間であれば、その時間を実に無駄なく有意義に使用できるだろう。集団行動で生じるロスは彼らにとって不条理以外の何物でもないのかもしれない。


 このような理屈に対するカウンターとして、組織としての役割分担の学習というものがある。好きでもない人間と苦楽を共にする事により、近い将来訪れる労働の辛苦に耐え得る土台が作成されるという説論が何度も叫ばれているのは誰しもが知っているに違いない。

 確かに協調性と社会性の習熟は生きていくうえで必須であり、しがらみだらけの世の中において不可欠な対人技能ではある。あるのだが、そうした普遍的な能力は凡人のみで共有しておけばいいのではないかと思わないでもない。少なくとも秀でた人間の個性と成長を阻害するような教育はナンセンスである。能力に差がある人間同士を掛け合わせ無理やり平均化させる事に何の意味があるというのか。集団教育そのものを抜本的に否定する気はないが、天才の歩みを凡夫に合わせるなど不幸でしかない。才覚あるものには相応の教育をしていただき導き手となるようシステム化さていくべきではと、俺は思う。


 この構想において問題点となるのは子供の意思だろう。本人の希望とは無関係に親や社会が決めた道を進ませるのであればそれは著しい人権侵害であるし、かといって判断力の覚束ない者に全権を委ねる好きにさせるというのも不健全である。より良い選択を取るにためにどれ程の心労と時間がかかるか、想像するだけで途方もない疲労感が襲ってくる。そういう意味では、十把一絡げの現代教育は責任の所在が曖昧となり気楽で安定しているのかもしれない。



 ここまで偉そうに考えを積み立ててはみたが、俺の自論はいい。馬鹿な人間が理想だけで語る薄細い内容であると自覚はしているため、わざわざ声に出して述べる気もない。それよりも焦点を当てるべきは目の前の彼。学校教育に対して問題提起を行った、齢十ばかりの彼にである。俺は、彼の意見を聞かねばならない。



「君は学校は嫌いかい」




 コーヒーを片手に彼に問う。答えは、コーヒーを一口飲む間に返ってくるだろう。

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