30話

 やむを得ず、座してうどんを望む。

 時計の針が流れ、二分、三分と経過していく。いつもであれば提供される頃合いとなっても一向にお椀が卓に置かれない。早めに家を出たとはいえ無駄に待つのは好きではないため、卓を立ちどこぞでおむすびでも買って済ましたいなと考えながらも、既に客として遇されている以上はその礼に応えなければならず、ただ虚無の中でうどんを求る。

 ちらと厨房の方を覗くとなにやらまごつく女の店員。客は俺一人。出されたうどんを運ぶだけの仕事に何を戸惑うと狭量な感想が芽生え自己嫌悪に浸る。きっと空腹と切迫していくスケジュールに寛容する余裕がなくなっていたのだろう。己の未熟さを再認識し更に鬱ぐも、「それが俺という人間なのだ」と心理的な居直りを働き、同時に、ここでクレームを入れてしまったら余計に自己の負担に繋がるなと理解して不満を押し留めたのだった。それからまた一分程度過ぎると、ようやく女が「お待たせいたしました」と膳を持ってやって来て俺の前に置いた。女の言う通り大変待ったが「どうも」と述べ無興味を決め込んだ。わざわざ「遅いよ」と嫌味を投げてやっても時間が帰ってくるわけでもなく、そのうえ相手は嫌な気持ちになって俺も後悔するに違いなく不毛。沈黙は金であるからして、要らぬ言葉は控えるべき。


 何はともあれようやくうどんが食べられるのだから全て水に流そうとそれまでの不手際を許容するのだが、気がつく。運ばれてきた、うどんがのっている膳の異変に。



 ないのだ。

 牛蒡が。



 味が染み込んだ、程よい食感が嬉しい牛蒡が用意されていないのだ。


 品切れだろうかと考えるもそんな事があるだろうかと疑る。朝一番に来て出されないなど考えづらく、また、もしそうであれば最初に伝達するか代わりのものを用意するはず。それがないという事は忘れている可能性が高い。説明もなく設定された料金分のサービスが満たされない以上これは、文句の付けようがない不心得。指摘するのが筋だし、互いのためだろうが……



「いらっしゃいませ」



 響く不安そうな招き声。他の客が入店。それも、立て続けに。

 案の定女はあたふたと右往左往。捌くのもままならず、うどんを茹でる店主が助力する始末。この状況で「牛蒡がない」とは言い出しかね、心に雲が張ったままうどんをすする。あわよくば店主が途中で気がつき「いや失礼いたしました」と牛蒡を持って詫びにくるのではないかと期待するも左様な気配はなし。減っていく麺と出汁に切なさが込み上げるも救いなく完食。カラリとしたお椀が悲し気な模様を浮かべ、退店を促すのであった。



「ご馳走さん」



 苦慮の果てに席を立つ。「ありがとうございます」と見送られる中、「こんな事もあるか」と無理やり納得しようとするも他の客にはしっかり牛蒡の小鉢が提供されているのを見て、どうにも承伏し難い苛立ちが込み上げる。俺には牛蒡がなかった。その事実だけが、ずしと心を痛めさせるのだった。

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