15 さいごに

 ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

 私の困っている状況がひとかけらでも伝われば幸いです。


 「へー。こんな世界があるんだー。コワーい」な方は幸運です。

 そのまま最期までその幸運な世界で暮らせたらいいですね。

 幸運のお裾分けとして、できれば、私たちカッサンドラを攻撃しないでいただけるとありがたいです。


 もし、なにかがあって、こちら側に来てしまったら。

 ざまぁなんて思いませんよ。歓迎します。

 ようこそ。カッサンドラな世界線へ。

 可能なら、一緒に、この世界線を破壊する同志となってほしいです。

 

 私自身、ほんの数年前まで、カッサンドラ側のことなど知りませんでしたし、話を聞いても、まったく理解できませんでした。


 きっと、こちら側にこないと私たちの気持ちは正確には伝わらないんだろうなと思います。

 そういう意味で『世界線』という言葉を使っています。

 同じ世界、同じ空間にいながら、まったく別の世界にいるように感じるからです。


(本来の『世界線』は『並行世界パラレルワールド(似ているけど違う道を選んだ世界)』として使われています。私が使っているここでの『世界線』は、世界は同じながら、それぞれ個人一人ひとりに『話せば通じる』『愛は万能』などの常識のようなものがあって、『そうじゃない考えを受け入れない(平行線でわかりあえない)』という意味で使っています。だから厳密には『世界線』ではないですが、イメージ的には一人ひとりの頭の上から伸びた糸の所属先が違う、もしくは色が違う感じです)


 もともとの世界もそんな風だったのか、どんな世界だったのか、今となってはわかりません。今までの私は多数派として生きてきて、特に困ることがなかったからでしょう。


 アレルギーが市民権を得たみたいに、私たちカッサンドラも市民権を得られますように。

 そうしてカサンドラ症候群という現象がなくなりますように。

 無意識にそういう状況に追い込む行為が被害者や加害者を作っているのだと、白日のもとにさらされますように。


 似た境遇にいるママ友から「書けるなら書いて欲しい」と言ってもらえたのと、市民権を得るためにはどんどん発言した方がいいのだろうと思ったので、この文章を書きました。


 少数だったら「なにー? コワーイ」だったのが、多数になれば「うん。それはおかしいよね」と、新しい常識になるはずです(アレルギーの時にそう感じました)。   


 ぶっちゃけ今はまだ「うわっ。コイツ病んでる」「乙~!」って感じだろうなぁとは思いますが。



 あらためて、どうして伝わらないのか、考えてみました。


 多くの人は、無意識に、今までに聞いた似た話にあてはめようとしているように感じます。そしてその多くの話が二次元のもので、物語としてちゃんとしたオチがあるので、そうならないことに不満を感じるのではないか、というのが私の勝手な予想です。


 二次元を否定したいわけではなくて、作品と現実では尺が違うし(ひとつの物語を読むのにかかる時間と、リアルな人生の一生分では、明らかに長さが違いますよね)、オチがないとウケないし売れないから、リアルな話を二次元にしても、どうしても短い尺で読者に受けるオチがつきます。

   ↑

(可能なら短い作品の中で読者にそれとわからせないようにさりげなく伝えられたらベストなのですが、私の筆力が上がるのを待つと、届けられないまま人生が終わってしまいそうなので、私が今できる精一杯でお届けしています)



 もちろん、私が話したことをそのまま理解しようとしてくれている人もいますが、やっぱりうまく伝わらない。もしかしたら、今現在の聞き手の位置(リラックスできる環境や適度な睡眠がとれる安全な状況)から、私の話をテレビドラマを見るような距離感で聞いているのかなと思います。


 ためしに、想像してみてください。


 一言で「10年間」と言ったところで、15分間で話を聞いた人、1時間で文章を読んだ人にはその体感しかないため、いまひとつ長さが伝わりません。

 10年間を想像するのは意外と難しいです。


 10年間とは。

 小学校に入学した子が高校生になるくらいの期間です。

 中学生になったばかりの子が社会人になるくらいの期間です。


 いまひとつピンときませんか。


 今年のお正月になにをしたか覚えていますか? 去年や一昨年は初詣に行きましたか? コロナで行けませんでしたか? いつのお正月まで思い出せますか? お正月10回分さかのぼれますか?


 それが10年間です。


 どうですか?

 さきほどまで想像していた10年間よりも具体的に長さを認識できたら幸いです。


 私の生活を想像するのはもっと難しいかもしれません。


 あなたにはできれば言葉を交わしたくない相手がいるでしょうか?


 顔も見たくないような大嫌いな相手ではなくて、悪い人ではないんだけど、会話のはしばしで「ディスってんの?」「その言い方はちょっとどうかな」と感じる相手です。


 そんな相手と同じ空間で過ごさなければならないと想像してみてください。


 上司か先生か、同級生か先輩か後輩か、近所の人か親戚か、親かきょうだいか友達か。

 どんな相手かわかりませんが、その相手となにかしら理由があって同じ家で暮らすのです。


 道ばたで数分、近所のお店や学校や会社で数時間過ごすだけじゃないんです。

 リラックスできるはずの自分の家にその相手がいるんです。

 朝起きた瞬間にもいるし、寝る前にも、食事中にもいるんです。

 自分の家という空間にいるんです。

 そして自分の行動すべてに対していちいち微妙なコメントを横から発言されるのです。


 どうですか?

 想像できましたか?

 うまく流して耐えられそうですか? 想像するだけでもツッコミが止まりませんか?


 私はしんどくて、やめてほしいと伝えましたが相手に怒鳴られ、なぜか周囲から「お前の話し方が悪いんだ」と責められたり、距離を取ろうとすると止められたりしました。


 そんな状態が10年間続いているのが私の10年間です。


 これで私の状況が、前よりもリアルに想像できたと思います。



 そんな状況に居続けながら、正常な精神であること前提で話されるのです。

 どんな扱いを受けようと、変わらない愛を捧げ、家事をこなし、理路整然と困っていることを説明しろと言われるのです。


 私は感情のある人間です。

 なにがおころうとも言われた仕事をこなせるロボットではありません。

 

 日常が異常だと、なにが『普通』で、どこに困っているのかの判断が、だんだんつかなくなってきます。


 運良く誰かに相談できても、返ってくるのが「あなたのやり方が悪いんでしょ」か「愛が足りないんじゃない?」だと、「今の状況をしんどいと感じる自分がおかしいの?」と思えてきます。


 「すでに何回も言ってきたし、なんとかしようとしてきたし、愛も捧げている」のだけど、なぜか不思議と、「こちら側の努力が足りない」と思われます。


 しんどい状況を必死に思い出して、できる限り説明したところで、聞き手側の想像の範囲でしか理解してもらえず、「こうしたら良かったんじゃない?(そんなこともできないの?)」と、責められるように言われると、説明する気もなくなってきます。


 助言をもらえても、「あなたがこうするべき」だけであって、「パートナーをどうこう」はなぜか言われないのです。


 毎回、泣いて語れば聞いてもらえるのかもしれませんが、もうね、だんだん笑えてきますよ。

 全然違う人から、ほぼ同じセリフが返ってくるんです。もしかして口裏を合わせているのかと疑うレベルです(もちろん、そんなことやってないのはちゃんとわかっていますよ)。

 

 まさにカサンドラだなーと思います。

 スゴい呪いです。

 「カサンドラ症候群」はナイスなネーミング過ぎます。


 でもきっと、カッサンドラになる前の自分が今の自分を見たら、周囲と同じように「自分から不幸になってるだけじゃん。なに不幸な自分によってんの?」「しんどいならさっさとその場所から移動すればいいだけなのに」などと思ったことでしょう。


 こんな風に、くどくど書いてしまうと「自分の能力の低さをかくすために言い訳がましいこと長々と語らないでよ」と思ったことでしょう。


 多数派であった頃の自分の思考癖は覚えているので、自分で自分が情けなくて、うまくできない自分を責めてしまいます。


 もしかしたら、「今のその状態こそが『共依存』と呼ばれるものだ」と思われているのかもしれません(「私だけがパートナーを助けてあげられるから、離れないで私が一緒にいないと」という微妙な関係です)。


 違うんです。


 なんでここまでしてパートナーをどうにかしようとしているかっていったら、ただの保身です。いきなり刺されたくないからです。「見捨ててしまった」という精神的な傷も負いたくないからです。


 『愛』でなくてガッカリさせてしまったらすみません。


 どうして周囲は平気で(もしかしたら平気じゃないのかもしれないけれども)切り捨てる選択肢を選ぶように言うのか。

(もちろん今の制度ではそうするしかないからだとわかっています。でも「愛をもってまだまだ頑張れ」と言われるのも苦痛なのですが、「さっさと見捨てろ」と言われるのも微妙なのです。ワガママですよね。でもね、そもそも選択肢が微妙な二択しかないのも変だと思いませんか?)


 私だけかもしれませんが、「切り捨てる選択をする」ということは、「むしゃくしゃしたから刺した」を容認することに繋がるように思えてしまう。


 「誰かを切り捨てる」のなら、「いきなりどこかで見知らぬ誰かの気まぐれで刺される覚悟をするべき」だと思ってしまうのです。なぜなら、おそらく、その加害者はかつて誰かに切り捨てられた存在だろうと思うから。


 勘違いしないでくださいね。

 「切り捨てるなんて可哀想」などと言いたいわけじゃないですよ。

 「旦那を捨てる選択をするなんて信じられない」とか思ってもいませんから。


 離れたくないわけじゃないんです。

 安心できる状態で安全に離れたいだけなんです。

 相手が誰かにサポートされていない状態で離れたら、悲惨な未来しか想像できなくて怖いんです。


 実際に行動にうつしたら、ただの杞憂に終わるのかもしれませんが、できる限り不安を排除するために万全を尽くしたいのです。


 私と子ども達がいきなり身を隠したとしてパートナーが改心するわけではありません。問題から距離をとっただけで、問題はそのまま残っています。苦労して離れた末に刃傷沙汰とか笑えません。


 おそらく、この恐怖心は、身近に暴力を感じていないと伝わらないんだろうと思います。


 二次元と違って、リアルの世界ではそれぞれの人の生活がずっと続きます。

 できる限り、わだかまりや憂いを絶って、「これなら離れても大丈夫だ」と思いたいだけなんです。


 二度とあわないように離れるのは難しい。法的に「近づいてはいけない」と言ってもらえたとしても、守るかどうかは本人次第です。海外移住や他府県に引っ越せばいいのでしょうが、それを疲れ切った側がしないと事態を動かせない現状が腹立たしい。


(私と子どもは他府県に引っ越せても実家の両親は年齢的に厳しい。置いていくのも……と考えて、だから両親は私に別れるなと言うのかもしれないと思い至りました。残り少ない日々を今の場所で暮らすには、私と子どもがいた方が都合がいいです)


 「さっさと飛び出さないのが悪いんだろ」という主旨を、周囲から当たり前のように言われるたびに「なんでそれが当然になってるの?」と不思議に思います。

(うちだけでいえば、疲れきった私と傷ついた子ども合わせて5人が移動するのと、パートナー1人なら、明らかにパートナー1人の方が引っ越しの手間がかかりません)


 「そんな環境を暗に容認しているこの世界は、時限爆弾を作っているのと同じなのに」とも思います。

 

 抑えつけられた被害者は、あとほんのわずかなひと押しで加害者になりえ、その対象は無差別なのに、と。


 「そんな妄想世界をグダグダここで書いてるよりも、さっさと子どもの精神を守れよ」という声が聞こえてきそうなので、『カッサンドラのつぶやき』は、このあたりで終わりますね。

 

 ご愛読ありがとうございました!

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