第6話 昭和10年代の内閣・近衛登場まで



広田広毅内閣(挙国一致)外務官僚 1936年(昭和11)3月~37年2月


 岡田啓介首相は無事だった(義弟が間違って殺害された)が事件の責任を取る形で辞した。事件後の大変な政権を任せるべく西園寺が推したのが近衛文麿で、大命が降下した。近衛は健康を理由に大命を辞退した。近衛は皇統派にシンパシーを感じていた。考え方も、農村問題を含め、対支邦不拡大の皇統派に近かった。3月荒木貞夫陸軍大臣に「自分は大命を受けても、もう陸軍に相談するような人がいない」と言っている。クーデターが失敗した以上、皇統派が衰退するのは目に見えており、しかも事件の処理までしなければならないのである。受けなかったのは当然と云える。代わって大命が降下したのが岡田内閣で外務大臣だった広田広毅であった。

 組閣にあたって陸軍(武藤章軍務局長)から閣僚人事に関して注文がついた。特に問題になったのが外相予定の吉田茂であった。吉田は英米派で自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退(英国大使になる)して、広田が外務大臣を兼任(途中から有田八郎が就く)することになった。戦後の彼を知るものにとっては、吉田外相であったらどうなっていたかと興味を曳くところである。


 国会で問題となったのが「割腹問答」であった。昭和12年1月、議会で政友会のベテラン議員浜田国松が痛烈な軍部批判を行った。寺内寿一陸相は答弁に立って「軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉」と険しい表情で反駁。ところが浜田が2度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、寺内は「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は3度目の登壇で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。場内からは拍手が湧く。これに寺内は激怒、寺内は広田に衆議院解散を要求、しかし政党出身の4閣僚がこれに反対し、海軍大臣・永野修身も解散には否定的であった。このため広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った。

 軍部大臣現役武官制を復活させ、日独防共協定を結ぶなど、軍部に押されぱっなしの感があった広田内閣であった。


軍部大臣現役武官制

軍部大臣(陸軍・海軍大臣)の就任資格を現役の大将・中将に限定する制度である。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役軍人にも就任資格がないのが原則であった。1913年(大2)山本権兵衛内閣から1936年(昭和11)の広田内閣前まで予備役や後備役の将官にも就任資格あることになった。西園寺第2次内閣のとき師団削減に抵抗した軍部が現役武官制を盾にして、怒った西園寺が内閣を投げ出したことがあった。その反省の上に立った処置であった。ところが広田内閣の時、軍部は現役武官制に戻すことを強要した。2・26事件で追放した予備役の者たちが戻って来ないためと云われては仕方なかった。


これに泣いたのが宇垣一成であった(宇垣流産内閣)。

後任の陸軍大臣を出すには、陸軍大臣・参謀総長・教育総監本部長の三者(三長官会議)で決められることになっていた。また宇垣に軍縮をされては堪らない、寺内陸相、西尾参謀次長、杉山元教育総監は出すべき人物はおらずと回答。このとき予備役者なら軍の拘束からも自由で候補者も存在した。宇垣は天皇に候補者を出すよう勅命を願うため奏上に上がった。制度上内府を通さなければと思った。湯浅倉平内府は「ご無理なさらずとも」と天皇に優詔を願う考えはないことを伝えた。天皇を軍とのトラブルに巻き込むことを避けたのであろう。これは推測であるが侍従武官長を通じて「ことが起こっては・・」と云われていたらと想像するのである。軍が絶対阻止ならそれぐらいの事はするであろう。「おおみこころを奉り」と言うけれど、天皇の意思などこの程度に扱われるのである。後で宇垣が法学者に問うと、「大命が下りた以上直接会われて当然」と答えられて切歯扼腕したという。


内閣で軍部の意見が通らなければ、陸軍大事は辞めるといい、代わりを出さなければ、内閣不一致で内閣は総辞職に追い込まれる。続けたければ聞くしかない。帝国憲法では首相に大臣の罷免権はない。これを広田内閣の人事干渉にも使い、この後の内閣でも使って内閣を追い詰めるのである。


林銑十郎内閣(挙国一致)陸軍大将1937年(昭和12)2月~6月


 あの無断で満州に朝鮮軍派兵した朝鮮軍司令官だった林である。2・26事件の時の陸相で責任取って予備役編入になって1年ではないか!「何もせんじゅうろう」と揶揄されて4か月で辞職した。広田内閣が瓦解した後、大命が降下したのは予備役陸軍大将の宇垣一成だったが軍部によって阻止されたのは既に書いた。このため、あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下したのである。林内閣は貴族院ではかろうじて研究会(貴族院主流会派)の支持を取り付けたものの、結局衆議院で与党に回ったのは昭和会と国民同盟の閣外協力のみで、両党あわせても35議席を占めるに過ぎなかった。

 少数実力内閣を標榜して政府政務官をなくしてしまった。政務官ポストに多くを送り込んでいた政友会、民政党両党にそっぽを向かれたのは当然である。昭和12年度予算が可決されると、林は直ちに二大政党への懲罰的な意図を込めて衆議院を解散した(「食い逃げ解散」)。こうして4月に行われた総選挙では与党勢力の躍進を期待した林の思惑とは裏腹に昭和会・国民同盟はいずれも議席を減らす結果となった。それでも林は強気の姿勢を崩さず、再度の解散をちらつかせながら政権維持を明言したが、これが倒閣運動に火に油を注ぐこととなり、結局四面楚歌となる中、5月31日林はついに全閣僚の辞表をとりまとめて奉呈した。

 こうして、いよいよ近衛内閣の登場となるのである

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