第11話 近衛の日米交渉
これについては、近衛も手記の中で克明に書いている。
いよいよ日米交渉の所まで来た。少し長くなるが、大事な交渉事であるので、日程順に記してみる。その方が分かり易いと思うのだ。できるだけ簡潔明瞭に(笑)。
アプローチはアメリカの方からあったのだ。日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートに乗せられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからの二人の宣教師の訪日であった。メリノール宣教会のジェームズ・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父であった。両師は近衛文麿首相に近い産業組合中央理事長井川忠雄に宛てた紹介状を持参しており、井川(当然井川は近衛に相談・報告している)の紹介で各方面の要人(軍では武藤章軍務局長ら)と面談した。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー郵政長官がいた。
翌年1月に帰国した両者はハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、覚書(日本側の意見のまとめ)を提出した。その内容は三国同盟破棄について、中国における停戦仲介、極東モンロー主義(近衛第3次声明)の承認、米国との経済関係の回復というものであったが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった。ウォーカーとウォルシュ、ドラウトの構想は日米協定を結ぶことにより日本政府内の穏健派を支持し、日本の政策を対独結合から引き離すことであった。モンロー主義の下、ルーズベルトは中立法(1932年)を成立させていたが、ドイツが初めた欧州戦争で英国支援に参戦したかったが、中立法の前にそうは簡単に行かなかった。また、参戦するについて出来れば、日本との2面戦争は避けたかった。日本側では中国との泥沼戦争を終結させるためには、武器や物資で蒋介石を支援していたアメリカとの関係を改善する必要があった。
交渉窓口に阿部内閣のとき外務大臣を勤めた野村吉三郎(アメリカ大使館付武官時代ルーズベルトらと親交を結ぶ)を駐米大使に任命した。これに、井川忠雄氏(外務省顧問という肩書)、日中戦争に詳しい軍関係者として岩畔豪雄軍務局課長が大使館付き武官として派遣された。4月16日に「日米諒解案」として一応のまとまり案が出来た。内容的には岩畔の主張がかなり盛り込まれていたが、あくまで叩き台としての試案であり、「なんらの拘束力もない」と断り書きがあった。
日米了解案
日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は蔣介石政権に和平を勧告する。A.中国の独立。 B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。 C.中国領土非併合。 D.非賠償。 E.中国の門戸開放方針の復活。 F.蔣介石政権と汪兆銘政権の合流。 G.中国への日本の集団的移民の自制。 H.満州国の承認。他、両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。
日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要資源の獲得に協力する。以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいてルーズベルト-近衛会談を行う。
直接の首脳会談がテーブルに乗ったのである。
近衛ら内閣メンバーは諒解案の「交渉試案」をという意味を、米国側の提案と当初履き違え、喜びに沸いた。東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務局長も大喜びであったという。外務大臣松岡は欧州(独逸・ソ連)訪問中であった。松岡がいない間に、「主義上賛成」の電報を打とうという動きになったが、結局は松岡外相の帰国を待ってからとなった。なお、『近衛手記』によれば、「大体受諾すべしとの論に傾いた」とのことだった。
詰まるところ、三国同盟問題と撤兵問題であった。中国からの撤兵問題については、交渉に前向きな軍務局でさえ撤兵に難の立場であり、日本人の経済活動保護の観点から駐兵は必要と考えていたことは、交渉の前途に影を落とすことになった。中国における日本の占領地経営の実体は、「進出した日本の大企業、中小資本を問わず、小売商人、大小の国策企業の職員の生活にいたるまで」、軍の保護がないと経済も生活もなりたない状態であった。このことが撤兵問題を困難なものにしたのであった。
また、アメリカ側が急いだのが三国同盟から日本を引き離すことなのだが、撤兵の約束無しに蒋介石との和平仲介は不可能であった。中国の独立とは記してあるが、満州国の承認、不承認は問題として挙がっていない。日支和平交渉の中でも満州は別枠で考えてもいいと蒋介石が態度を示した段階があった。アメリカは三国同盟から日本を引き離すことが最優先事項であったから、北支、中支からの撤兵で満州問題については黙認とするのが現実的であったろう。
帰国した松岡は自分のまったく関知しないルートの話であったことを知り、不機嫌になり、諒解案を取り合おうとはしなかった。彼は三国同盟に拘った。離脱も骨抜きも拒否。アメリカが参戦したら同盟国としての義務を果たすが信義とした。
5月12日、野村大使は、松岡外相による日米諒解案に対する修正案をハルに提示した。この修正案は外務省の公式提案となっており、ハルは「日米交渉の基礎はこの5月12日におかれた」としている。修正案は松岡流の強硬なものであった。ハルはこう感想を述べている。「もし日本を説得して三国同盟から脱退させるわずかの可能性でもありそうだったら、その目的だけを追求すべきだと考えたから、交渉を継続することにした」と。
松岡修正案への米側からの返事
1 日本は三国条約を欧州戦争に適用しない
2 満州国に関する友誼的交渉
*「友達として相手を大切に思う気持ち」・・ゆっくり、今回は棚上げにして進みませんか(黙認しても)と解すべきか。撤兵は満州を含まずと理解するのが現実的である。
3 中国問題については和平の基本条件(善隣友好、無併合、無賠償、無差別待遇の原則)による経済協力、日中間協定による速やかな撤兵、防共駐兵については今後の検討課題とすることなど)を前提として、大統領が蔣介石政権に日本と交渉するようサジェストする。
4 ハル四原則(上記括弧内)を踏まえ、日本の武力による南方進出を禁止する内容であった
野村大使がこの案を受け取った9時間後の6月22日、独ソ開戦のニュースがあり世界情勢は急変した。日本の3国同盟は独ソ不可侵条約があっての上でなされたものである。その意義は再検討されてしかるべきであった。
6月21日米国案のハル国務長官のオーラルステートメント(口頭文書)には、不幸にして日本の指導者の中にドイツ支持者がいると指摘し、名指しこそしていないものの、松岡外相がいる限り交渉はまとまらないことを意味するくだりがあった
7月16日、近衛は松岡を罷免させるため内閣を総辞職した。
7月23日 南仏進駐*の情報(日本は5月から検討に入っていた)を得たウェルズ国務次官は日米交渉の中止を野村大使に告げた。
7月24日 ルーズベルトの仏印中立提案(仏印から撤兵すれば、中・英・蘭・米の各政府はその中立を保章する。各国が自由公平に仏印の物資を入手する方法があれば尽力するとも述べている。
7月26日 在米日本資産の凍結
7月28日、日本南仏進駐。
8月1日 アメリカ、石油の全面禁輸措置
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に産油地帯の蘭印(インドネシア)を攻略するという選択肢が台頭することになる。そして、蘭印攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、当時米領だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、それは必然的に対米開戦を意味する。結果的に、南部仏印進駐と対日全面禁輸は太平洋戦争への岐路となった
南仏進駐の数日前にかつて幣原外交(協調外交)で名を売った元外務大臣、幣原喜重郎に近衛は面会し南仏進駐を告げた。幣原が「船を引き返せないか」と云うと、近衛は「御前会議で決定したことなので覆せない」と答えた。幣原は言った「それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」。近衛は「そんなことになりますか」と驚き「いろいろと軍とも意見を戦わし、暫く駐屯するというだけで、戦争ではない、こちらから働きかけることをしないということで、ようやく軍部を納得させ、ようやく話を纏めることが出来たのです。それではいけませんか」と云った。「それは絶対にいけません」と云うと、「近衛公は顔面やや蒼白となり」「何か他に方法がないでしょうか」と云った。幣原は「勅許を得て兵を引き返す他に方法はありません」と断言したが、これで話は打ち切りになってしまった。という幣原側の話がある。
8月4日 近衛は日米首脳会談の決意を東條陸相、及川古志郎海相に告げる。
近衛の意図は、昭和天皇から全権を委任されて、ルーズベルト大統領と直談判し、軍部を通り越して直接天皇の裁可を仰ぐことで事態を解決する腹だったとされる。
8月6日 ルーズベルトの仏印中立化提案に対する日本側の回答
A(日本政府の確約事項)日本は仏印以上に進駐しない、日中戦争解決後仏印から撤兵、フィリピンの中立を保障、東亜における米国の必要資源獲得に協力
B(米国政府の確約事項)米国は南西太平洋の軍備拡大中止、日本の蘭印資源獲得に協力、日米通商関係の復活、日中交渉の橋渡しと撤兵後の日本の仏印における特殊地位の承認。(日本はAするからアメリカはBしてね)
仏印以上に進駐しないというのは日本としては譲歩ではあるが、南仏印に駐留したままでは説得力に欠ける上、中立化どころか特殊的地位を求めたものであった。ハルは日本が征服の政策を捨てない限り、話し合いの余地はなく、大統領への回答としては不十分なものであるとした。
8月7日、近衛は昭和天皇から首脳会談を速やかに取り運ぶようとの督促を受け、野村大使に宛てルーズベルト大統領との首脳会談を提案するよう訓電した。
この時、ルーズベルト大統領はチャーチル英首相との大西洋会談に出かけていたため不在、ハルの返事は曖昧であった。この太平洋会談でアメリカは欧州戦の参戦を決め、日本との戦争も辞さずと決めたと語られている。また戦後の世界の在り方も話された。
8月17日、大西洋会談から戻ったルーズベルトは野村に対日警告を読み上げた。
「日本政府が武力ないし武力の威嚇によって隣接諸国を軍事的に支配しようとする政策または計画を捨てないのなら」「アメリカの安全を保障するために必要と思われる一切の手段を、直ちにとらざるをえないであろう」とした上で、首脳会談の提案には好意的で、ホノルルに行くのは無理だが、ジュノー(アラスカ)ではどうかと返事をした。
8月26日、近衛メッセージ「先ず両首脳直接会見して必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを、検討することが喫緊の必要事にして細目の如きは首脳会談後必要に応じ主務当局に交渉せしめて可なり」とのメッセージを発出した。28日に野村から「近衛メッセージ」を手交されたルーズベルトはこれを大いに賞賛し、3日ほど会談しようと述べた。
9月3日(米時間)、アメリカ側は覚書を手交し、首脳会談には原則的に賛成だが、協定の根本問題について予備会談を設けること、ハル四原則および6月21日米国案により討議を行うべきことを主張した。時を同じくして、日本側では新たな対米提案を検討しており(外務省案「日米交渉に関する件」)、
9月6日付日本案
仏印を基地として武力進出しない、北方(ソ連)に対しても正当な理由なしに軍事行動に訴えない
米国が欧州戦争に参戦した場合の三国同盟の解釈は、日本が自主的に決定する(独逸に拘束されない)。
支那における米国の経済的活動は公正な基礎において行われる限り、これを制限しない
日本は日支間の全面的正常関係の回復に努め、それが実現した後は日支間協定に従いできる限り速やかに撤兵する用意あり。
ハルは撤兵における「日支間協定」の内容や経済活動における「公正な基礎」を問題にした。曖昧な表現で交渉を切り抜けようとした外務省の目論見は外れたのであった。
9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した。しかし、10月2日のハル国務長官より手交された回答は原則論を崩さないもので、日米両政府があらかじめ了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとして実質的に拒否した。
近衛首相や豊田外相から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使*が、日米の危機を回避できる最後の機会だとして、ハルおよび国務省に具申を重ねたが、大使の進言はほぼ相手にされなかった。
1941年11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉におけるアメリカ側の提案を示した。それは「ハル・ノート」と言われており、日本にとって厳しい内容であった。「ハル・ノート」が最後通牒かどうか、アメリカ側が日本を戦争に誘い出す謀略だとか議論があるが。首脳会談が不可になった時点で戦争は不可避になったと解するべきである。アメリカは日本にかまうことなく欧州に参戦する決意を固めた。後は日本がどう決意するかだけとなった。
この時期、日本が日米戦争という破局を避けるには、海軍首脳が避戦の態度を明確にするか、陸軍首脳が中国本土からの撤兵を勇断するかのどちらかであった。
前者については、武藤軍務局長から富田健治内閣書記官長を介して海軍側に、戦争はできないと明言してほしい、そうすれば陸軍部内の主戦論を抑えるとの要請があった。また、富田も海軍の岡軍務局長と同道して、及川海相に戦争回避、交渉継続の意志を明言するよう下交渉を行っていたが、及川は軍の立場として戦争をできる、できないは言えないとして、あくまで「首相一任」の態度を取り続けたのであった。
後者については10月14日の閣議前、近衛首相は東条と会談し、撤兵・駐兵問題について再考を求めたが、東条はこれを拒否した。食い下がる近衛に東条は「弱気に過ぎやしませんか、性格の違いですな~」と答えたという。
閣議では持論を「興奮的態度で力説した」という。
東条の言葉、「撤兵問題は心臓だ。…米国の主張に其儘服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危くする。ひいて朝鮮にまで及ぶ。撤兵を交渉の看板とすれば軍は志気を失う」
近衛の言葉、「開戦に自信はありません。自信のある人にやって貰うしかない」
10月14日夜、閣議での東條陸相の発言により、近衛首相は総辞職を決意した。
こうなった以上、後継は東条しかなかった。木戸内府は後継に東条英機を奉じ、大命が降下した。東条は内閣総理大臣、陸軍大臣兼任、さらに参謀総長についた。散々論じて来た「統帥権干犯」「現役武官制度」を軽々と飛び越えたのである。その上に彼は憲兵隊を使って東条に反対する者は方端から逮捕した。五摂家近衛までは出来なかったが、尾行が付いたという。
東条は関東軍時代、関東憲兵隊司令官⇒関東軍参謀長であった。憲兵隊司令官の時代の副官四方諒二を憲兵司令部本部長兼東京憲兵隊長として配下に置いた。東条の『憲兵政治』である。東条で最も嫌われたのがこれである。反東条の吉田茂は憲兵隊に逮捕された(4日で釈放)ことで、戦後追放を免れ、同じ反東条であった鳩山は追放になり、吉田は首相になった。皮肉なものである。
天皇は東条にも和平の道があるなら、最後までその道をと述べたが、何らかのアメリカとのやり取り交渉はあったようだが、語るに値しない。開戦理由、中国からの撤兵は出来ない。石油の備蓄が多くても2年で、時日の経過とともに戦争遂行能力が低下する。座して待たず!
戦況不利になり近衛グループや吉田茂らの東条降ろしがあり、その後小磯内閣、鈴木貫太郎内閣と続き終戦を迎えるのであった。鈴木貫太郎は宮内侍従長として天皇に長く仕え、あの2,26事件で重傷を負いながら一命を取りとめた人物である。重ねて大役を辞退したが、「お前しかもういないのだよ」と、天皇は言ったと伝えられている。
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