第5話 陸軍派閥抗争について

どこにも派閥はあり、派閥争いはある。それが権力を巡る争いである時は熾烈を極める。軍・武力集団の場合は暴発した時、国の運命を危める!


宇垣派:政党政治を容認し、内閣にも協力する。軍縮要望には協力するが自ら削減した分は政府には返還せずその分を軍備の近代化に使う。

皇統派:政党は腐敗せるもの、よって議会は不要、天皇親政の軍事政権を作るに直接行動も辞さず。

統制派:皇統派の行動主義に対抗し、権力拡大、予算獲得のため、つねに主戦論・強硬論を唱えて軍国主義化を推進。政党政治を糾弾し議会を弱体化、内閣に圧力をかけ実質支配することによって軍政を行うとしたグループ。杉山元、東条英機・武藤昭・林銑十郎らが挙げられる。

他に石原莞爾中将(参謀本部次長)を筆頭にする満州組と呼ばれるグループが挙げられる。対ソ戦想定して北の防衛重視、対支邦不拡大は皇統派と共通する。もって満州国経営に専念し国力をつけ、将来英米に対抗する路線である。統制派天下の下、石原も参謀本部から満州に飛ばされた。


宇垣一成は大正13年の清浦内閣・加藤公明内閣・第一次若槻内閣、浜口内閣(昭和6年4月)まで田中義一内閣(S2/4~S4/7)の期間を除けて4つの内閣の陸軍大臣を務めた。宇垣閥は隆盛を極めた。ただ宇垣軍縮で陸軍内部から批判する勢力が台頭してきた。宇垣閥凋落の致命傷となったのが3月事件(別紙参照クーデター計画)である。首班に宇垣陸軍大臣を担ごうとしたとされ、その関係が取り沙汰され、事件後辞して朝鮮総督に転じている。


宇垣派に代わって、陸軍大学卒の派閥が出来る。皇統派と統制派である。

統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の対支邦一激論、「総力戦に勝ち抜くには、国家総動員体制により高度国防国家を建設しドイツのヒットラー・ナチスと連携する。世界は日本を含む4つのグループになると想定、アメリカ、英国、ソ連、などとの長期持久戦を勝ち抜くためには支那大陸の資源が不可欠である」とする。

これに対して教育総監真崎仁三郎*は「戦争は我が国の国防上、已むを得ざる場合のみ、我が国一国のみで戦って勝てる戦争以外はやってはならない。永田構想は終始不能な全面戦争に突入する危険性をはらんでいる」とした。「統制派幕僚の将棋の駒として使い捨てにされる(前線で戦うのは隊付きの中尉クラスの青年将校らである)」と不満を強めた青年将校らが真崎に急接近して皇統派と呼ばれるようになった。また疲弊する農村、堕落せる政党政治、貪欲な財閥、旧弊な元老、宮中グループを排して天皇親政の昭和維新を実行するという考え方、それが2・21事件となる。


相沢事件

荒木貞夫大将(犬養政権陸相)―真崎教育総監の線は皇統派である。荒木の人事ぶりは凄まじく、「清盛の専横」と呼ばれた。その配下の小幡敏四郎(陸軍中将)は「日本陸軍の戦力ではソ連軍の満州侵攻を防ぐのが精一杯なので対ソ戦備に全力を投じ支邦とは手を結ぶべきである」と永田に反論出来る皇統派の理論家であった。対支邦拡大、不拡大の戦略方針の違いだけでなく、人事も絡み両派の確執は壮絶を極めた。その表れが相沢事件である。1935(昭和10)年 8月に、皇統派の真崎教育総監の更迭に端を発し、皇統派一掃を考えた統制派に義憤を感じた相沢三郎中佐が、 統制派の永田田鉄山少将を陸軍省内において白昼斬殺した事件である。この事件によって真崎は教育総監を罷免され左遷(軍事参議官になる)、相沢三郎中佐は軍法会議に、皇統派の将校の中心部隊を満州に飛ばす処置が検討され、追い詰められた皇統派青年将校達は行動を起こした。これが2・26事件である。単に政治的な腐敗・農村の貧困等に義憤を感じただけの蹶起ではなかったのである。


事件によって、陸軍省首脳は全員辞任、皇族以外の大将は全員いなくなった。しかし軍事参議官全員が辞任すると執行部が組めないので、寺内寿一を陸軍大臣、西義一を教育総監とし残した。荒木貞夫・真崎甚三郎、林銑十郎陸軍大臣、川島義之大将は予備役に編入、皇統派の論客・小畑敏四郎中将も予備役編入。3000人に及ぶ大人事異動による粛軍で皇統派は一掃された。3月に少将に進み、軍務局長となった統制派ニューリーダー武藤章は後継広田内閣の組閣に未曾有の干渉をすることになる。


*陸軍資料

階級:将官(大将・中将・少将)、佐官(大佐・中佐・少佐)、尉官(大尉、中尉、少尉)の順で、将校(士官)はこの階級を差す。青年将校と云う場合、尉官クラスを指し、連隊長となり戦線の前線に立つ。2,26事件の首謀者はほとんどが中尉、少尉であった。


予備役:現役でなくて民間資格であるが、有事の際や訓練の時には軍隊に招集を受ける。階級は元の階級である。政治活動をするために政党に入る場合等は退官して予備役となる(田中義一の例)。現役では総理大臣になれないので予備役になる(岡田啓介の例)。宇垣一成は予備役となって朝鮮総督になった。総督府は軍組織ではなく政府組織である。軍人は、原則政治活動は出来ない。陸軍大臣が内閣の一員になることはこの限りではない。でも、本を読んでおれば、「大日本帝国改造計画」とかまるで武力を持った政治集団そのものであるように思えた。


陸軍組織

陸軍省・参謀本部・教育総監部の3つの官衙(役所)が設けられており、陸軍大臣(陸軍省)が軍政・人事を、参謀総長(参謀本部)が軍令・作戦・動員を、教育総監(教育総監部)が教育を担う。海軍は参謀本部に相当する部署を軍令部(総長)と云っていた。                      


トップスリー(三長官):陸軍大臣・参謀総長・教育総監。次の陸軍大臣の推薦指名はこの三官会議で決められた。大将・中将から選ばれる。陸軍大臣―次官―軍務局長の順で特に昭和期の軍務局長は、全ての官僚機構の中で最も大きな権勢を誇ったポストとされる。統帥部は参謀総長―参謀次長の順で総長が閑院宮載仁親王の時は実質次長が職権を担った。


師団:平時から常備されていた部隊編制の最大の単位として、「師団」。師団の兵力は平時は1万人前後だが、戦時は2万人程度になる。1個歩兵連隊は1500人前後、4個歩兵連隊で約6000人になる。師団は6割、残り4割を砲兵、騎兵、輜重(しちょう)兵(補給・輸送を担当)、工兵、通信隊、衛生隊などの部隊で分かつ。これら各種部隊は歩兵部隊を支援する役割を持つ。

日中戦争前までの陸軍兵力は17個師団を中心に各種部隊合わせて約25万人程。日中戦争が始まると次々に師団が増設され、太平洋戦争が始まるまでの4年半に35師団も増設された。太平洋戦争が始まってからは、さらに75個師団が編制された。


兵力量推移

昭和11年 29万人 昭和12年 95万 昭和13年 113万 昭和14年 124万

昭和15年 135万  昭和16年 185万 昭和17年 210万 昭和18年 365万

昭和19年 398万   昭和20年 550万

軍事費予算比

昭和5年 28.5% 6年 31.2 7年 35.9 8年 39.1 9年 43.8 10年 47.1 11年 47.6 12年 69.5  13年 77.0 14年 73.7 15年 72.5 18年 78.5 19年 85.3

陸軍大学:参謀将校を目指す。陸士卒後2年軍隊経験をし、かつ選抜された中尉・少尉が入校する。

陸軍士官学校:将校の養成  陸軍幼年学校:士官学校を目指す、旧制中学校相当の養成機関である。




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