第8話 第1次近衛内閣



外務大臣・広田弘毅 陸軍大臣・杉山元 海軍大臣・米内正光 大蔵大臣・賀屋興宣(大蔵官僚) 農林大臣・有馬頼寧(競馬有馬記念の伯爵)内閣書記官長(今の官房長官みたいなもの)・風見章(朝日新聞記者)、文部大臣安井英二⇒木戸幸一(厚生大臣兼務)、政党からは逓信大臣(民政党)、鉄道大臣(政友会)の2名だけである。ハプニング人事は近衛の研究会のメンバーであったが、野人風間章の起用であった。驚きを持って向かえられた。情報・広報担当の腕を買ったと思われる。

 内務大臣:馬場鍈一(大蔵省)病気⇒末次信正(海軍大将)ロンドン軍縮会議では艦隊派であった。この人事には、近衛や木戸は末次を支援する右翼団体や国粋主義者を取り込み安定した政治基盤を築く意図があった。近衛は毒で毒を制するというこういう人事をやる癖があった。しかし近衛や木戸幸一には末次を制御することはできなかった。日中戦争終結を目指したトラウトマン工作の拒絶であり、「蔣介石を対手とせず」という近衛声明を出すよう主張したのである。

 

 支邦事変解決が上手く行かない中、昭和13年5月26日内閣強化を図って内閣改造を行った。

改造内閣:外務大臣広田に代えて宇垣一成(陸軍大将)、陸軍大臣杉山元に代えて板垣征四郎(関東軍参謀長)、内務大臣・末次信正(海軍大将)、新たに大蔵大臣・商工大臣兼務に池田成彬(三井財閥の総師)、文部大臣・荒木貞夫(陸軍大将・皇統派)、木戸幸一は厚生大臣のみ。目的は杉山元陸相の更迭であった。


 首相になって1か月、北支事変の発端となった盧溝橋事件が起きた。1937年(昭和11年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射された。それが発端だった。翌日両現地軍が盧溝橋を挟んで衝突した。参謀本部も、政府も不拡大、現地解決を指示した。4日後、現地軍の間で停戦協定が結ばれたのだが、近衛内閣は不拡大方針とともに、この盧溝橋事件を「北支事変」と呼称して増派を決定した。この強硬姿勢について石井猪太郎外務省東亜局長は官邸に行くと気勢が挙っていた。「事件あるごとに政府はいつも後手に回り、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、返って軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近(風見章を指す)の考えからだろうが」としたうえで「冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ」と断じた。

 政府の強硬姿勢は中国側の強硬姿勢を呼び、野獣、軍は我が意を得たりと行動を起こし、8月、第二上海事変に及び戦線は全面戦争の様相を呈するに至った。


 事の進展の早さに驚いたが、近衛はただ手をこまねいていた訳ではない。参謀本部作戦部長石原莞爾が、近衛が直接南京に乗り込んで早期解決(蒋介石と直談判)を図るべきだと進言したのである。「火の手は、大火にならないうち、早いうちに消すに限ります。私も同行致します!」と、近衛は「事を起こした(満州事変)人が云うのだから確かだろう」と云ったかどうかは別にして、大乗り気であった。

 内閣書記官長風見章は、本来なら陸軍大臣、次官から提言されるべきことが、作戦部長の石原から来ていることに、参謀本部の不統一を見たのである。「見合す」になったのである。


 次に孫文とも親交のあった中国浪人秋山定輔と図って、宮崎滔天(辛亥革命を支援した)の息子宮崎竜介を南京に送り込もうとしたが、軍の手が回り憲兵隊がスパイ容疑で宮崎を逮捕してしまった。

 日本軍の攻勢が続き、12月には首都南京を占領した。蒋介石政権は重慶に移った。こうした有利な中で和平を結ぼうとドイツ駐日大使トラウトマンを介した和平工作を行った。ドイツは国民政府に軍事顧問団を送っていた。占領地に親日政権を作る動きの中での交渉はもう一つ積極的でもなく、出される条件は相手にとって益々高いものとなっていた。秘密裏の和平工作が漏れ出して工作自身が弱気と捉えかねないとこれを打ち切る。


 近衛は無気力とばかりは決めつけられない。内閣を強化すると云う方針で内閣改造を図った。最大の狙いは、拡大強硬派の杉山元陸相の更迭であった。軍人事に政府が手を出すことが如何に難しいかは今まで見て来た通りである。ことは用意周到に進められ、最後は飾りと思われていた参謀総長・閑院宮載仁親王元帥に杉山陸相は辞職を勧告されたのである。杉山陸相は「気が付けば包囲されてしまっていた」と悔しがった。宮様に云われると逆らえない。多分天皇の「近衛のし易いようにしてやれ」の応援があったのだろう。近衛にしては中々の執念であった。

 後任大臣に関東軍参謀長の板垣征四郎を起用した。石原莞爾と満州事変を起こしたあの板垣である。石原と同じ不拡大方針の満州組を買ったのである。しかし、近衛は直ぐに失望する。この更迭人事で昇格した東条英機が次官となっていたのである。板垣は東条のロボットでしかなかった。


 この改造内閣のメンバーを見て、読者は外相宇垣一成に期待されたのではないだろうか。流産後も事あるごとに首班候補に彼の名前は上がっていた。強力コンビだと私も思ったのである。宇垣の提案もあって、トラウトマン和平交渉打ち切り時に出した「国民政府を対手とせず」声明を近衛は取り消したのである。

 宇垣は英国ルートを使って有利な条件を引き出したのであるが、板垣陸相が「蒋介石の下野」を付け加えることを要求しこれは頓挫した。また占領地を一括監督する機関として興亜院が設置された。これは外務省の権限を縮小するものであった。この二つが不満となったのだろうが、宇垣は何も言わず、突然辞任を申し出た。近衛は驚いたが引き止めもしなかった。秘書の原田熊雄からそれを聞いた西園寺は「多分、近衛が嫌ったのだろう」と答えたという。

 宇垣は戦後、この件については、興亜院は首相が総裁を務めるとしたが、要職には軍が関与した。反対に固執すると内閣の瓦解に繋がるから何も言わなかったと答えている。


 最後は汪兆銘*の重慶引き出し工作である。孫文の側近として活躍、中国国民党副総裁、NO,2の地位にあった。国共合作・徹底抗戦の蒋介石(総裁)とは意見を異にしていた。日本側は両者の分裂を誘い、共産党から国民政府を引き離し、和平工作を進めようとする意図であった。汪兆銘重慶脱出成功に合わせて出された近衛第3次声明*は、2年以内の撤兵を含め(汪兆銘にはその旨を述べたが声明には期限は記されなかった)、賠償も求めないという踏み込んだものであった。ただ、汪兆銘に続くと見られた大物人物も重慶から出ることもなく、汪兆銘の勢力を日本側は見誤ったのである。日本側は既に出来ていた占領地政府と統合させて汪兆銘政府を南京に作ることにしたのである。

声明を出した後、近衛は辞意を漏らした。周囲は汪兆銘を引き出した段階で無責任だと遺留したが、近衛の意思は固かった。


 もう一つ近衛を苦しめていたのが、日独伊の三国同盟の問題であった。日独伊の防共協定を軍事同盟に発展させることをドイツが求めて来たのである。防共協定はソ連を対象としたものであったが、英仏を含めたものとすることに閣内の意見は割れて、会議を重ねても結論が出せないでいた。かくて近衛内閣は総辞職を選択する。次の組閣大命は貴族院議長平沼騏一郎に降りた。


 第一次近衛内閣で成立したものに国家総動員法がある。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものである。着々と戦時体制が整っていくのである。


注:近衛の3声明 第一声明は「対手に非ず」声明、第二声明は「東亜新秩序の建設」声明、第三次声明は「日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携(近衛の3原則)の実を挙げんとするものである。之が為には支那は先づ何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して抗日の愚と満洲国に対する拘泥の情とを一擲することが必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めんことを率直に要望するものである」。

中国本土内に領土的野心はない、満州国を認めて、共同で共産主義に対抗し、日満支三国が力を合わせて東亜新秩序を作りましょう。平和的解決が付いた時には撤兵しましょう。賠償は求めません。不平等条約は平等に、租界は返還します。という事だろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る