第10話 近衛第2次・3次内閣と新党運動


 第1次内閣の時、近衛は思うようなメンバーで内閣は組めなかった。「次やる時は僕のやりたいようにやる」と言っていた。

 内閣の顔ぶれは、外務大臣松岡洋右(外務省―満鉄―代議士―満鉄総裁)と陸軍大臣・東条英機が注目である。自信がないと云った経済に商工大臣として財界から小林一三(阪急東宝グループ)を起用している。小林は自由経済派、統制経済の次官岸信介と衝突して途中で辞めている。近衛は農村問題に関心があると前に記したが、農林大臣に農林省官僚石黒忠篤を起用した。彼は小作料の金納化や自作農創設に熱意を持っていた。彼の育てた官僚たちが戦後の農地改革に貢献した。また民生の重要性を主張して厚生省を発足させたのは近衛(第1次内閣)である。ここに彼の誠実さを私は見るのである。動乱でなく平時の宰相としてなら優れた評価を貰えたのかも知れない。


 陸軍大臣東条は陸軍が推して来た以上は仕方がない面があるが、なぜ、全権大使ではあったが、国際連盟を独断で脱退した松岡を外務大臣に起用したのか、松岡のような野人なら軍部と対抗できるかも知れないと考えたようである。「毒を以て毒を制す」の近衛論である。この毒は近衛の日米交渉をぶっ壊すという猛毒であった。彼を辞めさせるために一旦総辞職して再組閣するのが第3次内閣であるから2次、3次は一つの内閣と見た方がよい。後任の外務大臣には2次内閣で商工大臣を勤めた海軍大将の豊田貞次郎を横滑りさせた。それ以外はほとんど変わらない。

 

 三国同盟に慎重だった米内内閣の後を受け継いだ近衛は外務松岡・陸軍東条・海軍大臣4者で、組閣翌日に近衛邸で日独伊枢軸国強化を早々に確認している。ドイツは破竹の勢いをもって西ヨーロッパを席捲し、陸軍を中心に一部国民の間にまさに沸騰点に達しと、手記の中で記している。

 7月24日に近衛はラジオ放送をした。聞いた西園寺は「言うことは大体わかるが、内容は実にパラドックスに充ちていたように思う、マーうまくやってくれたらと思う」と言っている。そもそも独英戦争下アメリカが英国を支援しつつある中で、日独伊枢軸を強化しながら日米関係を維持しようと云うのだから、この内閣の骨格は「パラドックス」に充ちていた。


 9月27日、日独伊三国同盟は正式に成立した。ドイツ側の狙いは、日本をしてアメリカをけん制して、アメリカの参戦を阻止することであった。日本は中国を支援しているアメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。また、ドイツの進撃で空白状態になった英仏蘭の植民地への進出を、事前にドイツに了解させる意図もあった。

 最初の日独防共協定(伊は後から加入)は対ソのものであったが、独ソ不可侵条約が結ばれている状況下では、三国同盟は対英米のものとなることを意味する。不思議なのはヒットラーの『我が闘争』を読めば、「ドイツの生存権は東方にあり」とヒットラーは明記している。ナチスは必ずソ連に向かうのは自明のことだとは思わなかったのだろうか。独ソの手打ちは、独に取っては対仏進撃の為、ソ連は対独戦準備のための時間稼ぎでしかない。社会主義にもナチスにも詳しい筈の近衛にしては不思議である。近衛の国家や経済についての考えはナチス流の統制国家体制に近いものであった。


近衛の新党運動

 何回読んでも分かりにくかったのがこの運動についてであった。

近衛は首相を辞した後、枢密院議長についていた。「僕は新党を作って国民的背景を持ちたいと思う。第1次内閣の弱体は、超然内閣で、基盤を持っていなかった点にある。だから今度は今からその計画を進めて、よろず遺憾なきを期したいと思う」。その反省や良し!ヒットラーだって、ナチ党を率いて選挙で政権を取ったのである。政権を取ったら全権委任の総統となって、議会と憲法を廃止してしまったが・・。

 国民的な人気のある近衛が新党を作れば、行き詰まっている既成政党は雪崩を打って流れ込むだろう。一党に集約されるかもしれない。それでもって、軍に立ち向かうと私は思ったのだ。近衛側近の風見章はそれに対して『新体制』というキャッチフレーズを作ったのである。一時はこれが市井の中で、「いつまでも旧態依然ではいかぬ、新体制で行かんと!」と大流行りしたのである。しかし新体制が如何なるものか、当事者にも分からぬままに事態は急速に進んでいく。


 以外や陸軍が近衛の新党運動に興味を持って接近してきたのである。その中心が軍務局長武藤章であった。武藤は陸軍の政治力に疑問を持っていた。「林内閣、阿部内閣を見てもそれが分かる」であった。米内のような海軍内閣にも賛成出来なかった。それならば近衛しかいないではないか。阿部内閣に先が見えた時、近衛に再出馬を薦めている。武藤章は強力内閣による日中戦争の解決であった。それを支える強力政党が近衛新党であった。軍は成立には関わるが、出来たものには参加はしない。軍の政治活動に否定的なのが武藤であった。

 近衛の側近グループの考えは、既存政党の上に乗る近衛は考えていなかった。既存政党を一旦解体させて、国民組織(各種職能組織=青年運動組織・婦人団・農業団体・経済団体・革新官僚等々)の革新的部分を包括した翼賛組織、在郷軍人会も軍人個人の参加も可であった。私はさっぱり?である。


 政権を持ったことのあるかつての民政党、政友党の既成政党も生き残りをかけて近衛のこの新党に乗ろうとしていた。「バスに乗り遅れるな」である。彼らは一種の「政界再編運動」と捉えていて、当然既存政党グループが中心的役割を担うべきであると考える。既成政党は近衛の思惑とは別に解党を決め、近衛新党に移ろうとした。一部にはそのような一党的な動きを批判する議員たちも当然存在したが…。

 近衛が一番堪えたのが、観念右翼(平沼騏一郎ら伝統的右翼)グループからの批判、「幕府」批判であった。彼らには、新体制運動は「政治運動」ではなく、尊王絶対の「精神運動」であるべきと考えていた。帝国憲法に規定されない新体制なるものが政治的実践機関となるならば、それは一種の「幕府」であり、天皇を祭り上げ、大権を侵害するものであるとした。

 

 昭和15年6月24日近衛は「新体制確立運動」に微力を尽くすため枢密院議長を辞した。しかし事態は近衛に時間を与えてくれなかった。米内内閣が思いのほか早く7月22日に総辞職して、近衛に大命が降下したのである。新体制・新党の考えが纏まらないまま首相の座についたのである。

 政権中枢に立ったのであるから、上からの新党運動はやりにくいものになるのは当然であった。新党は新体制になり、政治活動も取り去り、政府の翼賛組織となり、議員活動はその組織の一極を担う役割になり、地方組織支部を作る段階になって、内務省が乗り出して来て上意下達の組織となって、東条の戦時遂行組織になったのである。これが私なりの精一杯の理解である。


 それでも、昭和15年10月12日大政翼賛会発会式が行われた。総裁は首相近衛文麿、近衛の口から表明された新体制像は、宣言も綱領も持たない「臣民実践」の精神運動であったからである。それぞれのグループは近衛の表明をどう受け取ったのだろうか?

 近衛のウイングが広い故、それぞれが、それぞれの思惑を持って、閉塞感から抜け出そうとしたのは分かるが、明治以来、自由民権で、ここまで来た政党が、新体制運動というブームにより解党という雪崩現象を起こしたことはどう理解したらいいのだろうか?近衛の手にかかると何もかもが胡散霧散する感じを受けるは私だけだろうか?

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