46話
「キスを拒んでおりましたら、急に素っ気なくなったように思えます」
悲しい事に予感が的中してしまった。十中八九そうだろうと確信してはいたが実例が伴ってくると哀れさが増す。
「彼は何度も迫ってこられましたか」
「はい。今も度々」
どうやら男は相当諦めが悪いらしく、未だ口唇の感触を夢見て煩悩に苛まれているようで、その心中に想いを馳せると哀れみを感じずにはいられなかった。盛りがついた年代でようやくできた女を前に長く塩漬けを余儀なくされたら精神に異常をきたすのも止む無し。惰性が勝る俺には些か理解し難い情熱でこそあれ、男性ならではの情緒に程度のシンパシーは通じる。その並々ならぬパトスを別の道か、あるいは別の女に向ければいいのではないかとは思わないでもないが、少しだけ情状を酌む余地もない事もないと、些かの仏心が芽生えたような気がするのだった。そんな事を言うと彼女に軽蔑されるかもしれないので黙っておく。
「キスをしたくない理由がおありになる」
代わりに、彼女がキスを拒む理由を聞いてみようと思った。
「だって、事故みたいに始まった交際なんですもの。彼の人間性を把握してからでないと、私不安で」
存外真っ当であり、また酷い本音であった。男の方は既に自分の物にしてやったつもりでいるのに、彼女は未だ値踏みしている状態なのである。ある意味では喜劇だし、ある意味では悲劇といってもいいだろう。これほど残酷なすれ違いもそうはない。ますます男が可哀想に思えてくる。少しばかり、肩を持ってやりたくなってきた。
「女性にこんな事を言うのは忍びないのですが、今日日、キスくらいは許してやってもいいのではないでしょうか」
「そうはいいますが私、もしかしたら彼の事を好きじゃないかもしれないんです。キスをした後で嫌いだと気が付いてしまったら、絶対後悔するじゃありませんか。そんなの嫌です」
「……」
力強く我を主張する女に俺を言葉を失ったが、同時に考える。そこまで身持ちが固いのに、何故軽々に男女交際などを始めたのか。彼女の悩みの根幹は、そこにあるような気がした。
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