第12話 体育祭

 きゅっと握りしめている原稿を、けんめいに、でも書かれているそのままを読み上げている。朝礼の最後に体育祭のお知らせをするために壇上にいる。

「ぜんぜんきこえねーぞー」

 野次が飛んできた。私は一瞬息をのんだ。小さく深呼吸して続きを読み上げる。

「ちゃんとかおあげろー」

 まただ。私は原稿からちらっと顔をあげて、講堂全体をさっと見た後、もう一度原稿に戻った。

「きこえねーっていってんのがわからねえのかー」

 私はどうしようもなくなって原稿から手を離し、両手をきゅっと握りしめて、顔をあげた。どこから声がするんだろう。何故野次を飛ばすのだろう。

「マイク使ってんのにきこえねーわけねえだろ」

「ナイス野次」

「野次じゃなくて声援って言って欲しかった」

「なんで?声援なんて講堂で不謹慎だろ」

「講堂で不謹慎って何?」

「不謹慎なやつ発見」

「不謹慎なやつ逮捕しろ」

「不謹慎なやつはええと」

「もういい」

「誰か言え」

『おーい、誰か言え』

 電話の声も混じっている。私は野次を飛ばされ、原稿がすっぱり頭から抜け落ちてしまった。顔をあげて、段々に並んだ長椅子にすわる生徒を眺めてみた。何かおかしい。いつもと違う。

 誰かが手をあげた。剣道部の佐々木くんだ。佐々木くんのまわりにいるのは剣道部員たち。今日は部活ごとに集まってすわっているみたいだ。一番うしろに陣取っているのは高木くん率いる野球部員だった。

 高木くんが立ちあがって大きな声で言った。

「今日は皆、弥生の味方だから」

 どういうことだろうか。

「今日の議題はなんですか?」

 私はため息をつきながらそう言った。

「不謹慎にしろ!」

 その声を合図に講堂で野次合戦が始まってしまった。

「講堂で野次を飛ばしていいのかって」

 どうやら文化祭本番のために、講堂で野次を飛ばすいたずらを企てた野良と、それを阻止しようとする治安維持部隊が対決しているらしかった。

「荻野はそこに立ってて。俺たち文化祭の予行演習がしたいだけなの」

 私は頷くことしかできなかった。

「講堂で野次飛ばすの、野球部だけにして!」

「アコースティックにしてやれって」

「野次の精神をアコースティックに限定」

「荻野が信じているの、野球部の野次だけだろ」

「それより剣道部の方が尊くない?」

「荻野、安心して!今日の布陣は野球部に任せて」

「荻野、落ち着いて!そこに立っているだけで構わないから」

「それより荻野、何喋ってたの?」

「プログラムは去年と同じなのかって」

 私は頷いた。

「了解!」

「荻野、心配すんな!」

「なんかあったら俺たちで何とかする」

「なんで?」

「荻野、王子様より、俺たちのグラウンドの方が大事なんだって」

「グラウンドより講堂の方が野次は不適切だろ」

「講堂よりグラウンドの方が大事だろ」

「なんでスピーカフォンを展開してるの?」

「藤原さんの出禁解きたくて」

「不謹慎じゃないの?」

「おまえが不謹慎なんて言葉使うなんて、いつも下ネタ喋りまくってるだろ。このえろがっぱ」

 えろがっぱって・・・。

『俺が立法政府立てようか?』

 斎藤宏介さんの声がした。皆が笑い出した。今日の野次合戦は秘密組織も絡んでる。

「なんで荻野さんだけ守るの?」

「あなた何なの?」

「茶道部」

「そういうおまえは何なの?」

「ブラスバンド部」

「それよりまずハンドベル部が講堂の使用許可を」

「ハンドベル部はアコースティックギターだけならいいって。できたら斎藤宏介さんだけが良かったけれど、みんなまとめて下北沢しょうがないって」

「おまえ出る幕ないんじゃないの?この前斎藤来た時、講堂で遅くまで話し合ってたじゃん」

「それはあくまで個人的話し合いを出ない領域のもので」

『俺が仕切ってあげた方がいいの?』

「その前に何がしたいのか言っておけ」

「斎藤宏介と話しがしたいんだって」

『了解』

「茶道部はどうすんの?」

「例年通りでいいです」

『じゃあおもてなしは野球部OBだけかあ』

「俺、荻野が笑わなかったら死んでた。ちなみに俺はえろがっぱって言った張本人ではありません。神様俺たちを赦してくれますか?」

「男が神様って使うな」

「おまえ、やめろ、喋るな。おまえが一番神を冒涜しているのがわからないのか。いいか良く聞け、野次って言うのはな」

「中野は黙っとけって。馬鹿がバレるだけだろ」

「野球部が連携取り出した」

『神様は赦している・・・これあたし喋っちゃいけなかった?』

「『えろがっぱ』についてはあとで回収します」

「ダンス部はどうするの?」

「なんでえろがっぱって言っちゃたの?おまえ今日のミーティングで集団リンチに合うんじゃないの?」

「間に入れてあげるで、解決してるんだって」

「荻野!俺たち大丈夫だから!」

「先輩の名に懸けて!」

 私は野球部の集団の方を見て頷いた。

「その前に」

 私は女の子の声の方を見て、右手をあげた。その声の主も右手をあげた。私は彼女を促した。

「私はハンドベル部です。今年は外部の人を呼ぶのは止めた方がいいと言う先生もいましたが、ハンドベル部は今年も斎藤宏介さんと田淵智也さんに来て欲しいです」

「それ、俺がなんとかするわ」

『ありがとう。俺もなんとかしたい。嬉しい』

「野球部と連携取って!」

「あとは素行が不良じゃなければ!」

「荻野!」

 高木くんが私の名を呼んだ。野次合戦を締めなくては。

「体育祭の目玉は、部活対抗リレーです!」

 一瞬しーんとなった。私はそれしか言うことが思い浮かばなかった。

「そんなことわかってぞー」

「これ野次終わりにしての合図だったんじゃない?」

「目玉って変じゃない?」

「おまえが野次飛ばしちまったらやつらに隙をあたえるだろ」

「しょうきんはでるのかー」

 私は軽くズッコケた。

「ほれみろ、荻野困ってるだろ」

「誰か助けてやれ」

「こういうときの野球部」

「荻野、ちゃんとして。実行委員長でしょ」

 高木くんが助け船を出してくれた。

「でた、天の助け」

「答えるだけでいいから。俺たちの方を見て。俺たち今日、野次飛ばしてないでしょ」

 私は高木くんをちゃんと見て、頷いた。

「賞金なんぞでるわけがないでしょう!」

 私ははっきりとした口調でそう言った。

「しょうひんはー」

「しつけーぞ、渡部、いい加減にしろ!」

「すんませんした」

 小さくそう言って、渡部くんが片を竦めているのが目の端に見えた。

「賞品は・・・考えておきます。以上、体育祭実行委員会からのお知らせでした」

 私はなるべく語尾を強めに発音して、そう締めた。

「お知らせってなんだったの?」

「目玉賞品のお知らせだろ」

「考えておきます、じゃなくて、ありませんって言って欲しかった」

「また野次飛ばされる羽目になるだけだよな」

『もう一声。まだ壇上にいるんでしょ』

「またフォローされてる」

「締めろー」

『まだ諦めるな!』

「目玉は部活対抗リレーだからな」

 高木くんがそう言った。

 私は後方列にまとまって立っている野球部員の方を見て頷いた。

「ここは俺たちの溜まり場だから、何かあったらここを見ろ!」

「頷くなー。野球部におまえの不始末押し付ける気かー」

「不始末なんかねえだろ」

「おまえの不始末かって」

 一礼した。自分の席に戻ろうと歩き出した。もう皆の方は見ない。

「どうしよう、俺、言わなきゃ良かった」

「誰のために言ったの?」

「藤原になんとかしてもらおうと思って」

「藤原って名前言っちゃった」

「藤原、あいつ出禁な」

「もう出禁になってるだろ」

「なんで?」

「おまえ知らないの?あいつ職員室の」

「それ以上ここで言うなって」

 私はため息をついた。講堂で不謹慎なんだって。チャペルでもあるのに。

「誰?」

「野望よりマズくない?」

「そんなこと講堂で言っていいの?」

「あーおまえ、どうしようかな?」

「なんでおまえ言っちゃたの?」

「一礼してくれて助かった」

 高木くんの声だ。見なくてもわかる。

「おい、荻野ピッチャーの声に反応したぞ」

 野次、飛ばすの終わりにしてもらわないと。講堂で不謹慎は怖い。

「荻野、まだ責任全うしようとしてる」

「なんで藤原なんかの話ししたの?」

『ここは野球部信じて、体育館の部活に身を任せたら?』

「あなたをゆるします」

『荻野って今どうしてるの?』

「階段のいちばん下にいます」

「ピッチャーと会話してる」

「講堂は締めて、グラウンドに持ち越し」

「この学校の名誉が掛かってる」

「問題児勢ぞろい」

「荻野」

 高木くんが私を呼んだ。私はもう一度高木くんを見た。やっぱりエースピッチャーの存在感で、この学校は保たれてる。私は感謝の気持ちを込めて、軽く頷いた。

 最後の階段を降り、壇上を去った。

 文化祭も、もちろん体育祭も、きっと大丈夫だろう。

 自分の席に戻ってすわったら、ほっとして、原稿を丁寧に膝の上に置いたあと、小手でおでこを軽く撫でた。


 体育祭当日。良く晴れた、空が高く広がっている。いつもは野球部しか入れないグラウンドに、皆が集まっている。ちゃんと準備してきた。滞りなく、すべてが済めばいいけれど。

 今日は朝から落ち着かなかった。朝練の時、声を掛けられても、ちゃんと返事ができない程に。

 さあ、ラジオ体操。緊張し過ぎて手に変な汗をかいてしまって、ドキドキが鼓膜まで響いている気がする。階段を一段ずつ慎重にあがり、そーっと朝礼台の中央に立った。最初の試練だ。下を向いたまま手をグーパーして、ふーっと呼吸を整える。きちんとやり遂げなくては。ラジオ体操第一が始まった。私はうつむき加減のまませいいっぱい伸びをする。

「やるきあるのかー」

 後ろのほうから大きな声の野次が飛んできた。渡部くんだ。私は体をびくっとさせた。

「おい、野次飛ばすのやめろ」

「緊張してんのはみんなわかってるから」

 この声は野球部員。フォローの野次だ。ラジオ体操をしながら皆がざわつき始めた。私は一瞬動きを止めた。まだラジオ体操の音楽が流れていることをちゃんと認識できて、少しほっとした。震える手を軽く握り合わせた。

「手本がなくたってラジオ体操くらい皆できるから」

「しっかりしろー」

「だから野次飛ばすのやめろって」

 私は瞬きもせず、その声を拾った。

「大丈夫ですか?」

 一番前に居た緑ジャージの一年生男子が声をそっと声を掛けてきた。

「少し顔、あげたほうがいいんじゃないですか」

 そう声を掛けられて、頷いて目くばせで感謝の気持ちを込めると、前に向き直ってグラウンドの遠い一番端を見つめた。ラジオ体操なんて小学生でもできる、大丈夫、大丈夫、大丈夫、と唱えた。私はゆび先の感覚が戻っているのがわかって、ラジオ体操の音楽に合わせてせいいっぱい体を伸ばした。やっとの思いで終わらせた。

「おわってよかったですね」

 さっきの男子が少し笑顔を見せてくれて。私はほっとして、やっと視覚と聴覚がクリアになった。私は声を掛けてくれた男子から目を離し、全校生徒をぐるりと見渡してみた。同級生だよね、そう腑に落ちて、見知った顔を何人か認識することができた。最初からもっと落ち着いていればよかった、と思った。

 ふと気が付くと台の下で紫が、こっち、と合図していた。私は一呼吸おいて、これでラジオ体操をおわります、と言おうとした。

「ごほうびはー」

 まただ、また渡部くんの声がした。笑い声が漏れた。

 私は”ご褒美”と言う言葉に嫌な予感がした。この前の講堂では野次合戦になり、仕舞いには不謹慎な言葉が飛び出した。

 私はそれを振り切るべく、思い切り息を吸い込み、演歌の一小節を渾身の力を込めて歌った。


    あなた 変わりはないですか 日ごと寒さがつのります

    着てはもらえぬセーターを 寒さこらえて編んでます

    ああ、津軽海峡冬景色


 台上でもし困ったら演歌を歌え、と、不安がる私に、朝練班が助け船を出してくれていて、それに従ったのだ。

 一瞬とまどい、間があったあと、誰かがあきれた声を出した。

「おい、なんで演歌なんか唄うんだよ」

 私はため息をひとつついて、

「ご褒美と言われたので。グラウンドでの全力下ネタ回避のためです。講堂では不謹慎だったので、グラウンドが最後の砦になるように」

 とまくしたてるように言った。

 グラウンドの皆がざわつき始めた。

 緊張はまだ続いていたけれど、私は目が覚めたような気持になった。

「下ネタよりは演歌の方がいいな」

 荻野くんの声だった。エースのピッチャーの声は絶大な影響力がある。

「すまなかった」

 中野が突然謝りだした。中野と渡部くんが仕掛けたいたずららしかった。

 またしても野次合戦が始まってしまった。講堂での野次合戦の再来だ。

 私は声のする方を目で追った。野球部はグラウンドにジャージの生徒が立ち入るのが気に入らないようで、次第に怒り出した。いろんな野次が飛んだ。

『今日も俺が立法政府立ててあげようか、なんて、弥生、すごい度胸じゃん』

 斎藤宏介さんの電話の声が響いた。今日もまた秘密組織も絡んでいたのか。

「弥生は俺たちのグラウンドを守った」

 中野が涙声になって言った。私は中野の馬鹿に少し顔が綻んでしまった。中野はグラウンドの神様を信じている。そして、校内で唯一残された処女である(と中野だけが思い込んでいる)私に4番バッターとしてホームランの願掛けをしてくる。涙目になるくらいならいたずらなんてしなければいいのに、と私は毎回いたずらされる度に思う。

「グラウンドじゃなくてダイヤモンドなんだって」

「マウンドの方が大事だろ」

「マウンドはダイヤモンドの中だろって」

 私は野次が少し落ち着いたのを確認して、一礼したあと、急いで台を降りた。

 紫が駆け寄ってきた。私は立ち眩みがして、足元がふらつき、両手で顔を覆ってため息をついた。

「どうした?大丈夫かって皆、心配しているよ」

 野球部員たちも駆け寄ってきてくれた。

「ちょっと眩暈がして。ごめんなさい」

「野球部、野次悪かったって。プログラム通り進められる?」

「その方が安全なんで、やりましょう」

 声にもならない声を出して、私はそう言った。

「いや、用意できていて、去年と同じなんだったら、今日は俺たちに任せてもらえる?今日はさ、グラウンドは女人禁制にしてさ、女の子は応援にまわってもらってさ。せっかくだから、俺たち野球部が先導して体育祭実行してみようよ」

 野球部員たちが大勢集まってきて、皆で頷き合っている。

「弥生、驚かないでくれる?トラックからダイヤモンドを守ってくれたお礼にさ。俺たち野球部が主催して体育祭を進めるよ。去年の委員長も助けてくれるってさ。皆で手分けしてさ」

 体育祭用にトラックを整備する業者とは、実行委員長として、私が立ち会って話しを進めた。去年はトラックがダイヤモンドに干渉していて、そのことについて先輩が愚痴をこぼしていた。トラックを去年と同じにもできなくて、考えた末、なるべく外野のスペースに設置してもらうことにした。トラックは、去年より、だいぶ道路寄りだ。それでダイヤモンドへの干渉を阻止した。それを皆わかっててくれたんだと思ったらほっとした。

 野球部員に進行表を渡し、その張り切って仕切る様子を眺めた。女子は、応援と、体育館でクラス対抗バトミントン大会。男子はトラックで、綱引きや騎馬戦などをすることになった。グラウンド、女人禁制の体育祭なんて、この学校始まって以来のできごとだろう。野次合戦から、こんな流れになるとは思わなかった。私はテントのはじっこの実行委員本部の椅子にすわって、それらをぼーっと眺めていた。


 「ちょっとこっち来て。ここに立っていろ」

 野球部員が実行委員本部席で待機していた私を大勢で取り囲み、トラックのゴール付近に引っ張って連れていった。これから体育祭の最後のプログラム、”目玉競技”である部活対抗リレーがはじまる。

「おまえ、おもしろいからここでご褒美として立ってろ」

 野球部員が私の肩を掴んで言った。

「でも、実行委員の仕事もありますし、こんなところに」

 私は翔之介の姿を探した。目を合わせても肩をすくめるばかりだった。私を取り囲んでいるのは三年生の野球部員らしかった。お互い三年生には逆らえない。

「いいから、いいから、くれぐれもおとなしくしててね」

 トラックの反対側を見ると、出場選手たちがもう準備して位置についている。

「じゃあ、俺たちは観客席に戻るから、ここに居てね」

 私は仕方なくその場に留まった。三年生の野球部員たちは席に戻っていった。

 リレーは、野球部の圧勝だった。凄い盛り上がりを見せていた。

「おい、おまえ、目障りだったぞ」

 走りおわった野球部員が話しかけてきた。軽口だとわかっていたけれど、皆に注目されてしまった。私は一瞬で緊張した。

「ご、ごめんなさい」

 私はそれだけ言うのでせいいっぱいだった。

「なんだよ、おまえ、ラジオ体操の時の勢いはどうしたんだよ」

「おまえが賞品で演歌なんか歌うから、俺たち勝手にセミナーハウスの使用権賭けちゃって。俺たち本気の布陣で走らされる羽目に」

 あたまをぽんとされ、私は深呼吸をひとつした。

「あれな、間違ってたけど、石川さゆり好きよ」

「あれ、石川さゆりなの?俺それ聞いておまえ許すことにするわ」

「いきなり唄いだしてすげーびっくりしたわ」

「そんなに下ネタ振られるの嫌だった?」

 私を取り囲んだ野球部員が次々に話しだした。次第に輪の人数が増えていく。

「あいつ、渡部しつこかったもんな」

「程々にしとけってあとで言っておくか」

「野良どもに勝ててほっとしたわ」

 渡部くんが野球部員に押し出されてやってきた。

「俺の名前呼びました?」

 渡部くんは情けない声で小さくそう言って輪に無理やり押し込まれた。

 渡部くんはここぞとばかり、野球部の追及にあっていた。サッカー部はいわゆる風紀を乱す“野良”の代表格として、皆の頭痛の種なのであった。

「OBの人にいつも、サッカー部は大丈夫なのか、って訊かれるんだよ。おまえに訊いてもなんも言わねえし。今まで、病院裏で悪いことできませんから、で通してきただろ」

 サッカー部は校内に練習する場所がなく、すぐ近くにあるセントマーガレット病院の厚意で裏手にある広大な空き地を無料で提供してもらって、そこを練習場所として使わせてもらっていた。部室はそこに用意されたプレハブの建物を使っていた。

「それより、おまえ、弥生が高橋監督に呼び出された時、何で慌ててついてったんだ?皆、野良が余計な口出ししたから弥生が野球部のマネージャを反故にしたって噂してるんだぞ」

 そんな噂が立っていたなんて思いも寄らなかった私は、高橋監督が、と言いかけた。翔之介に助けを求めたくなって、あたりを見回した。私の様子に気が付いた翔之介も側にきてくれた。

 渡部くんは問い詰められて、黙ってしまったが、野球部員にどつかれて、慎重に言葉を選ぶように、

「暴力的な方法で屈服されらるのかと思って、心配してついていったんですよ」

 と言った。

「暴力的な方法って何だよ」

 渡部くんは、さらに慎重に、

「いや、仁王立ちした監督に跪いて誓いを立てさせられて、それがマネージャー就任の儀式になるのかと思い込んでいて・・・」

 と続けた。

「あー、やだ始まった。野良の馬鹿話し」

「野球部の監督がそんなことするわけないだろ」

 野球部員が語気を荒げて言った。

「俺たちの間ではそれが常識なんです」

渡部くんがそう言うと、野球部員たちはあきれた顔で苦笑いした。渡部くんがその様子を見て、情けない声を出して、

「自分の彼女にはそうしてもらったんです」

 と続けた。

「なんでそんなことをさせてんだよ?」

 渡部くんは挙動不審に陥って、

「こいつは俺の女だ手を出すなっていうことを示すための儀式なんです。サッカー部ではみんなそうしてます」

 と、みんな、を強調して言った。

「宣言するだけじゃ、自分の彼女って認められないの?」

 渡部くんはさっきより小さな声で

「言うだけじゃ、ちゃんと彼氏と彼女って認められないんです。サッカー部の奴らは野球部の人たちとは違うんです」

 と言った。

「儀式とか言って、くだらないことばっかやってんなよ。俺たちおまらのこと何て言ってるか知ってんのか。野良サッカー同好会って呼んでんだぞ。あー俺やけくそでも、リレー、おまえらなんかに負けなくてほんと良かった」

 私も、ほんと良かった、と思った。

「女の子にそんなことしてるなんて、OBの人たちにも話せないよ。俺たちOBの人たちに凄い支えてもらってるから、逐一学校のこと報告しないといけないんだ」

野球部員たちは心底呆れて困っているようだった。

渡部くんは申し訳なさそうに、

「でも、元気よくボール遊びするのが僕らの務めなんで」

 と言った。

「だったらそれだけしてろよ」

「それ言われると、なんも言えねえけど」

「留め刺してえよなあ」

「隠れて部室でタバコ吸ったりしてねーだろうな」

「部室じゃなくて、プレハブ小屋じゃねえのあれ?」

 そう訊かれて、少しの間があったあと、渡部くんは、

「一回だけやりました」

 とこたえた。

「馬鹿野郎」

野球部員のひとりが大きい声をだして渡部くんの頭に鉄拳を食らわせた。

私も、渡部ばかやろー、と思った。

「何やってんだよ、おまえらは」

 渡部くんはまた挙動不審になってきた。

「すいません。それが俺たちはサッカー部の仲間だっていう証の秘密の儀式なんです」

たぶん渡部くんひとりの責任じゃないと思うけど、私はサッカー部の馬鹿さ加減に、野球部のひとたちが気の毒になった。儀式ってなんだよ、カトリックの教えを守る学校なのに悪魔でもとりついたんか。

「儀式かなんか知らんけど、とりあえずタバコは一回でも止めろ。共学を守るには野球部の強化は絶対で、俺たち学校のために一生懸命練習頑張ってるんだ。おまえたちの不始末のせいで、試合に出られなくなったらどうするんだ。これ、おまえら知ってたの?皆、初耳なんだ。高校野球ってのはな、学校と一蓮托生で、連帯責任が基本なんだ。試合に出られなくなったら、この学校終わりなんだって」

強い口調でそう言った。

「私もやめてほしい」

こういう時は口を挟まないほうがいいと思ったけれど、思わず言ってしまった。

皆で小さくなっている渡部くんを見た。

「タバコはもう二度と、絶対やるんじゃねえぞ」

私はその声を聞いて怖くなった。本当に毎日頑張っているんだもの、怒って当然だ。

「毎年やってんの?おまえらの先輩も後輩も、皆、馬鹿なの?」

「それは絶対に止めさせます」

渡部くんは姿勢を正してきっぱりと言った。そんなのえばるようなことじゃないよ。

「OBの先輩には相談できても、先生には言えねえじゃん」

「聞きたくねえことばっかり聞かされて疲れたわ」

「ほんと、ろくでもねえな、野良サッカー同好会はよ」

「今日は野球部緊急ミーティングだよ、これからサッカー部もっと締め上げねえと」

「俺ら練習で疲れてるし、忙しいんだから、迷惑掛けるようなことすんじゃねえぞ」

 渡部くんは泣き出しそうな声で、

「野球部の人たちに絶対迷惑掛けたらいけないっているのはわかっているんで」

と言った。

「わかってねえ!」

 怒鳴られた。私ももの凄く驚いて、思わず翔之介の腕を掴んだ。

「儀式が好きならボール囲んで円陣組んで、元気に合言葉でも言ってろ。そのほうが病院の人たちも喜ぶだろ」

 野球部員がため息をつきながら言った。

 渡部くんは情けない声で

「おっしゃる通りです」

と言って小さくなった。私は病院裏の野良サッカー同好会と、野球部の練習するグラント(体育館も)との隔たりの遠さを想った。


 私は、体育祭実行委員長の任をやっと解かれて、外階段にすわって人がまばらになったグラウンドをひとり眺めていた。体育祭は、後片付けまで滞りなく終わった。野球部主導の“グラウンド女人禁制”の体育祭は、野球部員たちがグラウンドを大切に思っていることを、生徒たちに示すこととなった。私たちの校風は、野球部員の守る新しい伝統に守られている。

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