第7話 組閣するまでの近衛について



 五摂家筆頭である近衛家は天皇家に次ぐ人臣最高の家格を誇る。その当主である文麿は、アジア主義者として知られた篤麿*の嫡男として1891年(明治24)に生まれた。天皇より10歳上である。『近衛文麿』伝とされる著名な著者矢部貞次(東京帝国大教授で近衛のブレーンでもあった法学者)を読んだが、妹武子によると妹弟にも優しく信頼できる兄であったことが記されている。小学校・中学校は学習院で学んでいる。成績もごく優等でもなければ劣等でもない。しかし級友からは信頼できる存在であった。作文を得意として幾何や数学を苦手として文系よりであった。他の生徒のようにそのまま学習院高等科に進まず、一高文科に入学したのは校長の教養主義で知られる新戸部稲造に惹かれてであった。卒業後東京帝国大学哲学科に席を置いたが、間もなく京都帝国大学法科に転じた。社会問題に興味を持ち、マルクス経済学者河上肇に師事するためであった。ここで木戸幸一*(後の内府大臣)、原田熊雄*(西園寺公望私設秘書)らと交友を結び、後々まで近衛のブレーンとなる。在学中に毛利高範の娘・千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。通学途中の電車の中で近衛が見染めたという。

 首相を辞職した西園寺公望が1913年(大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家(公家に成れる家柄)であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしたと記している。


貴族院時代の近衛

 大正5年には貴族院議員、1933年(昭和8年)には、同議長に就任している。貴族院の最大会派「研究会」には批判的で、別に「憲法研究会」を作っている。議長時代は民意優先の考えで衆議院には干渉せず、衆院優先の考えで法案を通す姿勢であった。「研究会」は子爵議員を中心に侯爵・伯爵・男爵・勅選・多額納税議員から幅広い構成員を持っていた。特に会の中心となったのは子爵・男爵の互選議員だった。


パリ講和会議(1919年1月~6月・ベルサイユ条約となる、32か国出席)に随行。

西園寺全権大使に特別に随行メンバーに入れて貰う。西園寺は病気のため遅れて出席、先遣の牧野内府らのグループが実質を制した。近衛は講和会議の所感をこのように纏めている。

(1)国際政治は力によって動かされており、英米はじめ大国は横暴である。(2)秘密外交から国民公開の外交へと時代転換が行われている。プロパガンダ(大衆に向けた宣伝)が重要となる。日本の外交は遅れている。外交官の採用範囲の拡大と研修教育が重要である。(3)国際的地位が上昇した日本はこれから多くの国際問題に関与せざるを得なくなるので世界的知識の涵養が必要である。


日本は実質的な国際会議の初参加となった。大国としての参加でアジアの代表としての期待も込められていたがほとんどサイレントアンサーで自国のことを述べるに留まった。21か条の要求は中国との合意部分は認められた。日本が国際的なことで唯一提案したのが、国際連盟規約の中に「人種差別の撤廃事項」であった。英米を中心にした反対で多数決を取れなかった。アメリカが反対したのは、国内で日本人移民(アジア系移民)への反発が強まっていた国内事情による。イギリスはイギリス連邦の一員であるオーストラリアが白豪主義を取っていたためである。また日本そのものがこのとき朝鮮での三・一独立運動、中国での五・四運動で民族自決の権利を奪い、日本人も朝鮮人や中国人に対する差別的な優越感を隠そうとしていなかったので、その提案は欺瞞的であると受けとられた。


 出発前に出した近衛の論文『英米本位の平和主義を排す』の現状をこの会議出席で追認したのである。27歳にして書いた『英米本位の平和主義を排す』の出だしの文はこうである。

「ウイルソンの言うような民主化・平等化は不可避だが、国内の民主化が言われるのならば国際的な各国民の平等的生存権が考えられるべきであり、英米は自国の生存に必要な資源をすでに確保しておきながら移民制限などで各国の発展を妨害しているのであって、こうした不平等な現状維持のために唱えられる平和主義は利己主義の隠蔽に過ぎない、日本は英米に盲従することなく人種差別撤廃などを要求すべきである」。

 またウイルソンが提案した「民族自決の大原則」は、この会議で独立を達成したのは旧オーストリア帝国やロシア帝国から独立した東ヨーロッパ諸国であり、アジアやアフリカの諸民族の民族自決はかけ声のみで終わった。


国際連盟について、国際連盟理事・近衛の講演1921(大正11)年


 国際連盟の規約に立ち会ったものとして、国際関係を律するに「暴力を以てせずして正義以てせんとする」の精神は永久に深く了解すべきことである。19世紀から20世紀にかけて欧米列強の帝国主義的侵略主義を経験して「人を見れば泥棒と思え」という警戒心を植え付けられたが、日露戦争後は「今度は人が泥棒したのだから、己も泥棒してよい」という方針になってしまった。日本の軍国主義、侵略主義は、日露戦争後20年間極東の舞台を事実上支配して、その結果は今日のごとき八方塞がり、世界的孤立の状態を誘致するに至った。パリの平和会議における日本への非難に対して、『日本は決して侵略主義の国にあらず』と断言し得るものは一人もなかった。私は国民の国際関係に対する思想が今日の如き状態であるのに乗じ、強熱的な偏狭なる所謂愛国者、憂国家が、これを扇動するような場合を想像してみますと、誠に慄然たらざるを得ぬ」だからこそ国連の精神を広く一般人に理解体得せしめることが大切なのである。

 大正期の近衛は軍国主義・偏狭な国粋主義を批判する自由主義者で国際協調主義に思えるのだが・・第3次内閣に於いて全権大使として国連脱退をした松岡祐介を外務大臣に起用しているのは如何!


昭和研究会の発足

 1933年(昭和8)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助*らにより昭和研究会が創設された。この研究会は政治・経済から文化まで幅広く、当時の新進気鋭の若手学者から政治家、官僚、ジャーナリスト、財界人と、左右を問わずそのメンバーの多彩に驚かされる。戦後も活躍し人材が多い、私の名前を知る範囲で列してみる(・・)内は戦後の役職も含む。

三木清(『人生論ノート』の哲学者)、笠信太郎(ジャーナリスト)、東畑精一(農業経済学者)、矢部貞治(東京帝国大学・法学者)、中山伊知朗(戦後、中労委委委員長)、清水幾多郎(社会学者)、牛場信彦(福田内閣時の海外担当経済相)宇都宮徳馬、賀屋興宣(自民党議員)、特筆すべきは当時東洋経済新報主筆で戦後岸首相前の内閣総理大臣になった石橋湛山。また企画院事件で逮捕される稲葉秀三(産経新聞社長)、勝間田清一(社会党委員長)、和田博雄(戦後農地改革の農林大臣⇒社会党副委員長)らの新官僚が参加している。後にゾルゲ事件*において、ソ連のスパイとして絞首刑に処せられる尾崎秀実(朝日新聞記者)もメンバーの一人であった。


 後藤隆之介は昭和恐慌の中で窮乏する農村救済を元学友(一高・京都帝国大学)の近衛文麿に訴え「昭和研究会」を発足(志賀直方の支援*)、「憲法の枠内での改革」「既成政党反対」を掲げた。当初は近衛を囲む私的勉強会の色合いが強く、組織と呼べるような形態にはなっていなかった。1936年(昭和11)に入って近衛が首相候補として浮上してくると、正式な団体としての結成が行われ、設立趣意書が発表された。その事業要綱には「非常時局を円滑に収拾し、わが国力の充実発展を期するため、外交、国防、経済、社会、教育、行政等の各分野にわたり、刷新の方策を調査研究する」ことを謳った。各部会ごとに専門委員会や研究会が組織されて各界のメンバーが調査研究にあたった。これは近衛文麿(後に近衛内閣)に答申された他、一般向けの書籍の形でも公開された。東亜協同体論や新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による「東亜新秩序」・「大政翼賛会」に大きな影響を与えることとなる。大政翼賛会に発展的に解消するという名目によって1940年11月に解散した。


近衛の訪米

 1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し(子息文隆*の卒業式参列、私的なものとした)、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。日本人移民排斥については人口問題を挙げて理解を求めている。近衛公は半年の滞在でアメリカの何を知りたるや。私的とは云うが、横浜には首相はじめ錚々たるメンバーが盛大に見送った。

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