第4話 軍国化する日本(浜口首相銃撃から2・26事件まで)
1930年(昭和5)11月14日午前8時57分、東京駅駅頭に、一発の銃声が響いた。撃ったのは24歳の右翼青年、撃たれたのはライオン宰相と国民に親しまれた浜口雄幸首相、幸いその時命はとりとめたが、無理な登壇が祟りその後一命を落とす。その一発の銃声音が合図になったように日本は軍国化して行く。それは不況打開のための軍縮を成し遂げ、国際協調外交を進めた浜口らの政党政治が、軍部に屈していくきっかけとなった象徴的な事件だった。
3月事件*(昭和6年)、10月事件*(同年)と軍部クーデター未遂事件があり、血盟団事件*(昭和7年)、時おかず、犬養毅首相が海軍青年将校らによって射殺される5・15事件(同年)、さらに陸軍皇統派・統制派の派閥争いの末に起こった永田鉄山軍務局長刺殺事件、別名相沢事件(昭和10年)と続く一連の流れが、11年2月26日未明帝都を震撼させる、実行されたクーデター事件(2・26事件)となった。事件は陸軍の無統制ぶりを露呈する以外の何物でもなかった。
しかし軍はこの不祥事で権威を失墜するどころか、これを機に反対派(皇統派)を粛清し、統制派一本に固まり、「それでは若い者たちが収まりますまい」と、まるで組関係者まがいの台詞で、政府・議会に譲歩を強要する始末であった。事件直後の広田内閣では内閣の人事にまで「彼奴はダメ」「こいつはダメ」と、早くも軍の意のままに政治を動かし始めた。
それは国内ばかりでなく、外地と呼ばれた満州でも軍の暴走が始まった。満州事変である。軍中央の許可もなく関東軍司令が起こしたものである。事変拡大⇒満州国建国となり、認めない国際社会に向かっては国際連盟の脱退と孤立の道を選ぶ。さらに昭和12年7月7日盧溝橋で火を噴いた戦火は「北支事変」から「支邦事変」へと拡大し、宣戦布告なき戦争*の戦線は泥沼の中国奥地へと延びていった。昭和13年の広東・武漢三鎮占領まで、華やかな提灯行列や旗行列が繰り広げられたが、点と線だけを確保のいつ終わるともない戦争に不安を感じたのは国民だけでなく政府もそうであった。戦果を誇り一人自慢の軍部でもこの先どこまで行かねばならないのかと内心は如何・・来た道は戻れない。誰かこれを止めるものはいないのか、この現状を変えてくれるものはいないのか?
第2次若槻礼次郎内閣(民政党)1931(昭和6)年4月~12月
凶弾に倒れた首相濱口雄幸の病状悪化により内閣が総辞職し、若槻禮次郎が後を組閣した。
外交においてはロシアより受けついだ満州権益の期限が迫っていた。返還を迫る中国、期限延長を主張する日本政府。国民の対中感情が悪化、融和路線をとってきた幣原外交に行き詰まりが見え始めていた。内政では世界恐慌でダメージを受け、金解禁後に生糸価格や米価が暴落、前内閣から留任した井上準之助蔵相のもとでの緊縮財政下で大量の失業者が発生し中小企業や農村が窮乏化していた。
そんな9月に満洲事変が発生。事態不拡大の方針が決定された。しかし、関東軍の要請に応じて、朝鮮軍(司令官林銑十郎)は独断で国境を越えた。「統帥権干犯ではないか?」に対して、若槻は「既に出動せる以上、致し方なきや」と答える。閣議でも必要な経費を認めてしまい、事変が拡大することになった。若槻は安達謙蔵内相の提案で軍部を抑えるために政友会との協力内閣を模索させた。ほぼ政友会の協力を取り付ける段階まで来たが、幣原外相、井上蔵相らの反対を受けて、若槻は翻意する。今度は安達謙蔵が離反、辞職を要求するも拒否され、閣内不一致で総辞職となった。明治憲法下では首相に〈閣僚の罷免権〉はなかった。
満州事変
1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、前の張作霖爆殺事件の現場から数キロの地点であった。爆発は小規模なものであったが、関東軍はこれを張学良の破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖事件である。事件直後から、現地の日本領事・公使らは関東軍の自演と判断し本国に報告、政府もそのように判断し、不拡大方針を発表した。関東軍はこれを無視して満州全域を制圧した。
張作霖は満州を支配していた軍閥で、日本は彼を支援することで満州権益の拡大を計っていた。蒋介石は中国を統一すべく北伐を開始、北京に迫った。関東軍は張作霖に北京を放棄して満州の守りを固めるようアドバイスをするが、張作霖は蒋介石と戦い敗北。関東軍にはもはや張作霖の利用価値はなくなった。満州に鉄路帰ろうとする張作霖を列車ごと爆殺したのである。息子の張学良は日本を恨むこと骨髄。彼は満州を抜けて、飛行機で西安に飛び、毛沢東を攻めるため西安に来ていた蒋介石を捕囚、共産党との抗日戦線を要求、ここに第2次国共合作がなったのである。
満州事変を計画立案したのは、満州組・石原莞爾(当時関東軍参謀)であった。彼は中国からの干渉を排除するには満州国を作ってしまえばいいと考えた。満州国で力を蓄え、いずれ来る米英決戦に備えるという考えであった。だから対ソ軍備に備え、対支邦拡大には反対であった。北支拡大作戦を取った将官に、何故かと非難すると、その将官は「あなたの真似をしただけ」と答えたという。
満州事変はことを起こせば、予算は後からついて来るという先例になった。もう一つ、新聞の論調が一変したのである。協調主義下での軍縮ムードの時は軍に批判論調だった。それがこぞって援軍論調に変わったのである。熱する国民を前にした新聞購読者の獲得競争である。
犬養毅(政党人)内閣(政友会) 1931(昭和6)年12月~32年5月
蔵相高橋是清は内閣成立後ただちに金輸出再禁止を断行、金本位制を離脱し管理通貨制度へ移行、さらに民政党政権によるデフレ政策をインフレ政策に転換し世界恐慌以来の不況への対策に矢継ぎ早に取り組んだ。結果的に景気回復への期待や、満州事変・上海事変の戦勝なども政権への追い風となり、1932年1月の衆議院解散、総選挙で301議席を獲得し衆議院で絶対多数を獲得した。安定した政権運営が出来るかと思われたのである。
満州事変の後、1932年の3月1日、満州国建国が宣言されたが、犬養内閣はこれを承認せず、あくまで中華民国に対しての宥和的姿勢をとった。しかし、これが荒木陸相をはじめとする皇道派の反発を招き、同年5月、血盟団の同志であった海軍青年将校によって犬養が暗殺され(五・一五事件)、大蔵大臣であった高橋是清が内閣総理大臣臨時兼任し内閣を総辞職した。
これ以降、日本は一気に軍国化していき、実質犬養内閣が最後の政党内閣となった。大正14年護憲三派の加藤高明内閣による普通選挙法の成立、政友会、民政党による二大政党の成立、政権交代も憲政の王道に従ってなされ、政党政治が軌道に乗るかと思われたのが僅か10年にも足らずで幕を閉じたのである。
5・15事件
白昼官邸で首相が現役将校達によって射殺されるという衝撃的な事件であった。首相官邸以外にも、内大臣官邸(牧野伸顕内大臣は無事)、政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決*は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。
*最高刑15年の三上卓中尉は5年で仮釈放、大政翼賛会壮年団の理事になっている。
斎藤実(海軍大将)内閣(挙国一致) 1932(昭7)5月~34年7月
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであった。総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。西園寺は、最初は憲政の道を考えていたが陸軍(荒木貞夫陸相*)は政党内閣を拒否した。西園寺は重臣たちと話し合い、政党内閣を諦め、軍を抑えるために退役海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺は、これは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたらしいが、政権交代のある政治は第二次大戦後まで復活することはなかった。
出来事としては、満州国を巡って、国際連盟を脱退(全権大使松岡祐介*)、国際的な孤立を深めた。帝人事件、帝人は繊維の帝人である。帝人は金融恐慌で倒れた鈴木商店の子会社であった。台湾銀行はこの株券を保有していた。この株を巡っての贈収賄事件となり、大蔵次官、銀行局長らが起訴となった事件で、斎藤首相まで意見聴衆を受ける事態まで発展し、内閣は総辞職した。裁判は無罪となった。平沼騏一郎*(当時貴族院議長)がバックになった検察ファッショの疑念が噂された。
岡田啓介海軍大将内閣(挙国一致) 1934(昭和9)年7月~36年3月
前海軍大臣の岡田啓介に白羽の矢が立った。西園寺の要請をうけて衆議院では少数の民政党が与党となった。一方、前回の選挙で300議席を超える絶対安定多数を獲得しながら政権がまたしても目の前を素通りしていった政友会では、岡田内閣に対しては野党として対決姿勢をとることを決定していた。
岡田内閣で問題となったのが、憲法学者美濃部達吉の唱える天皇機関説であった。貴族院勅撰議員となっていた美濃部が答弁に立つことになった。この発言を巡って紛糾し美濃部は議員を辞した。不敬罪で起訴され、著作3冊は発禁になり、これを教授することも禁止になった(結果は不起訴)。
天皇自身は機関説には問題がないとした。天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と生物学(者)らしい発言をしたという(『本庄繁日記』本条は侍従武官長)。
*2・26事件に参加した山口一太郎大尉は本条の娘婿であった。
岡田内閣は天皇機関説問題の対応に苦慮。軍部からの圧力に抗しきれず、ロンドン海軍軍縮条約を脱退し、軍の華北進出を容認した。政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年1月に衆議院を解散した。同年2月の総選挙の結果、政友会が議席を175にまで減らした一方で、民政党は205議席を得て第一党となり、これに他会派を入れて与党勢力は240議席の安定多数を得た。これで政局も安定するものと思われたが、その6日後の2月26日に二・二六事件が起きたのである。
2・26事件
1936年(昭和11)2月26日(水曜日)から2月29日(土曜日)にかけて、帝都を震撼させたクーデター事件である。皇道派の陸軍青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)らが1,483名の下士官・兵を率いて、岡田啓介総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
彼らは「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えていたところの元老重臣・軍閥・宮中グループを殺害・排除すれば、天皇親政が実現し、諸々の政治問題が解決すると考えていた。ここに云う軍閥とは統制派を指す。だから陸軍省・参謀本部・陸軍大臣官邸にも押しかけたのである。彼らは陸軍首脳部を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく、一審制の軍事裁判により事件の首謀者、彼らの思想基盤となった思想家北一輝らは銃殺刑に処された。どう対処すべきか混乱する軍首脳に対して天皇の決断は迅速・断固としたものであった。
*注:天皇がいち早く事件を知ったのは、襲撃された、侍従長鈴木貫太郎の夫人・鈴木たかが昭和天皇に直接電話したことによる。たかは、皇孫御用掛として迪宮の4歳から15歳までの11年間仕えており親しい関係あった。侍従長鈴木貫太郎が一命を取りとめたのは妻たかの必死による懇願だったという。この時代の妻女の気丈夫・振る舞いには見習う事多しと、感じ入った次第である。事件の概要・詳細を知らぬとも、天皇には考える時間はあったことになる。
注:一連のクーデター未遂事件
3月事件・10月事件:昭和6年3月20日(金曜日)を期して、決行するとされたクーデター未遂事件である。橋本欣五郎陸軍参謀本部ロシア班班長ら中堅幹部で構成される「桜会」のメンバーが、民間右翼の大川周明らと計画したとされる。首班候補に上げられたのが宇垣陸相で、関与が取り沙汰され、事件後辞して朝鮮総督に転じている。『宇垣一成』の著者、渡辺行男氏は彼の業績、行動、人格からして関与はあり得ないとしている。私も同意である。ただ情報は知っていて計画がとん挫、未遂に終わったから大事にしなかったと思われる。大事にしなかったのはかなり上層幹部まで参与していたからであろう。
この年には続いて同類の10月事件も起きている。これも橋本らの桜会絡みである。橋本は10月事件では重謹慎20日、その後満州に転属となる。3月、10月事件とも軍内でうやむやに処理された。
血盟団事件:1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した右翼団体の連続テロ事件。政財界の要人が多数狙われ、井上準之助と團琢磨が暗殺された。井上準之助は浜口内閣で書いた大蔵大臣である。金解禁とデフレ政策を行い昭和恐慌が起きたこと。さらに軍縮政策の1つとして海軍への予算削減を行ったことが殺害理由となった。団琢磨は三井の大番頭で、三井財閥がドル買い投機で莫大な利益を上げたことを理由とされた。中心人物は日蓮宗の僧侶である井上日召、連座した東京帝国大学グループの四元義隆は15年の刑を受けたが、恩赦で40年釈放され、その後近衛文麿首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として歴代首相とも親しく関係した。右翼への扱いはこの程度であったことが知れる。
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