第12話 戦後の近衛

 

 天皇の聖断があって、玉音放送を国民が聴き、戦後の内閣は昭和20年8月17日東久邇宮稔彦王(陸軍大将)が内閣を組んだ。近衛が総辞職した時、後継にと名前が出たが、皇室に戦争責任が及んではいけないと、東条になった経緯があった。近衛は副総理各として国務大臣についた。内閣書記官に緒方竹虎(朝日新聞副社長)。皇室軍人として政治に関与してこなかった東久邇宮は親交があった近衛を頼った。またもう一人信頼を於いたのが緒方竹虎であった。


 就任後の記者会見で、「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」という、いわゆる「一億総懺悔」発言を行ったのは東久邇宮であった。当時日本の人口は6千万人、朝鮮・台湾を入れて1億人である。

 GHQから昭和20年10月4日に伝えられた、いわゆる「自由の指令」(人権指令)への対処が問題となった。この指令は、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特高警察の解体、“日本共産党員や違反者の引き続きの処罰”を明言した山崎巌大臣始め内務省幹部の罷免などを内容とした。しかし、東久邇宮内閣はこの指令を実行することによって国内での共産主義活動が再活発化し革命が起こる(近衛の意見だね)ことを危惧し、指令の実行をためらい内閣総辞職に至った。54日間という在職日数は歴代内閣最短であった。


 近衛は副総理各国務大臣としてマッカーサーと会見している。終戦時の天皇に上奏したのと同じようなことを話している。この時マッカーサーは近衛に、リベラルを集めて憲法草案の作成を勧めている。マッカーサーは近衛に好感を持ったものと思われる。マッカーサーのお墨付きで憲法改正に着手するのであったが、東久邇宮の総辞職で国務大臣でなくなった。後継内閣は幣原喜重郎内閣となった。近衛は内大臣府御用掛となって改正草案に専心した。最高司令官政治顧問であるジョージ・アチソンを訪ねて私案を受け取っている。しかし近衛の憲法改正作業が内外から批判が厳しくなった。  

 憲法改正は内府のすることか、政府のすることではないかの声によって、幣原は内閣に憲法問題調査会を作らせ松本国務相が指名される。政府が憲法改正作業を始めたことにより近衛の立場は不安定なものになった。

 

 近衛は自分の内閣では日米戦争の回避に最大限の努力をしたと自負していた。しかしマスメデイアの近衛への攻撃が急速になって来た。ニューヨークタイムズが「近衛のように、侵略戦争中何度も首相を努めた人間が新憲法の起草するのはおかしい」という内容であった。これを、朝日新聞、毎日新聞が紹介した。

 11月1日総司令部は、近衛の憲法改正作業と総司令部は無関係という声明を発表した。東久邇宮の閣僚だったから内閣に頼んだのであって、近衛個人に頼んだのではないと云う論理であった。そして総司令部の対敵情報部調査分析課長E・H・ノーマンの近衛を弾劾した「覚書」をアチソン政治顧問に提出した。提出後の10日後に近衛の逮捕が決定される。11月22日近衛は天皇に改正案を奉答し栄爵拝辞の手続きをした。巣鴨に入る12月16日未明に、自宅荻外荘で服毒して自殺、54歳であった。


近衛家の人々

父:篤麿 貴族院議長、学習院院長、東亜同文会会長としてアジア主義の盟主として活動する。孫文らとも交流があった。42歳で亡くなる。同文会の借財が残る。文麿はこのような関係でアジア主義の国家主義者の頭山満や右翼団体と交流もあった。父との関係での中国人にも知己を持った。

母:衍子(旧加賀藩主 前田慶寧侯爵の五女)文麿が幼いときに病没

継母:貞子(前田慶寧の六女、実の叔母に当たる)実母と思って育つ、成人して継母と知る。

異母妹:武子(大山巌公爵の次男 大山柏に嫁ぐ)

異母弟:秀麿(指揮者 作曲家として有名)

異母弟:直麿(雅楽研究者)

異母弟:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司)

家族

妻:千代子(元・豊後佐伯藩主子爵・毛利高範の次女)

長男:近衛文隆 学習院中等科卒業後、外交官を目指しアメリカ留学、ローレンスビル・スクールを卒業、プリンストン大学に学んだ。ゴルフ部長として全米1位となる。滞米中はアマチュアゴルファーとして活躍する。昭和13年帰国、近衛の秘書を経て、昭和14年東亜同文書院(東亜同文会が設立した学院)講師として、上海へ赴任、上海では蔣介石との直接交渉の必要性を感じ、政府要人の娘と交際してその手引きで重慶に向かおうとして憲兵隊に捕まり、閣議でも問題視されたため帰国。軍部から問題視され、昭和15年2月に召集され満州阿城砲兵連隊に入隊。幹部候補生考査に合格して陸軍中尉。終戦時にソ連軍の捕虜になり、日ソ交渉時、鳩山首相の帰国要望・国民の数十万の嘆願書も報われず、昭和31年収容所にて病死。

長女:昭子(島津公爵家当主 島津忠秀に嫁ぐが、整体師・野口晴哉と駆け落ちして後に結婚)

次女:温子(細川侯爵家当主嫡男 細川護貞に嫁ぐ)当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚。護貞は近衛の総理秘書官となる。3年後、近衛が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて死去。享年23。この温子と護貞の短い結婚中で産まれたのが、後の総理となる細川護熙である。

次男:通隆(東京大学教授、文麿の異母弟の近衛秀麿夫妻の養子となる)

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