第13話 近衛批判
批判・評価、政治的な面、人間的な面、本当に色々ある。接した人の遠近、密度、政治的な立場によってこれほど評価が異なる人物はそういない。
宇垣一成は近衛の伝記を書いた矢部貞治に、「近衛公は聡明で気持ちよいが、知恵が余って胆力と決断力がなかった。知恵は人から借りられるが、度胸は人から借りられない」と語った。私は宇垣一成が短くして当を得ていると思う。
政治的批判として注目したいのは、この二人の指摘である。
山本七兵衛氏の批判
「『統帥権の問題は政府には全然発言権がなく』と近衛は言っている。 果たしてそうだろうか。統帥とは、元来は軍の指揮権であり、いずれの国であれ、これは独立した一機関が持っている。 簡単に言えば、首相は勝手に軍を動かすことは出来ない。 しかし軍も勝手に動くことは出来ない。 というのは少なくとも近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていない」。軍を動かすには、予算を内閣が承認し、これを議会が審議して可決しない以上、不可能であるとする。「然るに、北支事変で近衛は『不拡大方針』を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。 このことを彼自身、どう考えていたのか。 政府は予算を通じて統帥部を制御できるし、そうする権限と義務があるとは考えなかったのであろうか。(中略)近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。 彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。 というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。 園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。
— 山本七平『裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか』祥伝社、2004年
*注:山本七兵:山本書店店主。評論家として、主に太平洋戦争後の保守系マスメディアで活動した。自身徴兵され、マニラで2年間の捕虜生活を体験する。戦後聖書の専門の書店を開く。1970年 - イザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店より発売して著名になる。実質の著者といわれている。
園遊会でナチスの仮装をしたから、ナチス授権法に飛ぶのは飛躍し過ぎであるが、予算を拒否することで、断固たる姿勢を示すは卓見であると思う。
『近衛文麿』筒井清忠は、その中の「5・15事件の後、西園寺に近衛が後継内閣を語る」のところ、
「政党内閣か、軍部内閣か日本の政党政治をここで潰えさすのに忍びず、軍部との衝突あることを予期し得てもあくまで政党政治を貫くか、いっそ軍部にやらせて責任を負わせ失敗したらその政治的立場も清算されよう」と近衛は西園寺に述べる。このような考えは後にも試される。西園寺は軍部政治には反対者である。憲政の王道は政党政治と考えている。結局西園寺は中間内閣(政党と軍部の混合内閣)斎藤実挙国一致内閣になる。
この近衛の考え方について、筒井氏は「危険な軍部にこそむしろ責任を負わせようという論理こそ東条内閣を呼び出した論理と同じものである。これは危険な存在に身を任せると、その存在が責任を感じて身が安全になるという、危険性を低く見積もった性善説の楽観論である。確率論的に安全性の低い方に国の運命を任せようというものである。これは弱者の権力論と云ってもよいだろう。自分自身では積極的に問題の責任を取ろうとする力量と勇気がない立場の人間が思いつくことなのである。」として、「これは案外日本人の好きな論理なのである」と書いている。
私はもう一つ、別の見方をしてみる。犬養の時の陸軍大臣は荒木貞一であり、参謀次長真崎である、後の近衛の皇統派への思い入れを見るにつけ、上手く並列させているが、皇統派軍部内閣を望んだのではないかと思う(その上に近衛が乗ってもおかしくない)。西園寺がその話に乗らなかっただけだと思う。
また同書に、近衛の悲劇として、
「大正期から発達した大衆メデイアの中で皇族や華族の家庭の様子を写真入りで紹介することが本格化し、それは特に『主婦の友』などの女性誌向きメディアのグラビアページなどに顕著であった。こうしたアイドル的・スター的伝統的貴族層の中に近衛の存在があり、それが政治的人気に繋がったのだ」。と時代との係わりを書いている。近衛のポピュリズムには、「予期し得なかった君主国における大衆政治の特質が含まれていたとも言えよう。願望が強ければ強かった分、強い失望を招き指弾の対象となる。こうして戦後人々は彼を指弾したのである。こうした場合、何人ならばそれを果たし得たのかという問題はあまり考慮されなくなる。近衛の悲劇の根源は、ここに在ったというべきであろう。近衛は(マスメディアよって作り上げられた)能力に余る付託を受け、従ってそれを果たせなかったのである」。
そして、著書のまとめとして、教養主義ポピュリストとしての近衛を、
「近衛にはその経歴や思想遍歴が示すように、朦朧たる複雑性も並存した。近衛は父の交友関係から、アジア主義や日本主義を掲げる観念右翼と関係が深く、従って陸軍内では皇道派にシンパシーを感じ、統制派系統の軍人には警戒感を示した。その一方で河上に師事したように、社会主義に関心を示し、統制経済や全体主義的政治を志向した。同時にその出自から天皇と天皇家を中心にした国家秩序には強い愛着を示し「アカ」による革命を恐怖した。英米中心の国際秩序を利己的な旧秩序として批判する一方で、一家上げてのアメリカ移住を検討したり、嫡子を米国に留学させ、自由な国風を吸収させたりした。一人の人間の中に、このようなあい矛盾する政治的性格が複雑に絡み合い、共存していることが近衛の特徴であった。その複雑性ゆえに、右から左から、保守から革新まで、様様な政治勢力が各々に都合のよい「近衛像」を作り上げ、自派のリーダーとして推戴しょうとした。」と書いている。
私の見解(読んだ本の中には書いていなかった。新説か!)
私はこれを書いていて一番感じたのが、2・26事件に対する天皇と近衛の違いである。天皇はこれを反乱・暴徒、立憲の君主制を根底から崩すものとして敢然と否定する姿勢を示した。
一方皇統派にシンパシーを感じていた近衛は、第1次近衛内閣時、近衛は事件で処罰された(既に死刑になった者は除く)青年将校たちの恩赦(大赦)を真剣に考え動いた(これには周囲に賛成するものはなかったようだ)。また、日中戦争が泥沼化して行く中で、荒木や、真崎がいたらと皇統派を口にした。皇統派が対支不拡大路線であっても、余りにも未練たらしい。
それが、終戦前(昭和20年2月)、天皇への奏上文で、〈満州事変から太平洋戦争への進展を、一貫した計画に基づく侵略主義と見、しかもそれが共産主義勢力への日本革命の意図によって、操られていた〉。それを見抜けなかった自己の不明を恥じ、〈その様な分子が陸軍統制派の中核を占めている。徹底抗戦を叫びながら日本の敗戦を望み、革命状態を起こそうとしている。だから、早く和平、終戦をして国体を守らねばならない〉。そのためには〈皇統派を使って粛軍を行ってもよい〉という内容で語る。これが近衛の早期和平終戦論である。全てを統制派と共産主義をくっつけるのには無理があるし、統制派に押し切られた自己弁護にしか読めない。国民が、兵が多数死んでいっていることに一言もない(それは近衛だけではないのだが)のを置いて、近衛にしては程度の低い内容のものと云わざるを得ない。確かに日中戦争が簡単に片が付かなかったのは(杉山陸相は4か月で片が付くと上奏した)、ソ連共産党や毛沢東共産党が蒋介石に後ろから付いたからである(アメリカも支援していたのであるが…)。コミンテルンの脅威論は、対支邦和平工作で苦労させられたのと、拡大路線を取った統制派への恨みとがごっちゃになったものと思えば同情の余地もあろうが・・余りにも現実離れしたものである。
それより、最後まで皇統派に期待と思いを寄せる近衛が私には理解できない。統制派に何故引きずられたのか。私は皇統派も統制派も多少の違いはあっても同根であると見ている。政党制による議会政治の否定、憲法否定ないしは軽視は共通するもので、近衛もこれに共通するところがある。近衛も政党には不信を持っていた。議会否定は内閣否定であり、それは軍政を意味する。天皇親政とは名ばかりの軍部独裁ではなかろうか。皇統派と統制派はその手法が違うだけである。詰まるところ、近衛は皇統派に乗ろうとし乗れず。統制派は近衛に乗ろうとした。近衛の国民的人気を隠れ蓑に利用したのである。
国家改造とは云うが、天皇の自己都合の利用、軍組織を何より優先する思想、予算獲得主義、それが国家財政を圧迫し、窮民に繋がることが分かっていない。これらも両派軍部に共通することである。おまけに皇統派は負け組ではないか、負け組に味方してどうする近衛さんである。
その中途半端さに、日米交渉なんかのとこでは、近衛頑張れ、多数の国民の命が架かっているのだと応援したくもなったが、三国同盟、国家総動員法、大政翼賛会、結果として全て東条の為に座布団を敷いてやったのである。アメリカもその様に判断したのではないだろうか。私の見解は厳し過ぎるのだろうか?性格で片付けられるものではない。性格が強ければ軍を押さえつけられたのか、やはり根底の思想性を見なければならない。
大正期の近衛の発言はリベラルである。論文「英米本位の平和主義を排す」は、「英米は自国の生存に必要な資源を既に確保しておきながら移民制限などで各国の発展を妨害しているのであって、こうした不平等な現状維持のために唱えられる平和主義は利己主義の隠蔽に過ぎない」は、過激ともいえず、妥当性のあるものとも云える。
しかし必要な資源が〈領土〉を意味するなら、満州国建国後に出された東亜新秩序はアジア主義としては格調高いが、やはり中国を下に見た利己主義の隠蔽に過ぎないのではないか。満州事変後、近衛はリベラルな部分を捨てた。近衛もこの満州国建国までは一切否定していない。必要な資源を更に拡大する軍に引き摺られたのは積極的か消極的かの違いでしかないのではなかろうか。
軍の政治介入を横暴と批判していた新聞らのメデイアの論調も事変後急変した。援軍記事は購読者を倍増させた。軍縮期に軍人に冷ややかだった民衆も満州建国に沸いた。変わったのは何も近衛だけではなかった。むしろ、意識的、無意識的は別にして、時代の論調、民衆の世論に同調して行ったのではないか。近衛の人気長続きの秘訣かも知れない。
筒井清忠氏は、メデイアの政党への在り方について、金権・腐敗せる政党、権力闘争に明け暮れる政党とか、批判ばかりであったが、政治はある種権力闘争がつきもので、政治に金が要るのは仕方のないことで、代議士個人を取れば、政治で資産をなくしたものの方が多いのである。批判と同時に政党を育てるという視点・姿勢が有ったらとしている。
ある優秀な女性議員がいた。憲法問題で協力関係にあった弁護士との恋愛関係を、週刊誌が不倫報道した。ネット社会では拡散し、その執拗さに議員が嫌になって政治から引退表明した。メデイアと政治、心がけたいことである。
最後に、昭和研究会のメンバーでもあった、東洋経済新報社主筆(社主でもある)の石橋湛山の小日本主義を紹介してこの長い(笑)章を終わりたい。
「中国の統一国家運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起きるだけで、満蒙を放棄したからって我が国は滅びる訳でもあるまい。人口は領土の拡大で解決しないし、鉄・石炭の原料供給基地の確保は平和貿易で目的を達せられる。満蒙を生命線とする主張は、英国が対岸の大陸に領土を求めるのと同じ誤りであり、日本海で十分である」と・・
湛山は別のところで、植民地経営には、みな虫のいい入りばかりを考えているが、出(コスト)を考えていない。軍事費等を加えれば、収支赤の場合が多いとも指摘している。
教室の前、黒板に大きな日本地図が貼られていた。満州、朝鮮、樺太半分、台湾が赤く塗られていた。それが戦前の日本の領土だと知って「スゲー!」と云ってしまった。「大きいからいいってわけではないの、4つの島になって平和になったの」と、諭された。小学校5年の時の担任の女先生を思い出した。
石橋湛山は昭和31年12月首相(自由民主党)になったが、病気で翌年2月に辞職した。その後を継いだのが、満州で革新官僚として実績を上げ、近衛内閣で商工次官、東条内閣で商工大臣を努めた岸信介である。
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