第20話 ハタチの夜に

 自転車置き場に自転車を置いて、横断歩道を渡る。ひまわり広場を横切って、アルバイト先の「木曜舎」のある駅ビルへ。

電話が鳴る。立ち止まって、かごバックから電話を取り出す。母だ。

「はい、もしもし」

 今日もおばあちゃんと一緒にお茶しに行くことになったからよろしくね、との母の言葉に、了解です!お待ちしております、と明るく答える。「木曜舎」は雑貨売り場を併設する、母のお気に入りのカフェで、私がアルバイトをする前からお客さんとしてよく利用していた。自家製ケーキがとても美味しい。

 かごバックへ電話を戻していると

「彼氏か?」

 ひまわり広場で座り込んでいる4人組のひとりが声を掛けて来た。

「いいえ、母からでしたけれど」

 私はそう短く言い捨てて、通り過ぎようとした。

「あ、ほら」

 4人の中でいちばん背の高い人が、立ちあがって、私の側に寄り、髪に触れた。

「埃が」

「え?あら、ありがとうございます」

 私は右手を差し出した。

「埃取ってやっただけで金取るのか?」

 座っている、茶髪の人がこっちへ顔を向けて、私に尋ねた。

「え?違います。ゴミ、ゴミ箱に捨てます」

「あー、風で、飛んでっちゃった」

 いちばん背の高い人の向く方を、私も一緒に見た。そして、顔を見合わせた。

「俺のことどう思った?」

「え?こんな背の高い人、私の知り合いでいるかな?どうしたらこんなに、背が伸びるんですか?」

 私はその背の高い彼を見上げた。

「なんて。あ、でも、私、これ以上、背、伸びなくてもいいんだった。失礼します」

 そう言って、やり過ごそうとした。すると彼は私の肩を掴んで

「待って。ねえ、俺のこと好き?」

 と訊いてきた。私はちょっと可笑しくなって、首をかしげた。

「じゃあさ、この人のこと誰かわかる?」

 背の高い人は茶髪の人を指して私に訊いた。私は首をかしげた。

「ごめんなさい。わからないです。人違いじゃないですか?」

「弥生ちゃんでしょ?」

「そうですけれど」

「俺たち、千葉英和の野球部員の知り合い。それで安心した?声で思い出さない?」

 私は不安になった。悪意は感じないけれど、もし、嫌がらせだったら困る。

「山口覚えてる?野球部のキャプテンだった。この名前出すの最後の手段にしようと思ってたんだけれど。山口に頼んで一緒にミーティングしたことあったでしょ」

 そう言って、その背の高い人は、ちょっと困った顔になった。

「ああ、もしかして、電話で話したことある方ですか」

 私は高校時代、スピーカフォンを展開していたことを微かに思い出した。

「そう、会いに来たよ。約束したでしょ」

 約束?私は思い出そうとして、右のこめかみあたりに痛みが走るのを感じた。

「約束なんかしましたっけ?」

 少しため息をつきながら、やっとそう言った。

「覚えてねえんなら思い出させてやる」

 茶髪の人がぶっきらぼうに言った。立ちあがって、側に寄ってきた。

「藤くん。もう少し優しく喋ってあげようよ。俺たちは弥生ちゃんのこと、よく知っているけれど、弥生ちゃんは俺たちとちゃんと顔を合わせるのは初めてなんだから」

 藤くん、かあ。藤くん?!

「あ、ちょっと思い出した?藤くんの声聞いてさ、なにか思い出さない?髪、茶髪にしない方が良かったんじゃない?怖くない?藤くん、怖くない?」

 私は、藤くん、と呼ばれた人を見つめてみた。

「怖くないですよ。あなたの髪の色、綺麗」

「目つきが怖いってよく言われるの、藤くん」

「そんなこと、ないですよ」

「おまえは俺の声、好きだって言ってただろ」

 確かに、良く通る、特徴のある声。私は首をかしげた。

「そうかなあ。言ったこと、あったかなあ。でも、一句、詠めそう」

「相変わらず、マイペースだなあ。藤くんに?何?詠んでみて」

 私は“藤くん”に一句詠んでみた。

「三毛猫の、真ん中の色、日に透けて、きらきら光る、君にときめく」

 “藤くん”は、目を丸くして私を見つめてきた。

「ときめくの?ときめくんだ」

 “藤くん”は確かに、素敵な声をしている。

「三毛猫みたいな髪の色かあ。初対面でいきなり一句詠まれるとは思わなかったなあ。でも、いいね。『あさきゆめみし』が愛読書の君らしくて、いいね」

「どうしてそれ、知ってるんですか?」

「だから、電話で散々話した仲でしょ」

「それだけだとわからない。よく思い出せないんです」

 私は困惑した。

「そんな顔しないで。チャマ、なんとかしてよ」

「弥生ちゃん」

 チャマ、と呼ばれた人は、私の名前を呼んだ。

「今さ、スピッツで一番好きな歌、歌ってみて。選べないって言わないでね。そしたらバイト行くことゆるしてあげる。ゆるすはひらがなのゆるすね。弥生ちゃんは女の子だから」

 優しい声だった。私は少し、頬が緩んだ。

「スピッツの草野正宗さんに恋焦がれるてるんでしょ」

 優しい眼差し。私は微笑んで頷いた。

「草野正宗、好きじゃねえ」

 “藤くん”が不服そう。

「藤くんのことはほっといてさ。せっかくチャマが振ってくれたからさ。俺も聞きたいな」

 私は、「桃」を歌った。

もうバイトの時間なんです、と私が言うと、バイト先にも顔を出すからね、と背の高い人は言った。


 キッチンカウンターの横の出窓から、誰かが覗いた。私は洗いものの手をとめて、タオルで手を拭いたあと、出窓から外を覗いて

「ソフトクリームのお客様ですか?」

 と訊いた。

「俺は、冷たいものは食わねえ」

 私はカウンターを降りて、お店の外側へ廻った。エスカレータの前の、見晴らしのいい大きな窓の側に、4人組の男のひとが居た。

「えーと、店内でお召し上がりですか?」

「違う、俺たち、客じゃない。さっき、下で話したでしょ」

「えと」

「さっきのことも覚えてないの?重症だな」

 そっか。さっき、ひまわり広場で絡んできた人たちか。

「お店、暇そうだから、店長に頼んでお喋りしていいか訊いてみよう」

 いちばん背の高い人がそう言って、レジに居る店長の元へ。

「あの、私、バイト中で」

「暇だろ」

 茶髪のひとは、“藤くん”。

「でも掃除したくて」

「店長は、オッケーだって。彼氏に電話掛けてくるから、店番しておいて、だって。俺たちのこと知ってたよ」

 絡まれ防止にバイトを理由にできない。エプロン姿のまま、引き留められてしまった。

「まず、名前を思い出してもらおうか。この人は藤くんね。藤くん、弥生ちゃんに指輪でもあげたら?」

 指輪かあ。私は右手を自分の前に出してみながら、「時間旅行」を歌った。

「お、思い出した?」

 私は自分でも驚くほど急激に、色々なことを、思い出した。あの、主な生息地を下北沢とする秘密基地のバンドマンのひとたちだ。スピーカフォンで話してた、嫌がらせの元凶の。

急に涙が出てとまらなくて、私はお店の中に駆け込み、手作りケーキが並んだ、冷たいガラスショーケースの陰に隠れて号泣した。

 いちばん背の高い人が側に来た。

「俺のこと、思い出したの?」

 私は頷いた。

「増川先輩」

 私は小さな声で呟いた。

「寂しいなら側にいてあげようかって、皆、言ってるよ。取り合えず、戻ってきて」

 増川先輩の声は優しく響いた。

「寂しいから泣いてるんじゃないんです。ただちょっと、思い出したら少し、苦しくて」

「なおさらこっちおいで」

 私は、増川先輩に促されて、店の外の、見晴らしがいい大きな窓の前に、戻った。

「泣きやんだところでさ、なんの話ししようか。思い出さなくてもできる話ししようか。俺たちがバンドマンってことはわかってくれたよね?」

 私が落ち着くのを待って、増川先輩が話しを切り出してくれた。私は頷いた。

「俺たちね、テーマソングがあってね。皆で膝付き合わせて考えた初めての曲なんだけれどね。俺たちライブする時いつも最初に演奏するんだけれどね。弥生ちゃんは聞いたことはあるかな?」

 私は首を横に振った。

「実はねこの唄ね、へなちょこって言葉を繰り返す唄なんだよね。へなちょこって言葉聞いてどう思う?」

「へなちょこを繰り返すですか?へなちょこ、へなちょこ、へなちょこ、チョコみたい。チョコ食べたくなりますね」

「それは新しい感想だなあ。ちょっとわらってくれたね。どう?俺たち、怖くないでしょ?チョコっとは思い出してくれたかな?なんてね」

「ごめんなさい。少し、思い出したんですけれど、全部覚えているわけではなくて」

「でも、指輪で太陽のリングの歌、思い出してくれて嬉しいよ。俺の妹も、覚えてないことも多いんだ。特に、仲間はずれにされていた学校のこととか。君も嫌がらせ回避するの大変だっただろ」

「私は、野球部の人が、なるべく嫌な思いしないようにって助けてくれていて。増川先輩の妹さん、美沙子さん、でしたよね。お元気ですか?」

「大丈夫だよ。佐倉高の生徒になったよ。俺のことわかる?」

「将棋先輩ですよね。増川先輩。うちの弟も佐倉高受かりました」

「うん、聞いてる」

 私は思い出せたことにほっとした。

 さっきから隣の人にあたまを撫でられている。

「あの、この人誰ですか?」

「升秀夫。俺たちのバンドのドラマー」

「ドラムの人かあ。あ、美織の!あの、なんで私のあたまを撫でてるんですか?」

 怖くはないけれど、不思議な人。

「池の鯉と間違えてるんじゃないの?」

「池の鯉ですか?」

「秀ちゃんねえ、佐倉高の池の鯉にひとりで餌あげてたの、目撃情報が多々ある。小動物が好きなんだけれど、あまり懐かれないのが悩みなの」

「私は小動物ですか?」

 秀さんは何も言わず頷いた。

「弥生ちゃん、椎名林檎さんも好きだったよね。最近も聞いてるの?」

「最近はあまり聞いてないですね」

「最近ハマっている曲ある?」

「私、最近、アンパンマンのテーマソングにハマってて」

「えー?それどこ繋がり」

「高校卒業してから、春に靖国神社にお参りに行くことにしていて。『アンパンマンのマーチ』って、やなせたかしさんが特攻隊員だった弟さんへ送った歌らしくて、それで」

「へえ、ちょっと歌ってみて」


♪ なんのために生まれて

なにをして生きるのか

こたえられないなんて

そんなのは いやだ!

時は はやく すぎる

ひかる 星は消える

だから 君は いくんだ

ほほえんで

そうだ うれしいんだ

生きる よろこび

たとえ どんな敵が あいてでも

ああ、アンパンマン

やさしい君は

いけ! みんなの夢 まもるため


「そんな歌詞だったっけ?」

「アニメの主題歌部分じゃなくて、私の好きな歌詞の部分なんです」

「特攻隊員のこと想いながら聞くと、また違った歌に聞えるもんだね」

「やなせたかしさんって詩人として偉大だと思います」

「我らが日本一の詩人を前にして、その言葉は聞き捨てならないなあ」

「“藤くん”って、やっぱりあの、日本一の藤原さんかあ」

「お、藤くんのことだんだん思い出してきた?」

 私はため息をつきながら頷き、小さな声で、ごめんなさい、と言った。

「他にどんな歌があるの?」

「『アンパンたいそう』もとてもいい歌詞ですよ」

 皆が笑い出した。

「ちょっと歌ってみて」


♪ もし自信をなくして

くじけそうになったら

いいことだけいいことだけ思い出せ

そうさ空と海を越えて風のように走れ

夢と愛を連れて地球をひとっ飛び

だいじなもの忘れて

べそかきそうになったら

好きな人と好きな人と手をつなごう

そうさ僕と君をつなぐ虹の橋を渡れ

雨と雲が逃げて太陽ひとまわり

楽しいこといっぱい

でもさびしくなったら

愛すること愛することすてないで

そうさ鳥も花も遊ぶみんな君が好きさ

涙なんかふいて大空飛び出そう

アンパンマンは君さ 元気をだして

アンパンマンは君さ 力のかぎり

ほらキラめくよ

君はやさしいヒーローさ


 私は歌いながら涙ぐんでいた。

「また泣いちゃうの?」

「自信なくすようなことが多々あって」

「ごめんね。俺たちのせいかもしれないよね。アンパンマンの歌も、背景を知ってじっくり聞けばいい歌に聞えるよね」

「いい歌っていうか、単純な歌だろう」

 藤原さんが“アンパンマンの歌”に、ちょっとやきもちを焼いたような様子で言った。

単純な歌にこそ励まされることもある。皆が心配そうな顔で私を見ている。

「それよりさ、その腕、どうしたの?手首のところ」

 思わず右手首に着けていたリストバンドを押さえた。なんともないと言い張ったが、藤原さんが、リストカットじゃねえのか、見せてみろと言って、どうしても引かないので、仕方なく、リストバンドをとって、包帯をほどいた。引っ搔いた痕が乾ききってなくて、酷く荒れていた。ストレスで悪化したアトピー痕だった。

「藤くん、野球部の人から、弥生ちゃんが嫌がらせに合っている話し聞いて、弥生ちゃんが心配だったんだって」

 藤原さんが、包帯巻きなおしてやる、と言ってきかないので、仕方なく側に寄って、荒れた手首と包帯を差し出した。ふたりで見晴らしのいい大きな窓の出っ張りに腰掛けた。私は私の手首にそっと触れてきた藤原さんを見つめてみた。ぶっきらぼうな話し口調と違って、包帯を巻く手つきは優しかった。丁寧に包帯を巻き直してくれたあと、リストバンドもとめてくれた。私はほっとして右手首のリストバンドを押さえた。

 藤原さんは、ふいに、両腕を広げて、優しく私を包み込んでくれた。やっと追いついた、と呟きながら。しばらくそうしたあと、藤原さんは、私の両肩を掴んで、もう一度私と目を合わせて、なんで野球部の男と付き合ったんだ、と言って、言葉でも、物理的にも、迫ってきた。おめえが“完全無欠”の最後の砦だったのに、と。私は腰掛けながら、後退りした。

 私は、卒業してから翔之介と付き合い始めた。翔之介のことは好きだったし、一緒に居て一番安心するひとだった。それに、そうしないと、藤原さんのバンギャルちゃんからの嫌がらせを回避することができないと思ったから。

「弥生ちゃんね、藤くんの言うこと、あまり気にしなくていい」

 増川先輩は、端っこに追いやられた私を、元の、秀さんの隣に引っ張って戻した。

「藤くんのお嫁さん探し、いつものことだから。俺も妹守るために、舎弟をいつも置いといてんの、妹の側に。弥生ちゃんの場合、仕方ないよ」

「だからって、朝帰りする必要はねえだろ」

「不可抗力だってあいつ言ってたじゃん。俺たちだって、構うと嫌がらせがエスカレートするからって、千葉も下北沢のライブにも呼ばずに、卒業したあと2年も放置したんじゃん。何か言い返してよ。藤くんが頑張ってたのはわかるけどさ。弥生ちゃんだって、号泣するほど淋しさ感じてたんじゃん」

 藤原さんはしばらく黙ったあと、切り出した。

「俺はおまえと話しをするために、猛勉強をしてきた」

 私はそんなこと言われると思わなかったので、驚いた。

「どんなお勉強ですか?」

「藤くんね、ドリカム聞いたりしてた。Spitzの話しは、斎藤に譲るか」

「それだけじゃねえ」

 藤原さんは、バイトで生計を立てながら、インディーズという、音楽の社会人野球みたいな世界で曲をリリースしたり、プロデビューへの足掛かりを着実に進めてきたという。その合間に聖書を読んだり、図書館で詩集を借りて読んだりしていたそうだ。

「俺たち、プロデビューしたんだ。藤くんね、約束の唄つくって」

「約束のうたって、もしかしてアリエルを魔法の絨毯に乗せてあげるうたですか?」

「そう。思い出してくれたかあ」

「そうなんだ、凄い」

「おめえにも聞かせてやりてえって」

 藤原さんは照れくさそうにしている。

「それで会いに来てくださったんですね。嬉しい」

「バイトあがりにさ、ね、約束の唄、聴かせてあげるよ」

「凄い、楽しみ」

「その前にさ、なんか俺たちにして欲しいことある?」

私はしばらく考えた後、皆の手を見せて欲しいと頼んだ。

4人は不思議そうな顔をしていたけれど、円状に集まって、両手を出して、心良く応じてくれた。私も自分の両手を出した。触ってもいいですか、と訊くと、いいよ、と応えてくれた。

これがボーカル&ギターの手、これがギタリストさんの手、これがドラマーさんの手、これがベーシストさんの手、と順番に呟きながら、それぞれの手に少し、触れた。自分の手も出して、しばらくそれを眺めたあと、小さく、ありがとうございますと、言った。楽器を弾く人の手はとても素敵なものとして目に映り、話し言葉や態度などより、より一層優し気な感じが伝わってきた。

「一緒に円陣を組んでるみたいで嬉しかった」

 私がそう言うと、

「俺たち、円陣組んだのはじめてだよ」

 と言われて、より嬉しさが増した。

 それから、下のレコード店の店長が知り合いだから挨拶行ってくる、またバイト終わりにね、と言って4人は去っていった。私はバイトに戻った。


 雑貨売り場の方のカウンターで、小物のラッピングをしていた。小さいクマにハートのついたおきものを透明な袋で包んで、そのあと細いリボンをかける。

「ひとりで店番か」

 藤原さんが声を掛けてきた。

「ガム食うか?」

「え?」

「いるのかいらねえのか」

「・・・私、その味好きじゃない。辛すぎるもん」

「俺がやるって言ってんのにいらねえって言うのか」

「あ、でも板ガムなら半分こしませんか?半分こならおいしく食べられるかも」

「俺は一度断られたら、やらねえ主義なんだ。もうやらねえ」

 藤原さんはガムの一束をポケットに突っ込んだ。

 駄々っ子みたい、と思ったら可笑しくなった。背が高くて私より体が大きいのに、この人は子供みたい。さすが末っ子長男、と言うと、藤原さんが返事の代わりにくしゃみをした。

「子犬みたい。くしゃみして」

 私はますます可笑しくなって、わらった。

「俺は犬じゃねえ」

「犬って言ってない。子犬って言った」

 私がそう言うと、どっちでも同じだろ、と言って、ちょっとすねた様子を見せた。

「おまえ、絵、描けるか?描いてみろ」

 カウンター越しに藤原さんが、レジ横のペンに手を伸ばした。

「絵を描いてみろっておっしゃるんであれば、まず、藤原さんが描いてみてくださいよ」

「俺は、金もらわなきゃ書かねえことにしてる。プロの手だからな」

 「そうですか。じゃあ、私、描いてみますね」

私は、カフェ用の伝票を一枚外し、その裏に、ウサギと猫と、自分を模したキャラが風船を持って空を飛んでいる絵を、さっと描いた。小学校の頃の運動会の最後に、お手紙をつけて風船を飛ばす、というプログラムがあった。どうせなら、やきもちとかそれに伴う嫌がらせなんか知らない時期に、一緒に風船を飛ばしたりして過ごしたかったなあと、私は呟いた。そして、端っこに“フジワラさんダイスキ”と走り書きした。

「おまえ、そんなこと書いたら皆に見せられねえじゃねえか」

「記念です、記念。気持ちを込めて」

 藤原さんはそれを、またしてもズボンのポケットに突っ込んでいた。手ぶらで、何でもポケットに突っ込んじゃうひとだなあ、と思った。

「手伝ってやろうか」

 私はまだリボンをかける作業の途中だった。

「え、いいですよ」

「まだ、だいぶあるだろ。俺の方が上手くできるだろ。カウンターのそっちに行ってもいいか?」

「そうですか?じゃあちょっとお願いします」

 藤原さんは、カウンターのこちら側に来て、私の背後に立って、リボンに触れようとした。私が振り返って見上げようとした時、ふいに私の首筋に唇を寄せた。

「ちょ、なにを」

「なんかいい匂いがするなと思って」

 私は驚いて、それ以上何も言えなくなってしまった。

 藤原さんは、カウンターの背後にある棚を覗きながら、ラッピング用の素材がいっぱいあるんだな、なんて呑気なことを言っている。

「荷物少ないですよね、手ぶらで。ポケットの中って何が入ってるんですか?」

「ポケット?そんなこと訊いてどうするんだ」

「気になるじゃないですか」

見せてやる、と言いながら、藤原さんはその場に腰をおろした。私にもそうするように促し、私はそれに素直に従った。

「さっきコンビニ行ったからレシートと、家の鍵」

 藤原さんはそれを手に取ると私に見せてくれた。丸めたレートをそのままポケットに突っ込むなんて。しかも、家の鍵だけ持ち歩くなんて、変わった人だなあ。

「いつもそうなんですか?」

「まあな」

「貴重品は鍵だけ?」

 私がそう訊くと、鍵は一番大事だろ、と言って、はじめてアパートを借りた時の話しをしてくれた。

家を借りるのは18歳にならないと、いくらお金を出しても貸してもらうことはできない、ということを知ったのは、家出をした後だったという。18歳になるまでは、放蕩していた、と恥ずかしそうに言った。借りられるようになってから最初に自分で借りたアパートは4畳半の“おんぼろアパート”で、それでも、自分が描いた絵や曲のアイディアの書かれたノートなど、大切にしたいものを置いておいておく場所ができた、と、とても安堵したという。

私は藤原さんのことを、根無し草のスナフキンと呼んだ。スナフキンは、音楽が好きで、旅をするのが生きがいで、春になると、ムーミンを起こしにムーミン谷に戻ってきてくれる。放浪して、それでいてこうして私に会いに来てくれた、藤原さんにピッタリのあだ名だと思った。

おまえは家出するなよ、とぽん、と私のあたまを撫でた。

藤原さんにとって、4畳半のアパートは、大切なものに鍵をかけてしまっておける、とても思入れのある場所だったみたい。

「ちょうどこのカウンターの中くれえの広さだったなあ」

 藤原さんみたいに背の高い人だったら丸くならないと眠れないね、と私が言うと、なんでも手に届くちょうどいい狭さだよなあと藤原さんは呟いた。

「どんな風に暮らしていたの?」

「なにかしら手を動かしていたな。絵を描いたり、ギター抱えて曲つくったり。おめえの言う通り、根無し草で大切なものをしまっとく場所もねえところから辿り着いた場所だからな」

 手狭でも、安心できる自分だけの空間だったらしい。訪れてみたかったなと思った。

「アトリエみたい」

 そう言い合って、私たちは目を合わせて顔を綻ばせた。

「なんか、欲しいものあるか?なんかしてやりてえ」

「さっき、皆さんと一緒にいるとき、円陣の輪にいれてくださったじゃないですか。あれで十分ですよ」

「なんか、もう一個くれえあるだろ。なんか言え」

 私は首をかしげてしばらく考えたあと、あることを思いついた。

「あの、背中、貸してくれませんか?」

「なんでだ?背中はいやだ」

「じゃあ、こっち側でもいい」

 私は藤原さんの胸元に耳を寄せた。

「ねえ、何か喋って」

「何かってなんだ。なんも喋ることなんてねえ」

 私は、ああいい声だなあ、と思った。

「これがディレイかあ」

「おめえ、ディレイなんて言葉、どこで覚えた?」

「ドリカムの『Love goes on』って歌に出てくるんですよ。もっとなんか喋ってください」

 私は胸がいっぱいになった。

「そんなこと言われてもなあ。なにも喋ることなんてねえ」

「電話では話してたときは、もっと怖い人かと思ってました」

「俺だって緊張していたんだ。でもおめえのおかげで英和の野球部員とはだいぶ打ち解けたんだ。おめえにはすげえ感謝してるんだ。あいつらとジブリの話しができるようになるとは思わなかった」

「ディレイでも素敵な声。そうだ、なんか唄って」

「俺はプロだから、こんなところでは唄わねえ」

「失礼しました」

 私は藤原さんの胸元から耳を離した。

「ありがとうございました。急に、ごめんなさい」

「別に謝ることじゃねえ。おまえはこんなんでいいのか」

「十分です。私、あなたの声、素敵だなあって思います」

 私は嬉しくなって、藤原さんに微笑みを向けた。誰かのディレイを聞いたのはこれがはじめて。私はドリカムの歌に憧れていたから、あったかくて、優しくて、嬉しかった。

「2年も音沙汰なしで、すまなかったな」

 藤原さんは、私たちの代が卒業してから、どんな風に過ごしてきたか、どんな曲を作ってきたかなどを話して聞かせてくれた。下北沢を主な生息地とする音楽仲間のことも。また、一部の野球部員とは連絡を取り合っていたことも、教えてくれた。私のことも、ずっと心配していてくれたらしかった。私は、自分が高校を卒業してから過ごしてきた日々を思い出して、涙が滲んだ。やっぱり、淋しかったのかもしれない。

「斎藤宏介さんは、お元気ですか?」

「ああ、あいつなあ。今度会わしてやる。田淵もおまえに会いたがってた。皆、おまえと話しするの好きなんだ。頭が透き通るとか言ってた」

 私はちょっと可笑しくなった。

「透き通るってなんだろ。クリアになるってことですかね?」

 やっとわらったかあ、と藤原さんは呟いた。私は、ほんとに心配してくれてたんだなあと思った。どうしたらいいのかわからなかった。藤原さんや斎藤さんと関わることは、居ないときの嫌がらせと、記憶がセットになっていた。私は翔之介や野球部員に頼って、必死に日々を生きていた。

 藤原さんは、ほっとしているようだった。私はその顔を見て、いいことを思いついた。

藤原さんに何色が好きですか?と訊いた。藤原さんは、赤が好きだ、と言った。戦隊もののヒーローはいつもセンターが赤だから、という理由だと教えてくれた。私は、すわったまま、ラッピング用のリボンが並んだ棚へ手を伸ばし、サテン素材の幅広の赤いリボンのひと巻きを手に取ると、

「おしおき!」

と言って、藤原さんの首に3重に赤いリボンを巻き付けた。ハサミでリボンの端っこを切った時、少し驚いていたけれど、おしおき、の言葉に、藤原さんは笑ってくれた。赤い糸よりも解けたら結べばいいリボンの方が絆が強い感じがしていいでしょ、と言うと、子犬に首輪でもかけたつもりか、と言って、私のあたまをぽん、として撫でた。

 私たちはカウンターの中の、4畳半みたいな空間が気に入って、しばらくの間、話したり笑い合ったりしていた。

「そろそろちゃんとしないと。一緒に店番手伝ってください」

 私は立ちあがり、エプロン掛けからバイト用の黒いエプロンを手に取ると、藤原さんに着せ掛けてあげた。私が

「黒いエプロン似合いますね」

 と言うと

「俺のバイト先の方がいいエプロンだな」

 と言って、立ちあがった。藤原さんの以前のバイト先もカフェで、ギャルソンエプロン姿がかっこいいと評判だったことを教えてくれた。


 遅番の由美さんがきた。由美さんは、このお店のケーキ作りを担当している。藤原さんと私で並んで店番をする姿を見て、まるで文化祭で出し物をする同級生みたいね、と言ってくれた。私は嬉しくなって、左腕で藤原さんを小突いた。藤原さんは照れたような素振りをみせた。久しぶりの、安心と楽しさが、私を包んだ。

 お客さんが来なかったので、由美さんはケーキ作り、私は藤原さんと店番をしながらお喋りしていた。藤原さんは、自分のバイト先での仕事ぶりを話してくれた。自分はホール担当で、仕事の合間に曲つくりの良いアイディアを思い付いたときは、空いたテーブルに腰掛けてメモを取るのを習慣にしていたと教えてくれた。

 しばらくして、由美さんに買い出しを頼まれ、“文化祭ごっこ”の店番はお開きになった。買い出しのあと、由美さんは、お茶休憩にしましょう、と言って、焼き立ての紅茶シフォンケーキをおやつに出してくれた。私はこのお店で出す、由美さんの手作りケーキが好きだった。


 エンドまでバイトをし、お店の締めまで手伝ったあと、社員通用口にチャマさんが迎えに来てくれた。藤原さんがまだ、私と話したいと言っているそうで、タバコを吸うチャマさんの横で、藤原さんの電話が終わるのを待っていた。藤原さんは何やら、話し込んでいるよう。長くかかりそうだからもうしばらく待っていて、とチャマさんは言った。私は卒論で使おうと思っていた「箱庭療法」という本を読んでいた。

藤くんがおいでって言ってる、と直井さんに言われて、私はひまわり広場のちょうど南のところに立つ藤原さんのところに向かった。

 藤原さんは、野球部員や私の今の同期に、私の近況を確認してくれていた。私は高校を卒業してからも、たびたび同窓生からの嫌がらせに合っていて、そのことではなかなか口を割らない私を見兼ねて情報を集めてくれていた。私は、言いたくなかったわけではなく、そういった類のことに遭遇した時のことをよく覚えていなかった。ただ、話題に出すのは苦しいことであることも確かだった。いつも、翔之介を頼りにしていた。


 まず、藤原さんは、約束の唄を聴かせてくれた。イヤホンでその曲を聞いた。イントロのアルペジオは、キラキラしていて勢いがあるサウンドで、素敵な曲だった。「天体観測」という曲だと教えてくれた。聴いていると歌詞には、あの時電話で話した内容が盛り込まれていた。私は嬉しくなって

「アリエルが魔法の絨毯に乗せてもらってるみたいな音がする」

 と言った。藤原さんは恥ずかしそうに笑った。聴き終わって、イヤホンを外した後でも、まだあたまの中をエレクトリックギターのアルペジオの音が鳴っているようだった。

藤原さんは、また、嫌がらせの件を謝って、ケリをつけてやりたいと言い出した。せっかく出会えた今日の日を、いい思い出にしてやりたいとおもっている、と話してくれた。

 私は藤原さんとひまわり広場の周りをぐるりと歩くことにした。藤原さんは歩くのが早い。私はそのペースに合わせようとして、その途端、躓いて転んでしまった。せっかく並んで歩けるのに、恥ずかしい。立ちあがって膝の埃を払う。すると、手を繋いでやる、といって、右手を差し出してくれた。私は自分の左手を差し出して、手を繋いでもらった。藤原さんの手は、優しくてあったかくて、大きな手だった。繊細で、安心で包み込んでくれるような手のような感じがして、凄く嬉しい気持ちになった。この手でギターを弾いて、あの素敵な曲を演奏しているんだなと思ったら、嬉しくもあり、でもとても緊張するようでもあった。

「おまえの好きなものはなんだ?何か思い出になるようなものはないか?」

 藤原さんは手を繋ぎながら、訊いた。眼差しが優しい。

私は、子供のころからスノードームが好きだった。スノードームを見つけるとつい手に取ってしまい、人からもらったものと合わせて、いくつか集めて部屋に置いていた。キラキラと小さな丸いガラスの中を砂粒が舞うのを見ていると、写真とは違って、過ぎて行く日々が、思い出なんかじゃなく、目の前に鮮やかに繰り返される気がして、ずっと飽きずに眺めていられた。

はじめてもらったスノードームは、3歳まで一緒に住んでいた祖父からもらったものだった。それは、白いドレスを着た女の子がタキシードを着たクマと一緒に教会の前で手を繋いでいるオブジェが付いたものだった。今でも大切にしている。

「スノードームが好きなんです」

 私は小さな声で呟いた。スノードームか、と藤原さんは私の言葉を繰り返して。何か考えているようだった。

私たちは、ひまわり広場のちょうど東の所で手を離し、向き合った。藤原さんは、ひまわり広場で一緒に手を繋いで歩いたことを曲にしてみたいと言ってくれた。

「スノードームみたい」

 と私は言った。さっき聴かせてもらった「天体観測」という曲も、実際に実行はできなかった“踏切で待ち合わせて天体観測”を、スノードームに閉じ込めたみたいな曲だった。私はおじいちゃんにもらったスノードームのこと、それから好きになって集めていることなどを話した。藤原さんは真剣な表情で私の話しに耳を傾けてくれた。

「春に、ひまわり広場で、秋から手を繋いで、スノードームみたいに雪を降り積もらせ、真っ白なキャンバスのように、綺麗な雪の上を歩いている、と言うのはどうだ?」

 藤原さんの声は明るく優しく響いて夜空に溶けた。

「それ、曲のアイディアなんですか?」

「そうだ」

「素敵です。アリエルの続きみたい」

「悲しい唄にはしねえから。決意と綺麗な思い出の唄にしてやる」

 この人は、些細な瞬く間の出来事を、大切に包み込むかのように曲にする、そんな人なんだなと思った。私は、写真を一枚残すよりも素敵なものになる予感がした。手を繋いだことがますます嬉しいものになった。まるでひまわり広場全体をスノードームにしてしまったみたい。私はひまわり広場の端っこで、淡い、甘い気持ちで胸がいっぱいになった。

「おまえ、音の目印は何がいいと思うか?」

「旗がいいな。お子様ランチみたいな」

「メロディフラッグか。イントロは何がいい?」

「キンコンカンコンでいいんじゃないですか?」

「学校のチャイムの音か。いいなそれ」

「イントロにするんですか?チャイムの音をエレクトリックギターのアルペジオでやったら、どんな素敵な音になるんでしょうね」

 藤原さんは、また、違う曲のアイディアを思いついたようだった。私が今日、声を聞いても思い出せなかったことを、曲で解決しようとしているようだった。私が4人のことをちゃんと思い出すきっかけになったのは、“指輪”というキーワードと“太陽のリング”の曲だった。藤原さんは、これから私に辛いことがあって、大切なことを忘れるような事態に陥っても、“メロディフラッグ”という旗印のキーワードと“チャイム”という音の目印を曲にして、今日のことをちゃんと思い出せるようにしたい、と話してくれた。

「ウォルトさんみたい」

 藤原さんは、まるで、願いを叶えてくれる魔法使いみたいだった。悲しかったことも苦しかったことも、綺麗な雪が降り積もったひまわり広場では、曲つくりのキャンバスの一部に過ぎないだと言ってるようだった。

「おまえはなんか曲のアイディア思い付くか?」

 私も藤原さんの曲の一部になってみたいと思った。スノードームみたいに、写真では味わえない淡く甘い思いを曲に乗せてみたいと思った。私は、いつも部屋でひとりで居るときにそうしているみたいに、心をニュートラルにして、頭をクリアにしてみた。

「思いつかないならいいけど」

「ちょっと黙ってて!」

 私は、藤原さんが、自分の大好きなキャラクターのスナフキンに似ていることを想い浮かべた。そして思いを込めて歌った。

「どうだ!公園で野宿するあなたにピッタリの唄でしょ!」

 私は得意げになった。私は藤原さんの根無し草なスナフキンのような旅人のようなところが好きだった。電話でもよく話してくれた。それを即興で詩にしてメロディに乗せて勢いに任せて歌ってみた。増川先輩が、それ藤くんのための唄なの?和歌に続いて強烈な一撃だなあと驚いた声を出した。

「公園で野宿って、俺の一番の黒歴史だろ」

 せっかく歌ってみたのに、藤原さんはちょと不服そう。

「でも、そこが私の好きなところなんです」

「弥生ちゃんも、藤くん見習って、苦い思い出を素敵な曲で塗り替えて欲しかったんじゃないの?藤くんが今、曲のアイディア聴きながらやってくれてたこと、真似してみただけなんじゃないの?」

 増川先輩が助け船を出してくれた。

「“飛ぼうとしたって羽なんかない”っていうのは、その、野宿の日々なんです」

「野宿をしたのは冬だぞ。それに日々っていほどしてねえ。数えるほどだぞ。よく知らねえ女のとこ上がり込むよりはひとりになりてえと思ってしたことだ」

「それはよくわからないですけれど」

「続けてみろ」

「“古い夢”っていうのは譲れません。嫌がらせに負けず、“完全無欠”だったら、おじいちゃんにもらったスノードームみたいに、お嫁さんにしてあげたかったってさっき、言ってくださったじゃないですか」

 皆の緊張が緩んで、笑みが零れた。

「下北沢では歌の交換会したり、歌のプレゼントしたりしなんですか?」

「文化祭じゃねえんだから、そんなことするわけねえだろ」

 皆は笑い出した。私の相変わらずのマイペースっぷりに、皆和やかな雰囲気になった。

 藤原さんは、私のアイディアを自分のものとして形にするのを躊躇しているようだった。

「藤原さんの声が好きだから、藤原さんに唄って欲しい。春に訪れてくれたスナフキンに、ムーミンからとっておきの愛のプレゼント」

「どうしてそんな味方でいてくれるんだ?」

「会いに来てくれたし、優しかったから。電話で話すより、優しかったから。魔法の絨毯の曲も素敵だったから」

「すまねえな」

『こんな時位、ありがとうって言え』

「藤くん“Stage of the ground”を唄ってあげたら?」

「俺は唄わねえ。曲のお礼になんかしてやろうか?」

 藤原さんはそう訊いたけれど、私は最初に円陣の仲間にいれてもらったから大丈夫ですよ、と言った。でも、それじゃあ俺の気が済まないから、というので、スナフキン時代の話しをして、とお願いした。藤原さんは、家にも帰らず、一人暮らしのお姉さんの家にも居ずらかったときは、ギターケースをギターに入れて、泊めて世話をしてくれる女の人のところを転々としていた、と話してくれた。私には想像もつかない話だ。日本一の唄はそうした中から公園で完成させた唄だと教えてくれた。自分でアパートを借りられる年になるまで、その日暮らしの生活をしていたそうだ。それでもギターは離さず、時折そのギターで路上ライブをして小銭を稼いでいたらしい。ほんとのスナフキンみたい、と言うと、藤原さんは笑った。私もその路上ライブを聞いてみたかったというと、路上ライブのことも詳しく話してくれた。最初にギターケースにさくら銭を入れておくのがコツ、と藤原さんが言うと増川先輩が、その話し、俺も初めて聞いた、と言った。

「自由って言葉は使いたくねえな。おめえはすぐ自由になりたいって言うが、俺は自由に不自由してねえからな」

「那由多ってどう?」

 増川先輩が言った。

「那由多ってなんだ?」

「無限大数の一歩手前、とにかく沢山って意味」

「いいな、それ。おめえも登場させてやろうか」

「♪夜空の応援席で見てる」

 夜空の応援席って可愛いな、とチャマさんが褒めてくれた。そして、野球部の人が電話越しでアイディア会議に参加したいと言っていることを話してくれた。野球部の人たちは、“ground”という言葉が含まれていることに嬉しい気持ちになってくれたようだった。 

「曲のタイトルはなんだ?」

「公園で野宿!」

『俺の黒歴史を暴くのかって言ってやれ』

「普通に“Stage of the ground”でいいんじゃないの?」

 増川先輩は冷静にそう言った。

「グラウンドって言葉がかっこいいから、マリンスタジアムでライブする時には一発目の唄として唄って欲しいって野球部員が言ってるよ。そうしたら、フジワラ一味が野球部にかけた迷惑、帳消しにしてやってもいいって」

『大きくでたな』

 私は藤原さんの方を見た。藤原さんはしばらく考え込んだあと、私のあたまを撫ででくれた。私が差し出したアイディアを、受け入れてくれたようだった。私は自分が誇らしくなった。

 それから藤原さんは、プロデビュー曲が「ダイヤモンド」だと教えてくれた。“ダイヤモンド”って、野球のグラウンドにもある、と思った。野球部の人たちも最初聞いた時、そう思ったそうだ。藤原さんの代わりにチャマさんが口ずさんでくれた。

「何回転んだっていいって曲なの?」

 私は思わず非難するような声を出してしまい、藤原さんはそれに驚いた様子を見せた。私は嫌がらせの日々を思い出し、私は何回転んだっていいなんて思えないよ、とひとりごとのように呟いた。何回転んだっていいって思えるのは、男の人だからなんじゃないの、女の子は一回転んだらアウト、じゃないの、だって“完全無欠”じゃなくなるじゃないのと思った。

今日は、何回転んでもいい、って思えるまで、帰りたくない、と私が言うと、藤原さんは、仕方ないな、といって笑顔を見せた。

「テーマは“Over the rainbow”!虹は自由の象徴ですからね!」

 私はスピーカフォンで話した日々のことを、ようやくちゃんと思い出していた。あのころは今より制限が多くて、こうして藤原さんたちと面と向かって会話できるようになるとは思わなかった。今という時間を大切にしたい。素直にそう思えた。

「まずね、あなたはね、“ロストマン”よ」

「迷子って意味か」

「違うわ。あなたは“完全無欠”の私を失ったの。野球部の人と付き合った位で、あなたは私のこと、責めすぎ!」

「確かに」

 チャマさんが同意してくれた。

「藤くんはね、全国制覇の日本一のあとね、千葉英和高校全女子制覇の野望を遂げられなくてね。“完全無欠”の処女ちゃんをね、お嫁ちゃんにしたいって野望に野望がシフトしちゃったの。これで意味通じるの?」

「そもそも、私、それを責められる前に、高校卒業する前の時点で、“完全無欠”じゃなかったですよ」

「藤くん、キスはノーカウントなの?下半身守ればオッケーなの?」

「今夜は下ネタ禁止ですよ!魔法使いの夜にします!シンデレラか、ピノキオか」

「シンデレラ一択!」

「女の子12時までに家に帰したいよね。ピノキオって夜遊びするもんね。藤くん、夢中になって忘れないでね」

「そう言えば、キスはプラトニックラブに含めてって言われた」

「チャマそれよく思い出したね。キスしても“完全無欠”は失われないの?それとも“完全無欠”の処女ちゃんをお嫁ちゃんにする野望はもういいの?」

「キスぐれえしてもいいだろ」

「自ら掟を破っちゃうの?」

「朝帰りしたことはゆるさねえ。神が赦しても俺はゆるさねえ」

「藤くん、それより、部屋にあげるのは俺が一番にして欲しかったってぼやいてた」

「言うんじゃねえ」

「なんかこれ初期の電話の会話みたい」

「部屋にあがってもらったのはたまたま母が部屋にお茶を運んでくれたからで、彼、両親と弟にも挨拶してくれて。本当にいろいろ助けてもらったんです」

「あいつはいいけど、おめえはゆるさねえ」

「ふたりで話していると、すぐ“完全無欠”の話しになるんですけど。しつこい!ロストマンめ!ロストマンでいろ!これからはスナフキンじゃなくてロストマンって呼ぼうかな」

「それだと藤くん迷子みたいだからやめてあげて!」

「そんなに“完全無欠”って言うなら、高校の卒業式に会いに来て欲しかった。私、これ以上何も言うことない。もう私に“完全無欠”でいろって言っただろって言うのやめて!だったら嫌がらせなんとかして欲しかった」

「すまねえ」

「いいや、もう、藤くん、ロストマンでいよう。俺たちは“完全無欠”の弥生ちゃんを失ったんだ。ところで“完全無欠”って復活することあるの?ドラゴンボール集めて神龍にお願いしてみる?あ、弥生ちゃんちょっとわらってくれた。良かった。チャマなんか言うことある?」

「いや、ない」

「チャマは懐が深い男だからなあ。でも小動物手懐けるのが上手いのは藤原基央一択だよ」

「私、藤原さんに唄って欲しい曲がもう一曲ありました。子守唄として唄ってほしい。名付けて“超新星爆発”!」

 すると増川先輩があきれたような口調で

「あのね、超新星で爆発っていう意味も含むの。それだと爆発爆発って言ってるみたいでおかしいよ」

 と言った。

「でも超新星のあと爆発って言いたいじゃないですか。あなたの声を聞いて乙女心が爆発!爆発した乙女心を鎮める唄!子守唄!」

「それより、超新星なんて言葉、よく知っていたね」

「何かの詩集に載っていたんです。いきますよ!」

 私は超新星をテーマに思い付いた子守歌にして欲しい歌を歌った。

「サビがらららだけって手抜きみてえじゃねえか」

「それがいいですよ。サビにいく前に言いたいことを全部言ってしまって。この歌詞を紡ぐのは藤原さんの方が上手そう。だって、スナフキンだもんね。それで、サビでは超新星が爆発してらららなんです。

「どうしても爆発て言いたいみたいだね」

「乙女心が爆発なんです」

「藤くんの声でね」

「超新星って言葉使いたくねえなあ」

「“supernova”ってどう?超新星を英語で」

「ヒロはタイトルつけるの、上手いなあ」

「その前に超新星ってなにものなんだ?」

「星の終わりを表す言葉なんだよ。物理の授業で習ったんじゃないかな」

「まずはこれ、どうですか?自由をテーマにひとつ目の唄として、相応しくないですか?」

 藤原さんはあきれたような表情をした。

「おめえはすぐ自由って言葉を口にするな。一体どのへんが自由なんだ?」

「サビが自由そのものじゃないですか。言葉の縛りから解放されてる」

「終わりに自由なんてせつねくねえか」

「藤くんはこう見えてロマンチストだからなあ」

「なんでそんこと言うんだ」

「藤くんの曲、よく聴いていればわかるよ」

 藤原さんは照れたような顔をして、片手を頭の上にのせた。

「考えたのはおめえなんだから、おめえが唄ったほうがいいんじゃねえのか?」

「私は、藤原さんの声で唄って欲しいです。寝る前に聴きたい」

「こんなにアイディア出されると、アイディア盗んでいるみたいじゃねえか」

「下北沢基準じゃなくて、弥生ちゃんに合わせてあげたら?弥生ちゃん、藤くんと音楽の話しするの、随分楽しそうだよ」

 藤原さんは私を真っ直ぐ見た。

「おめえは楽しいのか?」

「とっても楽しいです」

 私は藤原さんの言葉にかぶせるようにそう言った。その声は嬉しそうに響いた。

「それに、草野正宗さんも、最愛の君と、こんなやりとりしていたかもしれませんよ」

 私は「冷たい頬」を口ずさんだ。

「私もあなたを子どもみたいな光で染めてみましょうか?そしたら私の冷たい頬に触れてくださる?」

「いいね。斎藤との銀のことりのやりとり思い出すね」

「あれは俺は羨ましかった」

「自分で言っちゃうんだ」

「それ位いいだろう」

「草野正宗さんの詩も、弥生ちゃんが唄うと、可愛らしく聞こえるね」

「増川先輩の方が、私のアイディア素直に受け入れてくださってる」

「藤くんはアーティストとして、作詞作曲家として、弥生ちゃんのアイディアを尊重してくれているんだよ。下北沢は弥生ちゃんからしたら、戦国時代みたいなものだよ」

「そうですか」

「アイディアは貴重なものだからね。ね、藤くん」

「おめえはなんにもわかってねえ」

 私は、ごめんなさい、と小さく言うことしかできなかった。こうして曲つくりについて話しているのは楽しかったし、アイディアについて話すのは、藤原さんたちだけだっ。。私と話してて楽しくないですか?と訊いたら、それよりもどうやっておまえを守ったらいいのかということの方が気になる、と言われてしまった。

「弥生ちゃんがせっかく藤くんの声好きになってくれたんだから、唄ってあげたら?まだアイディアあるんだったら、せっかくだから、楽しく話してあげようよ。せっくだから一緒にいる時間をスノードームみたいにしてあげよう」

「俺にはヒロが必要だ」

「いや、わかっているから」

 ほんとにこのふたりは仲良しなんだなと思って、思わず微笑みながら頷いてしまった。

「弥生ちゃん、気にしないで続けて。藤くんも少し曲つくりのことは置いておいて、楽しく話し聞いてあげたら?」

 藤原さんはひとつため息をついて、おまえに合わせると言ってくれた。私は嬉しくなった。増川先輩に助け船を出してもらいながら、藤原さんとふたりで話し始めた。

「歌を歌うからには愛してるって言って欲しいですね!」

「いきなり何を言い出すんだ」

「草野正宗さんだって唄ってますよ」

「俺は草野正宗になりたくねえ」

 私は「チェリー」を口ずさんだ。

「それなんの唄だ?」

「『チェリー』ですね」

「藤くんも“愛してる”の歌詞に興味持ったんだ」

「そういうわけじゃねえが」

「俺、興味持って欲しい。ギタリストとして藤くんが“愛してる”って隣で唄ってんの聴きながらギター弾いてみたい」

「おめえの方がロマンチストなんじゃねえか?」

「藤くんの口からロマンチストなんて言葉が聞けるなんて」

「それより出だしはなんだ。おめえ、続きでいいから唄ってみろ」

 私は可笑しくなった。藤原さんは真剣そのもの。

「出だしですか?続きですか?」

「出だしだろ」

 私は「チェリー」の出だしを口ずさんだ。

「で、サビですね」

「愛してるはサビなのか」

「藤くん、普段、草野正宗さん、目の敵みたいにしてるのに。今日はどうしたの?ってこれ聞くのわざとね。藤くんが草野正宗さんおかげで愛の唄に目覚めるの嬉しい」

「別に草野正宗のおかげじゃねえだろ」

「じゃあ、草野正宗さんを歌う弥生ちゃんのおかげね。藤くん、最近やっと草野正宗さん聞くようになったの。弥生ちゃんに再会するのに少し聞いておこうかって。Spitzって言っちゃうと、藤くん余計やきもち焼いちゃうから。藤くんほんとは草野正宗さんみたいに、バンド名、ひと単語で済ませた方がいいんじゃないかってデビュー前に随分悩んでたの。斎藤のバンド名がね、UNISONっていうんだけれどね。斎藤たちが、

プロデビューするならその時にBUMP OF CHIKENに合わせるって言っていて。つまり、英単語3つ並べたバンド名にするんだって言ってて。あいつら今は草野正宗さんに対して敬意を払うためにUNISONでいるみたいなんだけれど。それを藤くんが止めたりなんだりでちょっと揉めたのね。でも、さっきバンド名の話しした時に、誇りを持って欲しいって弥生ちゃんが言ってくれて嬉しかったよ」

「おめえ続きを歌え」

「続きが聞きたいなんて珍しいね」

「おめえが歌うなら神さまも聞いても怒らねえだろうと思って」

「神さまって聞くと『運命の人』思い浮かぶね」

「草野正宗は『運命の人』なんて唄、唄ってやがるのか」

「正しくは、創って唄ってるね」

「『運命の人』も唄ってみろ」

「まずは“愛してる”の方ね」

「“愛してる”ってなんの唄だ?」

「だから『チェリー』だってば」

「おめえが最初に歌った歌はなんて唄だ?」

「『桃』ですね」

「草野正宗は果物が好きなのか?」

「恋心とか愛の象徴なんじゃないの?藤くん、食いつくね」

「俺はそうはならねえ」

「あのね、藤くんね、弥生ちゃんの影響でSpitzの草野正宗さん大好きになっちゃってね。否定はしないんだ。でもね、たぶん藤くんが日本語の歌詞で好きな唄ってね。この話ししない方がいいな。それを超える唄が草野正宗さんの中から見つかるといいね。弥生ちゃんの中では草野正宗さんって絶対的な存在だからね。弥生ちゃんって自分が思っている以上に草野正宗さんのこと、好きだと思うよ。思わず口ずさんじゃう程に。でも、弥生ちゃんの言葉を借りるなら、ジャンルとベクトルが違うし、同じシンガーソングライター目指すなら、自分が一番って思ってた方がいいな。あのね、今日ね、俺ばっかり喋ってる」

「おめえはミスチル好きじゃねえだろ」

「好きじゃないわけじゃなくて、あまり聞かないですね」

「それを好きじゃねえって言うんじゃねえのか」

「藤くんね、あのね、弥生ちゃんね。恥ずかしいけど告白しちゃう。俺たち洋楽が好きでよくカバーしてたんだけれどね。洋楽の代表はBEATLESね。GreenDayはよく聴くけどあまりカバーはしなかったね。って話し逸れちゃった。でね、日本語の歌詞で初めてカバーしたのがね、中学の文化祭の時の話しよ。かの名曲『抱きしめたい』だったの。バンド名は俺はあえて言わないけれども。藤くん、元からモテてたんだけれどね、このあとモテちゃってね。藤くんが隣で熱唱するの横で聞いてて、俺も邦楽カバーに目覚めちゃってね。目覚めた割にはあまりやらなかったね。って今藤くんのオリジナル曲がいっぱいある中でこんな話ししなくてもいっか。藤くんはね、これを超える名曲をつくりたいって、意気込んでるって話し。でもいいアイディアが浮かばないんだよね。藤くん、弥生ちゃんにさ、女の子の意見聞いてみたら?」

 私は、カウンターの中で、アトリエみたいと笑い合ったことを思い出した。

「腕の中においでって、優しく言われたら嬉しいかな」

「いいね」

「窓のところで腰掛けて、包帯を巻き直してもらったあと、そっと腕の中にいれてもらったこと、嬉しかったし、カウンターの中で、こっちにおいでって手招きしてくれたときも、嬉しかった。藤原さんはそういう方が合ってる気がする」

「藤くん、弥生ちゃんのバイト中になにやってるの?!でもそのお陰で名曲になるいいヒントがもらえたね」

「たいしたことねえだろ」

「藤くん、こういうときは素直にありがとういた方がいいよ」

「私の方がお礼を言いたい。こんなに優しくしてもらえて」

「じゃあ、お礼ついでに“愛してる”の唄、いってみようか。藤くんのリクエストだし」

 増川先輩に促されて、私は「チェリー」の続きを唄った

「Bメロは?」

「藤くん、草野正宗にぞっこんだね」

「うるせえって言われると思わなかった。メロメロだねって言うの我慢したのに。弥生ちゃん続けて」

 私は「チェリー」のBメロを口ずさんだ。

「続けて」

 続けて、Aメロとサビも歌った。

「いい唄だね」

「草野正宗は何回“愛してる”って言ってんだ」

「3回ですね」

「どっちが言ってんだ」

「お互い言い合ったんじゃないの?」

「俺は“愛してる”なんて言えねえ」

「今、言った」

「うるせえ、チャマは黙ってろ」

「藤くんね、チャマが、Spitzとドリカム好きな弥生ちゃんのために、ドリカムもSpitzも聴き込んでいること根に持ってんの。俺は聞かねえとか意地張っちゃって」

「うるせえ」

「藤くんも草野正宗さんの詩、好きなんだよね。どっちかって言うと、藤くんも草野正宗さん派だよね、俺が思うに。・・・あれ?うるせえって言われるの待ってたのに、うるせえって言わないんだ。まあ、弥生ちゃんと話すのに、草野正宗さん、無視できないでしょ。すぐ口ずさんじゃうもんね。日常の一部なんだよね、弥生ちゃんにとって。草野正宗さんとドリカムとSpitzは。俺、妹もSpitz好きだけど、弥生ちゃん程じゃないから、俺、ギタリストとして草野正宗さんの曲、草野正宗さんというかSpitzさんの曲、こんなに心の支えにするとは思わなかった。斎藤なんか、自分で唄って自分でアルペジオ弾いちゃって、すげえよな、あいつ。弥生ちゃんにもあいつのステージ見て欲しかったよ。まだ過去形にしなくてもいっか。イントロのアルペジオが思いやりがあって何よりも好きなんて、弥生ちゃんのSpitz愛を聞くまで、俺そこまでギターに思い入れ持てなかったけど。藤くんの唄が圧巻過ぎるのかな。俺、イントロのアルペジオだけは思いを込めて頑張ろうって。藤くんもしかして『天体観測』のアルペジオって、静香ちゃんのSpitz愛から来てるんだって。随分、力を入れて頑張ったんだよ。アリエルちゃんを魔法の絨毯に乗せたくて」

 私は微笑んで頷いた。とても嬉しく思った。藤原さんは、願いがある人をひとりぼっちにはしない。そんな気持ちが籠ったアルペジオだと思った。

「いいよね。弥生ちゃんは他を知らないから。ドリカムとSpitzとあとちょっと山崎まさよしさんが好きで。あとディズニーか。ディズニーってまたバンド音楽とは違うからね。そこがいいのかもしれないね。俺も音楽って幅広く聞かないと駄目なのかと思ってた口だけど。とにかく好きで、共通の話題を楽しくお喋りしたいって姿勢がいいよね。藤くんも頷いてくれてる。さっきチャマと話してた話題は何なの?」

「『フェノミナン』の“Change the world”」

 と直井さんは言った。

「『フェノミナン』ってなんなの?」

「映画」

「“Change the world”って映画の曲なの?」

「ベースが凄くいい曲なんです。飛行機の中で聞いて、感動したんです。ベーシストのチャマさんとぜひ共有したい話題だと思って」

「俺も混ぜてくれないの?駄目ってチャマがジェスチャーで合図してる。我らがチャマは映画好きで、映画音楽にも詳しいみたいだね。羨ましい。ベーシストと弥生ちゃんの秘密のお守りの唄なのか。秘密のお守りって言葉、弥生ちゃんよく使うよね。藤くん、草野正宗さんが一曲の間に3回も“愛してる”って言ったことに戸惑っているの?頷くんだ。弥生ちゃんはいつも楽しいそうに俺たちに音楽の話ししてくれるよね。俺たち、下北界隈ではちょっとした有名人だからさ。音楽の話しふっかけてくれる人って、なかなかいなくてさ」

「そうなんですね。いちばん話しやすい話題なのかと思ってました」

「そういうちょっと抜けてて突き抜けてるところがいいよね、和んで。たまに恐れ知らず過ぎて驚くけど。驚くってのはいい意味でね。藤くんなんか言って」

「俺は“愛してる”なんて言えねえ」

「またその話題なの?!」

「言ってる」

「うるせえ、チャマ」

「弥生ちゃんなんとかして。俺、草野正宗さんに触発されて欲しい」

「せっかくだから言ってみましょうよ。草野正宗さんも言ってますよ」

「言えねえ」

「“大好き”」

藤原さんは笑った。私はその笑顔を見て、いいことを思いついた。

「藤原さんにも、“愛してる”の魔法をかけてあげます」

「どういうことだ?」

 私は「時間旅行」の“太陽のリング”一歩手前を口ずさんだ。

「その歌はなんだ?」

「“太陽のリング”の一歩手前です」

「藤くんに“愛してる”の魔法かけて!」

「“ベイビィアイラブユーだぜ。ベイビィアイラブユーだ。”うん、うん。って言うのはどうですか?“ベイビーアイラブユーだぜ”でひと単語」

「そんこと言えねえ」

「いうんじゃなくて唄うんです。メロディに乗せて」

「できねえ」

「一曲のなかで3回以上言えたら、草野正宗さんより愛がいっぱいってことにして、合格にしてあげます」

「“うん、うん。”ってなんなの?」

「俺にピッタリの言葉だって、自分で自分に納得しているんです」

「なるほど。俺はストレートに“愛してる”って入れてみて欲しいけれど。どうなんだろうね」

「“ベイビーアイラブユーだぜ”って藤原基央っぽいい」

「おめえの思い込みだろ」

「いいじゃないですか、言ってくれたって」

「曲のタイトルはなんなんの?“愛してる”?」

「“愛してる”なんてタイトル、やべえ」

「ベイビィアイラブユー」

「“新世界”」

「なんで?」

「あなたと出会って新しい世界が開けたっていう私の心からの本音です。私皆さんのこと大好きだし、音楽の話しを一緒にできるの、“うれしい楽しい大好き”です」

「ここできたかあ」

「“ベイビィアイラブユーだぜ。ベイビィアイラブユーだ。”うん、うん。はい、藤原さん。私の大好きに応えてください」

「大好きじゃねえ」

「大好きでしょ」

「そんなあなたにこんな歌を」

 私は自分の“とっておきの歌”を口ずさんだ。

「いい唄だね。俺、妹と一緒に夕日を見ている後ろ姿が思い浮かんだよ。誰の唄なの?」

「私のとっておきの歌です」

「弥生ちゃんのとっておきの唄?」

「そうです」

「そうきたかあ」

「保護者が出張った方がいいんじゃない?」

「藤くんにちょっと唄わしてみたら?弥生ちゃんに愛を込めて」

「それ違法だろ」

「いや、そうじゃなくて、こんないい唄、藤くんの声で、全身全霊で唄ってもらったら、俺も嬉しいし、嫌がらせも泣き止むんじゃない?俺嫌がらせは女の子の泣き言だと思ってるから。弥生ちゃんの唄として、藤くんに唄ってもらったら、弥生ちゃんどうかな?」

「そうですね」

「まだ早い」

「今、まだ早いってチャマが言ったの?そうかあ、一番弥生ちゃんの気持ち理解してるのチャマだもんな。俺もいきなり藤くんに唄えって言っちゃってごめんね、弥生ちゃん。」

「それより、とっておきってどういうこと?」

 チャマさんがそう言った。

「ああ、なあ、たあ、があ、はあ、なあ、なあ、らあ、で“あ”がいっぱいの、あいの歌」

「なるほど。タイトルは?」

「『花の名』」

「名もなき花」

「はあ、なあ、のなあ、で、“あ”がいっぱいの方がいい」

「タイトルにも“あがいっぱい”かあ」

「それに、“がは”のところでいちオクターブあがって、花が咲くようなイメージのメロディなんです」

「なんとも素敵だね。藤くんの“とっておきの唄”と交換こしたら?藤くん、あの唄。弥生ちゃんに唄ってあげたら?藤くんどう思う?」

「アルペジオが浮かんでこねえ」

「藤くん、弥生ちゃんのつくる曲、気に入ってるみたいだね。もうアレンジのこと考えてる」

「それは光栄です。エレクトリックの方も、アコースティックの方も、ギターの音はとても好きなので、このメロディにギターの音がもしついたら嬉しい」

「藤くん、弥生ちゃん、ギターの音ついたら嬉しいって」

「この唄、俺に任せてくれないか?」

「えー!それならもっと私の気持ちを理解して欲しい」

「理解するにはどうすればいいんだ?」

「今、あなたの“ダイヤモンド”の何回転んでもいいを受け入れるために、どんな道のりをたどればいいかって考えているから、話しを聞いて欲しい」

「なんだ、話してみろ」

「藤くん、その前に、『花の名』っていう曲のイントロのアイディアがあるか聞いてみたら」

「唄ってみろ」

 私は頷いて、『花の名』のイントロのメロディを歌ってみた。

「タン、タンタタン。タンタタンタンタンタンタタタタタン」

「いい、メロディだね。優しい。弥生ちゃんらしいなって思うよ」

「“タ”が好きなの?」

私はちょっと恥ずかしくなって、こんな表現力ですいません、と小さく言った。藤原さんは、無言のまま、私のあたまをぽんとして撫でた。優しい眼差しだった。

「弥生ちゃんの音楽好きが、こんな風に開花するとは思わなかったね。藤くんも弥生ちゃんのメロディには感心しているみたいだね

「おめえとこんな風に話しができると思わなかった」

 藤原さんは、曲をつくるときはいつもひとりで向き合ってる、と教えてくれた。アコースティックギターの弾き語りで完成させた状態をテープにとって皆に聞かせるのだそうだ。こんな風に誰かとアイディアを出し合ったり、歌詞やメロディを教えあったりしたことはなく、私と一緒に話していると、曲をつくらなきゃという重圧から解放されて、頭も心もニュートラルになる、と言ってくれた。

「俺はどうしたらおめえの『花の名』まで辿り着けるんだ」

「私もわからないですけれど、今晩は一緒に魔法の絨毯乗りましょう!Trust me!って私が言われたかったな。あなたはジャスミンですか?」

「おめえはアリエルだろ」

「そんな風に言ってもらえて嬉しいです。藤原さん、“涙”をテーマにブレーンストーミング続けてみましょう。アリエルは泣かないけれど、アンデルセンの人魚姫は、涙を流すから」

「悲しい話しだろ」

「いいえ、原作をちゃんと読むと、涙を流して海の泡になったあと、神様の計らいで風の妖精になって、最後は花の国へ行くんです。春の花咲く花の国へ。その描写はまるで、指姫のラストみたいな素敵なものなんですよ。親指姫もあらかじめ読んでおくと、厳しい冬を乗り越えて、モグラの花嫁にされそうになり、助けた燕に助けられて逃れて、という試練ののち花の国へ辿りつくので、感慨深くなりますよ。人魚姫は、悲しいだけのお話しじゃないんですよ」

「人魚姫の本当のラストって親指姫みたいに結ばれるの?」

「誰かと結ばれるというエンドではないんですけれど、風の妖精になって、春の花の国へいって、思いやりのある穏やかで優しくて爽やかな風になって、誰かの心を温かくして、その修行を積むことで、願いを叶えられるだけの徳を積む、とうお話しなんです。いつか人間になって、愛し愛される喜びを味わおうっていうエンドなんです。藤原さんも曲つくりを通して、春の花の国へ行きませんか?ジャスミンみたいに魔法の絨毯に乗って。そうしたら『花の名』まで辿り着くかも、なんて、おこがましかったですか?」

「いや、ディズニーの話しを聞いてたときみてえだ」

「プリンセスって、涙が欠かせないと思うんです」

「弥生ちゃんも泣き虫だもんね」

「そうなんです」

「涙を足がかりにして夜空を駆けてみるかあ」

「おめえは泣くことについてどう思ってるんだ。今日も号泣してただろ。なんか曲にしてえ思いとかあるのか」

「涙にはね、涙にはふるさとがあってね」

「ふるさとって涙腺のことか」

「藤原さん、それ本気で言ってます?せっかく魔法をかけてあげているのに、いきなり物理的次元に落とし込まないでください」

「すまねえ」

「涙にはふるさとがあって、そのふるさとにはいろいろな記憶があって」

「涙はふるさとからやってくるの?」

「涙はふるさとにいるわけじゃないんです。涙のふるさとなんです」

「ちょっとどういうことかわからないから話しを続けてみようか」

「ふるさとには思い出がいっぱい詰まっていて、好きなことや楽しいこともいっぱいつまっていて、それから、悲しいことや苦しいことや、傷や痛みがあるんです」

「記憶の倉庫みたいなところってことかな」

「そうですね。そうかもしれないです。で、誰かや何かが訪ねてくると、その記憶と結びつくんです。そうすると、涙がふるさとにまでやってきて、私たちはそれに気がつくと、涙と会えるわけなんです。私たちは生まれて最初にすることは泣くことでしょ?生まれたときにふるさとも生まれて。でも生まれる前からふるさとはあるのかもしれない。ふるさとは涙と再会するところなんです」

「再会する場所ってことかあ。まず、誰かや何かってなんなの?ふるさとの訪問者ってこと?」

「そうです。私の場合はSpitzのイントロのアルペジオとか、草野正宗さんの詩とか、今日のあなたたちの訪問もそうなんです」

「思い出したとき泣いていたもんね」

「でも、どんな記憶と結びついていて、そのときのどんな感情と共鳴して涙があらわれたのかわからなくて」

「そっか、“指輪”っていうキーワードでまずふるさとに訪問して、そこから“太陽のリング”ってキーが思い出されて、紆余曲折あって俺たちのことを思い出して、なんらかの感情や傷やなんかと結びついて、涙に気が付いたってわけか」

「そうですね。すいません。上手く話せなくて。増川先輩わかりやすい」

「こんなところで論理的思考能力が役に立つとは思わなかった」

「論理的思考能力?」

「国語の分野だと読解力になるわけか。これを『涙のふるさと』って曲にしたら面白いかもしれないよ、藤くん」

「結局、涙ってなんなの?」

「チャマ、いい質問する。俺、今夜は実地で指導対局できそうだ。面白れえなあ、弥生ちゃん。チャマね、涙ってね、ふるさとに対する作用だと思うよ」

「作用って」

「ふるさとが及ぼす影響の結果」

「ふるさとに影響されて涙を流すってこと?」

「いや、涙を流すのは結果であって、これだと難しいな。ふるさとに訪問者があらわれて、これはふるさとに対する影響だな。何が影響するかはわからない。弥生ちゃんの場合は、ドリカムや草野正宗さんや、Spitzの曲や、詩や短歌が好きなわけね。俺たちとのお喋りとか。で、泣いたり泣かなかったりするんだけれど、影響がなんらかの記憶と結びつくと、それに付随する感情と共鳴して、それが作用として涙が溢れてくるのかなあ。藤くん、俺の論理的思考能力は、まだ限界まで多少余裕があるんだけれど、そう思いたい。読解力っていうか、弥生ちゃんに対する読解力はチャマ程じゃなくてもあるつもりなんだけれど、なんだろな、組み立て力かな、組み立て力が足りないみたい。これが作詞をつくる“礎”なのかな?作詞をつくるって言ってる時点で俺の国語力が限界だな。俺、でも、作詞してみたいな」

「俺も“涙のふるさと”興味ある」

「チャマ、俺に代わって、弥生ちゃんの話しから“涙のふるさと”の“礎”を築いてみたら?ワードの選択はワードの選択って語彙力が、まあいいか。ワードの選択は確実に藤くんが断トツセンスいいから。俺たちが協力して、弥生ちゃんの“涙のふるさと”完成させてあげようよ。今日の号泣のお詫びにさ。あれ、見てて俺も苦しくなっちゃって。もしかしたら俺にも、俺の涙のふるさとにも、弥生ちゃんと共有できるものがあるかもしれないからさあ。ねえ、藤くん、どう思う?」

「おめえの“涙のふるさと”なんとかしてやるから」

 私はまた、涙が出てきて止まらなくなった。泣きながら頷いた。

「これも影響の作用なのかあ」

 藤原さんは私が落ち着くまで黙って待っていてくれた。

「難しい曲になるの?」

「いや、語彙はわかりやすいものを選択して、論理的にしっかり組み立てないといい曲にならないだろうな。でも、藤くんならできる。俺たちの協力したい」

『皆で仕上げるの?』

「ああ、美沙子と電話中継繋がってるのバレちゃった。今日、ほんとは連れてこようと思たんだけれど、夜遅くなりそうな気がして置いてきちゃったの。で、寂しいからって電話繋ぎっぱなし。弥生ちゃんバイトあがるの9時だったからね。仕方ない。美沙子も一緒に考えようか?弥生ちゃんいいかな?」

 私は頷いた。

『楽しみ』

「藤くん、“涙のふるさと”責任重大だね」

『皆の涙を拾ってあげよう』

「野球部のやつらもそれ頑張ったらマリンスタジアムライブ認めてやってもいいって」

「チャマ、まだ野球部のやつらと電話繋がってるの?」

「ずっと聞いてたよ。弥生が家帰るまで繋げておけって」

「それ電話代誰が持ってんの?」

「・・・経費で落としていいって」

「それ、美沙子の我が儘も有効?」

「・・・今日だけにしろって」

「良かった。今日だけでも嬉しい」

『今日は課題が山積みだなあ』

「これ解決するのに一生かかるよ。あとは?何か聞いて欲しい話ある?美沙子はもう10時過ぎたらお暇するって。弥生ちゃんもせめて12時までには家に帰そう。シンデレラにあやかって、12時までは俺らに話し付き合ってね」

「了解」

「チャマが帰り送っていってくれるって。美沙子が涙を止める方法について考えて欲しいって。これで美沙子とはさよならね。おやすみはお兄ちゃんだけにしてね」

「涙を止める方法があるのか」

 藤原さんは真剣な面持ちで私に訊いた。

「涙を止める方法なんて、なくていいんです。人間、生きていたら、泣きたくなるのは当たり前のことなんです。むしろ生きている実感かもしれません」

「おめえはそれでいいのか」

「涙を受け止める方法を一緒に考えましょう。4つ星にあやかって、4つ考えます」

「3つ星じゃないの?」

「4人のバンドだから4つ星。じゃあまず、“三つ星カルテット”」

「俺だけ星がねえみてえじゃねえか」

「主観と客観で見て、ってことなんじゃないかな?」

 私は頷いた。

「自分の星は自分で見えなっていうか。カルテットって四重奏だもんね。いいね、俺たちにピッタリだもんね」

「どんな唄だ。歌ってみろ」

 私は手拍子も織り交ぜて歌ってみた。

「それが三つ星カルテットか」

「いいね、俺たち一緒に何度も同じ夕日眺めたから」

「おめえは見てたのか」

「お電話で話しを聞いたことがあります」

「そうだった。バンドの話しになった時に、絆はなんですかって訊かれて。斎藤たちは“愛”だとか言ってたけれど、俺たち真面目に“夕日”だろって、藤くんが答えてて、俺もそうだなって納得して思った」

「あとの残りの星はなんだ?」

「”beautiful glider”、”morning glow”、“ angel fall”の3点セットです」

「通信販売みてえだな」

「待って。詩人がその感想。けっこう素敵なワードだよ。どんな曲?」

「曲はまだわからなくて、テーマがある」

「テーマでもいいから教えて」

「”beautiful glider”は『鏡の国のアリス』に出てくる“銀のことり”が登場する、神業アルペジオの唄で、“morning glow”は“いくつのサヨナラと出会ってもはじめましてとは別れないよ”っていう唄で」

「“涙のふるさと”と通じるものがあるね」

「“ angel fall”は言葉よりも唄が好きっていう唄」

「唄も言葉じゃないの?」

「言葉ってなんだろう」

「急に素朴爆弾入ってきたね」

「詩とか短歌にすると、言葉もまた違ったものになるもんね」

「そうなんですよね。それに唄って曲っていうか」

「草野正宗さんより“マサムネ”が好きってことかあ」

「よりってこともないですけれど」

「いいね。俺たちそれぞれ見せ場みたいなのがあるといいね」

『アレンジで考えてみるか』

「保護者もノリノリだね」

「嬉しい。これで涙よりも素敵な思い出でいっぱいにしたい。私、あの時、迎えに来て欲しかった。本当に踏切に行きたかった」

「あの時って、電話の?」

「そう」

「夜中に?」

「夜中でもなんでも」

「俺たちも自転車で行ってみてもいいかなと思ってた」

「『天体観測』って曲を聞いたら、余計、そう思った」

「実現しなかったから、曲ができたんだと思うけどね」

「素敵なアルペジオでした」

「誰か迎えにやろうか」

「すまなかった」

「藤くん、ここで謝るんだ」

「なんで謝るんですか?」

「おめえは“涙のふるさと”思いつくなんて、どれだけ泣いたんだ?」

「藤くん、“涙のふるさと”に感動を覚えてそこから足を洗えないんだって」

「足を洗うってこんな使い方してあってんの?」

「チャマ、けっこう作詞できるんじゃないの?」

「いや、俺は藤くんについていく」

「俺も藤くんについていきたい。藤くん、“涙のふるさと”のあとの弥生ちゃんの話し、聞いてた?」

「おめえは聞いたてのか」

「いや、聞いてたし、一生懸命で可愛いじゃん。素敵ワードが集まって”Over the rainbow”みたいでいいじゃん。藤くん覚えてる?弥生ちゃんがダイヤモンドまで辿り着くのに”Over the rainbow”をテーマに掲げていたよ」

「”Over the rainbow”ってどんなうたなの?」

「お家に帰るうた?」

「”Over the rainbow”ってテーマなのかと思ってた。うたの方なの?うたはもし虹を渡れたらいいなってうたで、お家に帰りたいのは『オズの魔法使い』の女の子でしょ」

「そうか」

「うたっていうかテーマでいいんじゃん。垣根を越えて、ジャスミンもアリエルも、白雪姫だってシンデレラだって。『眠りの森の美女』のお姫様、なんていうんだっけ?」

「オーロラ姫」

「そう、オーロラ姫だって。『美女と野獣』は?」

「ベル」

「そう、ベル姫だって、弥生ちゃんだって。皆、俺たちの魔法の絨毯に乗せてあげようよ」

「どうすればいいんだ?」

「そこだけ真面目に答えるんだ。いや、音楽にのせてさ。今、俺、うまいこと言ったな。弥生ちゃん、“Over the rainbow”まとめて!」

「締めはオーロラアーク!虹色よりも、もっと素敵な自由!」

「オーロラって言いたかったのか。オーロラって天体現象としては最高峰だよなあ」

 私は頷いた。

「アークってあれだろ、“ノアの箱舟”の箱舟のことだろ」

「オーロラアークはオーロラアークであって、オーロラアーク以外のなにものでもないの」

「なんだよ、せっかくおめえと話すために聖書まで読んできたのに」

「オーロラの彼方でダイヤモンドを抱きしめてあげる!」

「締めたね。まるで円陣組んでるみたいだね」

「全部超えて、『花の名』まで会いに来て!」

「いいね、それ。俺たちの合言葉にしよう。“涙のふるさと”を成功させて、君の“花の名”まで会いにいくよ」

 増川先輩の言葉が胸に沁み込んでいくようで、私たちはしばらく、ひまわり広場で一緒に星空を眺めた。

「魔法みたいな夜だね」

 私は藤原さんを微笑んで見つめた。藤原さんは照れくさそうにしている。


12時をまわった。もう、お暇しなくては。

「さよならするの寂しい」

「また、会いに来てやる。おめえの行動範囲は家と学校の往復だけだろ」

「そうだ、“さよなら”じゃなくて、“いってらっしゃい”にしよう」

「おめえのところに帰ってくるわけじゃねえだろ」

「帰ってくるところは、“ホーム”。私は“ホーム”ごと旅をしている」

「江國香織か」

「あなたの“ホーム”になりたい」

「ただいまって言えば気が済むのか」

「それより、さよならは言わないから、あなたも“いってきます”って言って」

「なんで“いってらっしゃい”なんだ」

「“さよなら”って言うと、残されるみたいで淋しくなっちゃう」

「俺の妹もよく、お兄ちゃんいないと淋しいって言う」

 私と藤原さんは目を合わせて顔を綻ばせた。

「でも、“いってらっしゃい”って言うと、帰ってくるかどうかは置いておいて、いってるだけなんだ。忙しくしてるんだって思うだけで、私も好きなことをしていようって、思える。だから“いってらっしゃい”」

「好きにしろ」

「“いってらっしゃい”」

 私は“いってらっしゃい”を合図に離れようとした。私は藤原さんに背を向けて歩いて帰ろうとした。と、自転車置き場に自転車を置いてあるのを忘れていた。振り返って、もう一度、藤原さんに向き直った。

「自転車で来たんだった」

「おめえが戻ってきたら、もう一度話そうと思ってた。おめえ、俺たちに会えなくて寂しくなかったか」

 藤原さんの声は、私に優しく響いた。私はひとつ、ため息をついた。私は祖父と離れて暮らしていた時から、寂しいといく感情は慣れてもいた。

「寂しいのは悪いことじゃないんだよ。寂しいは愛しい空っぽなんだよ。愛しい空っぽには大切な無色透明が詰まっていて、そこに流れ星が流れると、“なないろ”になる」

「おめえにとって流れ星ってなんなんだ?」

「それはまだわからないけれど、あなたにとっての流れ星はこの私だよ」

 私は自分でそう言って腑に落ちた。

「私の声は流れ星。たくさんの歌の欠片たちを集めて、無色透明を色づけて。あなたの、流れ星の正体を突き止めてね」

「おまえのアイディアをちゃんと形にできるかわからねえけど、道を辿っていけば、流れ星の正体に辿り着けるのか」

「まずはマリンスタジアムだね。下北沢からマリンスタジアム行の、『銀河への船』が出港いたします!」

「おめえ、ロザリオ失くしただろ」

 私は首を横に振った。失くしたわけではなかった。

「おめえが何も言いたくならいなら、それでもいいが、心配掛けんじゃねえ」

 心配掛けたくて掛けている訳じゃあ、ない。そんなことを言う位なら、卒業式の日に会いに来て欲しかった。藤原さんにとっては、プロデビューはひとつのケジメの時期だったのかもしれないけれど、私にとっては中途半端な時期。私はまだ、春に新学期を迎える学生だった。自由だって、高校生の時ほどじゃないけれど、制限されている。下北沢にだって、危ないから来ないようにって言われた約束を、ちゃんと守ってる。藤原さんみたいに、家族に心配掛けて、自由に振る舞ったりできない。心配掛けるななんて、意味わからない。

「おめえは話したいことはないのか」

 私の不服そうな態度を察知して、藤原さんが心配そうに顔を覗き込んでいる。

「私、思い出したんです」

「何をだ?」

「草野正宗さん、『遥か』で“I love you”って言ってる」

「はるかにアイラブユー?」

「俺、それわかる。『遥か』って曲だよ」

「藤原さん」

「俺は言わねえ。おめえは帰って寝ろ」

 私は、頷いた。藤原さんから離れた。横断歩道を渡ろうとすると、藤原さんに両肩を掴まれて、まるで抱きすくめられるように制止された。私ははっとして軽くため息をついた。

「おめえ、赤信号だぞ」

「ごめんなさい。白猫が渡っているのが見えた気がして」

 私は時折、ミルクに似た、白猫が自分の周りにまとわりついてくるような錯覚に陥ることがあった。嫌がらせで、気持ちが不安定になるようになってからだ。ひとりで外を出歩くのを不安に思っているからかもしれない。つい、ぼーとしてしまう。

 藤原さんは、信号を往復させてくれた。その間、私は、自分の両肩に寄せられた藤原さんの優しくて温かい手に、安堵していた。立ち止まる足に、感覚が戻ってくるのを感じた。

「もう、大丈夫だ。気をつけて帰れよ。振り返らなくていい」

 藤原さんの声は、耳元で優しく響いた。私は頷いて、振り向くことなく、自転車置き場に向かった。街路樹の奥だ。

自転車なら大丈夫だ。徒歩で帰るより、安心だ。どこにとめたっけな?とひとりごちると背後から、おい、と声がした。藤原さんだった。横断歩道を渡って追いかけてくれてきたらしかった。私は追いかけてきてくれたことが嬉しくて、思わず抱きついた。

「今、おいでって言った?」

「いや、抱きつかれると思わなかった」

「腕のなかにおいでって言われたのかと思った」

「なんで抱きついたんだ?」

「追いかけてきてくれたことが嬉しくて、つい。ごめんなさい。離したほうがいいですか?」

「抱きつきたけりゃ、抱きついてろ」

「良かったあ。三毛猫の殿」

「三毛猫の殿ってなんだ?」

「あなたの新しいあだ名。もう放蕩はしないみたいだから。自転車置き場って落ち着くね」

「ふたりっきりだからな」

 私は藤原さんの体温を確かめるように、しばらくそうしてくっついていた。藤原さんは私を包むようにそっと腕をまわしてくれたあと、ぽんぽんと背中を撫でた。

「送ってってやる」

 私は遠慮したが、藤原さんはもう、12時過ぎたから、おめえが心配だから、と言ってゆずらなかった。私は藤原さんの漕ぐ自転車の後ろに横向きに掛けて藤原さんに掴まった。背中に耳をあてて体温を確かめるようにしていると、あたまの中に、イヤホンで聴かせてもらった「天体観測」のアルペジオが流れてきた。



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瞬き ー天体観測ー 山本 日向 @tomatoishi

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