第8話 アリスと相棒


「おはよう、山口くん」

 私は廊下側のいちばん後ろの席にすわる山口くんに挨拶した。

「おはよう、弥生。今日は朝練に大勢で押しかけて悪かったな」

 山口くんは申し訳なさそうにそう言った。山口くんが謝ることないのに、と思った。山口くんは普段落ち着いた立ち居振る舞いの人で、朝の挨拶でいちいち大騒ぎしたりしない。私は、大丈夫と言いながら、後ろから2番目の自分の席に着いた。

「今日、斎藤宏介さん、あらわれたね」

 私は荷物を机の横に掛け、後ろを向いて山口くんに話しかけた。

「俺も今日、初対面だったよ。秘密基地の基地団のことって詳しいことは代々、ピッチャーしか知らなくて、いつもスピーカフォン越しだったから」

 山口くんは秘密を共有できる相手と話せることに安堵しているようだった。

「山口くんも初対面だったんだね。斎藤宏介さん、野球部のユニフォーム着てたね」

 私がそう言うと、山口くんはバツが悪そうな顔をして小さな声で

「ユニフォーム着てもらうのさ、俺はちょっと躊躇したんだけどさ」

 と言った。続けて、

「高木と一緒に何か企んでるみたいだったから、荻野も気を付けて。今日は俺が荻野をフォローしてあげられるかどうかわからないから」

 と言った。山口くんとふたりで話し込んでいると、翔之介が駆けてきた。翔之介は思いっきり走ってきたみたいで、息を切らしていた。

「翔之介、大丈夫?」

 私がそう訊くと、左手で私の右手を掴み、

「弥生、荷物持って、来て」

 と言って私を引っ張った。私は慌てて机の横に掛けていた鞄を掴むと、そのまま翔之介に従った。

 連れて来られてきたのは、いつも集まりで使う、1階のいちばん職員室に近い教室。たしか普通クラスが使っている。教室には誰も居ない。その代わり、廊下には人だかりが。

 翔之介はいちばん窓側の、真ん中の席に私をすわらせた。

「合図があるまでここに居て」

 と言い、私をひとり残して、また走り去ってしまった。

 普通クラスではわりと頻繁に、授業そっちのけでスピーカフォンを展開することがあった。先生も制止することができず、黙認していた。

 予鈴がなった。廊下に居た人だかりも捌けていった。このクラスの生徒は一体どこに行ってしまったのだろう。窓から向かいの教室棟の教室を見ると、それぞれ席についているようだった。

 私は仕方なく大人しくすることにした。鞄から文庫本を取り出して、栞を挟んだ箇所から読みだした。「鏡の国のアリス」だ。

 17ページ読み進めたところで声を掛けられた。

「今日は草野マサムネさんじゃないの?」

 美織だ、と確かめて、読みかけの箇所に栞を挟んで、席を立った。

「待って!」

 教室の後ろのドアの方から大きな声がした。声のする方を見ると、山口くんが立っていた。山口くんは

「俺がここに居る間は席を立たないで。野球部員の総意だから安心して」

 と言った。私は美織の顔を見た。美織も頷いた。私は仕方なくもう一度席に着いた。美織はポケットから携帯電話を取り出して私に見せると机の上に置いた。

「今日は私が電話番なの。藤原さんが話したいんだって」

 “藤原さん”と聞いて、私は不安になった。私はため息をついて、山口くんの方を見た。山口くんは私を見て頷いた。

「藤原さんは美織と私が特進だってわかっててやってるの?もう予鈴鳴ったけれど」

 私はなるべく落ち着いた口調でそう言った。すると美織が

「私も責任取れる範囲になくて」

 と言った。私たちは互いに顔を見合わせて困ってしまった。私はもう一度、山口くんが後ろのドアのところに立っているのを確かめた。

「でもとにかく話を聞いてみようか」

 美織は言った。私はもう一度、山口くんを見た。大丈夫みたいだ。頷くしかなった。

「私も一緒にすわって聞いてていい?」

 美織に訊かれて、私は、もちろん美織が一緒なら心強い、と返した。美織は私の前の席の椅子をこちらに向けてから椅子に腰掛けた。

「藤原さん、話しかけていいですか?」

 美織が電話口に向かって訊いた。

『どうぞ。藤くんの声じゃないけれどいいかな?』

 斎藤宏介さんの声だった。私は思わず腕にはめられた時計を触った。

「先に彼女に話していいですか?彼女心配性なんで」

 美織が言った。

『どうぞ』

「今日は、弥生が体育祭の実行委員長だから、弥生に話しかけているんだって。そのことは藤原さんもバンギャルちゃんに配慮してくれてて、心配しないで欲しいって」

 美織は慎重に言葉を繋いだ。藤原さんは人気者で、本人が思っている以上に波乱の原因になる人だった。藤原さんに話しかけられたり、藤原さんのバンドのライブのチケットを優遇してもらったりすると、バンギャルちゃんから、抜け駆けするな、の嫌がらせが発生するのであった。私には与り知らぬことではあるけれど、バンギャルちゃんの世界のヒエラルキーは絶対なのであった。

 私は緊張して肩に力が入ってしまい、呼吸が浅くなってしまっていた。不安そうな私を見て、美織が山口くんに、翔之介連れてきて!と大きな声を出した。山口くんが野球部員に合図を送るのが見えた。

「私たち、特進の授業が掛かっていて、先生に許可取ってない、というか特進クラスじゃゆるされないので手短にお願いします」

 と美織が言った。

『了解。弥生、俺の声わかる?返事して』

 斎藤宏介さんが優しい声で言った。

「はい、わかります。斎藤宏介さんですよね」

 私はひとつ深呼吸をしてから小さな声でそう言った。

『藤くんの代わりに俺が喋るからね』

「はい」

『藤くんがね、今日も生徒掴まえて全国制覇ならぬ、千葉英和高校制覇のために野望を燃やしてるの』

 斎藤宏介さんの声が明るく響いた。

『それの足掛かりとして、実行委員長に手を付けようという話になって。その矢先に弥生ちゃんが朝練班としてセミナーハウスの使用権をかけて実行委員長の仕事をすることになっちゃって、不祥事の件がそれに伴う俺たちの野良が原因で起こったことだから、まず謝っておきたいってことで』

 斎藤宏介さんがそう言うと、

『迷惑掛けてすまなかった』

 藤原さんの声だ。

『あらら、藤くんが直接謝っちゃった。藤くん、弥生のためにも黙ってた方がいい。話しかけちゃうとバンギャルちゃんが騒ぎ出しちゃうから』

 斎藤宏介さんが慌てた口調で言った。

「私も怖いです」

 美織が言った。私は美織の顔を見た。美織は微笑んで頷いた。私は緊張していたけれど、できるだけ失礼のないように丁寧に

「謝っていただいても事情がよく飲み込めないんですが、お気遣いいただいてありがとうございます」

 と言った。続けて

「体育祭の委員長の仕事は、女子バスケットボール部員として、朝練班として、せいいっぱい務めます」

 と言った。

『藤くんは朝練班の人たち、大事にしたいって言っているし、俺たちも陰ながらに応援するから』

 斎藤宏介さんが言った。

「何もしてくれない方が平和ですよ」

気が付くと側に翔之介が立っていた。私は翔之介の顔を見上げて心底ほっとしてしまった。

「じゃあ、私たちそろそろ。今日は進学クラスかって先生に言われているみたいなんで」

 美織が言った。

『まだ話し終わってないよ』

 私たちは困って顔を見合わせた。

 男子生徒がひとり、私たちの元にやってきた。となりの文進クラスの野良部長だ。

特進が授業中にスピーカフォンを展開すると学校を守りきれなくなるだろうから、と特進と文進で連帯責任にする、と先生に交渉して、特進と文進の授業を両方自習にする約束を取り付けてきてくれた。聖書の先生が許可してくれたようだ。

「じゃあ、特進と文進は大丈夫だね。今ここでスピーカフォン展開して困る人いる?」

 美織が野良部長に訊いた。

「野球部と朝練班がちょっと」

 野良部長が困った顔をしてそう言った。

「野球部と朝練班は私の管轄じゃないから部活の指示に従ってくれる?」

 美織が野良部長に言った。

「オーケー了解。俺ちょっと席外す。すぐ戻ってくるから。リョータにこのこと直接知らせてくる。今日、普通クラスのこと、全部リョータに任せてあるから。すぐ戻ってくるからね、弥生ちゃん」

 野良部長は向かいの教室棟にいるリョータの所へ駆けて行ってすぐ戻ってきた。山口くんと一緒に後ろのドアのところで待機してくれている。普通クラスは全員ちゃんと授業をすることになったようだ。このまま特進クラスの生徒がしかも体育祭実行委員長が授業中にスピーカフォンを展開していたら、体育祭、もしかしたら文化祭の実行にまで影響が及んでしまうかもしれない。それは避けたい。普通クラスは体育祭と文化祭を尊重して大人しくしてくれるのは頼もしい。

『授業のこと、そんなに心配しなくても大丈夫そうだね』

 斎藤宏介さんが落ち着いた口調で言った。

「そうなると残る問題は・・・。グランドとセミナーハウスの使用権だけか」

 美織が呟いた。

「セミナーハウスの使用権は、弥生が体育祭の実行委員長引き受けた時点で解決だろ」

 翔之介が言った。

「あんな不祥事起こしといて、なんでそれでゆるされるの?」

 美織がきつい口調で翔之介を問い詰めた。

「それは高木に訊いて。俺たちからは何も言えないよ。でもおまえらは取り合えず、野球部と海野先生には感謝した方がいいよ」

 翔之介は困った顔をしている。

「私たちは野球部を尊重しているし、海野先生にもちゃんと従っている」

 美織はふくれっ面をしてそう言った。

 美織も私も模範生だった。

 私たちは海野先生の意向で、ハンドベル部と同じように制服を着崩さないという誓いを守っている。着崩すと、風紀を乱す”野良”になってしまうからだ。

 女子バスケットボール部では、美織と私と文が、この誓いをちゃんと守っていた。香菜や他の部員は、校内では守っているものの、学外では着崩していた。そのことは海野先生の与り知らぬことで、それは余計、美織をいらだたせた。

「美織、落ち着いて」

 私は泣きそうな声を出した。翔之介は私のあたまをぽん、として撫でて

「おまえらの行いは、先輩たちの代からちゃんと見てるよ」

 と言った。美織も目に涙が滲んでいた。自分たちさえ良ければいい、という”野良”と、プライドの高い英語科と、新しい伝統と共に校風を守りたい勢力とで、日々対立していた。

『美織、秀が大丈夫かって訊いてる』

 美織は、藤原さんのバンドのドラムの秀さんと付き合っていた。美織は秀さんの名前が出て来たら泣き出した。私は美織と手を繋いだ。

『美織がバンギャルの模範になりたいって思ってくれてることはありがたく思っているよ』

 斎藤宏介さんが美織をなだめるようにそう言った。美織は黙って頷いた。翔之介はため息をついている。私は美織にかける言葉見つからなかった。バンギャルの騒動に巻き込まれるのは、思った以上にいろんなことを消耗するのだろう。

「あ、これ電池切れそう」

 美織が机の上の携帯電話を取り上げた。続けて

「誰かバッテリーフルの子、電話持ってきてくれる?」

 と電話口に向かって言った。ひとり、女生徒が教室へ駆けて入ってきた。普通クラスの生徒だった。美織がお礼と言うと、彼女は涙ぐんだ。

「藤原さんこのあと、特に普通科のクラスの子たちフォローしてもらえますか。じゃないと私たち怖いんで。なんだか話が長いって騒ぎ始めてるみたいで」

 と美織が言った。

『どうして欲しいの?』

 斎藤宏介さんが優しい声で訊いた。

「そしたらもっと普通クラスの方に電話かけてきてもらっていいですか。藤原さんいないと藤原さん取り合って英語科の生徒が取り締まりしきれないって」

『了解』

 聞き慣れない声がした。電話を持ってきた彼女の顔が青ざめた。その様子を見て美織がため息をついた。翔之介がいらいらし始めた。

「チャマさん、またですか?」

 と美織が怖い声を出した。私は彼女に

「大丈夫?」

 と声を掛けた。彼女は泣き出した。泣きながら首を横に振った。

「黙ってるだけじゃなんにもならないよ!」

 美織は大きな声を出して彼女を叱り飛ばした。その声を聞いて、女生徒がひとり、駆け寄ってきた。

「私が代わりに話します」

 駆け寄ってきた彼女は泣きじゃくる彼女と手を繋いだ。

「あなたは誰なの?藤原さんと電話繋がってるけど、無暗に関わって大丈夫なの?」

 駆け寄ってきた彼女に美織が怖い声で訊いた。

「普通クラスの、リョータの彼女です」

 彼女は小さな声で、でもはっきりとした口調でそう言った。

『しょうがないな。じゃあ俺が立法政府を立てよう。本当は立法政府は弥生のためにとっておきたかったけれど、泣いている女の子のことをほっておくことはできないからね。泣いている君。君は一体どうしたのかな?』

 斎藤宏介さんが落ち着いた口調で言った。その声を聞いて、私たちは少しほっとしていた。駆けてきた彼女が切り出した。

「チャマさんに抱かれた私はこれからどうやって生きて行けばいいですか?」

 美織と翔之介は肩を落としてため息をついた。私は驚いて目を丸くした。ひとつ深呼吸をして、両手を胸の前できゅっとした。

 私たちは”野良”と決別するために、キリスト教の教義を守る学校の生徒として、密かにバージンの誓いを立てていた。それは女子バスケットボール部とハンドベル部の先輩から継ぐ新しい伝統で、制服を着崩さないことと同じように、守るべき最重要事項だった。それは他の部にも波及をして、大半の生徒が守ることを前提として学校生活を送っていたが、バンギャルちゃんたちはそのバージンの誓いを守る派と守らない派で二分していた。

 泣きじゃくる彼女が泣き崩れて膝を折って床に座り込んでしまったので、翔之介が抱えて椅子に座らせた。

「泣くなんてズルい。泣くくらいなら私の指示に従って欲しかった。チャマさんのせいで、バンギャルの統制が取れない。チャマさんのせいで風紀が乱れる。チャマさんのせいで治安維持部隊の仕事が増える。チャマさんのせいで」

 美織が怒ってまくしたてた。

「ごめんなさい」

 駆けてきた彼女が謝った。

「あなたもなの!」

「美織落ち着いて!」

 大きな声を出した美織に驚いて、私は思わず美織を制止した。

「私は違うよ。ちゃんとリョータの彼女だから」

 駆けてきた彼女は落ち着いた声でそう言った。

「チャマさんがうちの女生徒に手を出し過ぎなんですよ。うちの高校を征服するってこういうやりかたでってことなんだったら、秘密基地使うの止めてもらえますか?俺たち一緒に文化祭を盛り上げられたらって協力するつもりで。高木おまえ、そこにいるの?聞いてる?」

 翔之介が取り乱した低い声で言った。

 斎藤宏介さんがなだめるような声を出して落ち着かせようとした。

『おっとどうしようか。ちなみに高木はここには、ここにはって秘密基地と言う名の放送室ね。居ないけれど、聞いていると思うよ』

 それを聞いて翔之介は少し落ち着きを取り戻した。

『これは藤くん俺に耳打ちして。あのね、制服女子の割引率を・・・なんとかするって。藤くん英和の制服、大好きだからね。で、チャマに抱かれた女の子はチャマに顔と名前覚えてもらう努力をしろって。え?チャマは一度抱いた女のことは忘れないから・・・なんかね、チャマがね、ライブのあとチケットにサインしてくれるって』

 斎藤宏介さんもちょっと動揺しているようだった。心なしか声が震えている。

「それで大丈夫なんですか?こんな根性なしのために。私ゆるせません」

 美織が少し落ち着いた口調で、でも怒ってそう言った。

『ちょっと待って、今ね、チャマじゃなくて藤くんが考えてる。サインするって言ったのはチャマでそれを藤くんが制止した』

「わかってます。いつものやりとりなんで」

 美織がなおも怒った口調で言った。

『そんでそれを駅員さんに見せたら帰りの切符として入場券渡してくれるって。返事して』

 斎藤宏介さんが優しい口調で促した。

「はい」

 泣いていた彼女が斎藤宏介さんの声に泣き止んで、やっとのことで返事した。

『入場券のことはね、これ以上は介入しないでね。藤くんがなんとかするって。でも藤くんに恥かかせたくないときは、いや藤くんね、俺に恥かかせてくれって』

 私は美織と顔を見合わせた。美織はなんとも言えない顔をしている。多分、私も同じような顔をしているだろう。翔之介は苦笑いしている。斎藤宏介さんは続けた。

『おい、おい、下北沢の駅だけですよ。他の街で藤くんの名前言ってもまだわかりませんよ。これからですよ。特に藤くんの隣街のユーカリが丘の君!』

 斎藤宏介さんは軽口を叩くような口調でそう言った。調子を取り戻したようだった。私は慌てて、

「すみません、個人情報晒して、ネタ要員にするの止めてください」

 と言った。翔之介は

「斎藤、弥生に構うなって」

 と私の言葉にかぶせるように言った。美織はまたひとつため息をついた。駆けてきた彼女は少し笑顔を見せ、泣いていた彼女は泣き止んで頷いていた。

『サインはメンバーではチャマしかしないから、チャマに頼んでって。話しかけられるようにタバコを吸うところに少し長く居てくれるって。チャマは今日を限りの男を永遠に続けて、チャマに抱かれた女は皆その勇気を尊重しろ、やべえ、野次滑った。あのね、チャマね、女の子の口説き方なんとかするって、藤くんに恥かかせる前に。チャマが女の子泣かせたせいで本題から逸れちゃったよ。チャマどうにかして』

 斎藤宏介さんがだいぶ困った口調で言った。

「結局本題は何なんですか?」

 美織がまた怒った口調でそう言った。

『今日は秘密基地団が秘密組織を脱却しちゃうからよろしくって話し』

 斎藤宏介さんが可笑しそうにそう言った。

「弥生、そろそろ、授業に戻ろう」

 後ろのドアのところに居た山口くんが声を掛けてきた。

 私は荷物を持って、美織と一緒に自分のクラスに戻った。


 


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