第7話 朝練
朝練の時間の空気は気持ちがいい。
朝練は私の毎日の習慣になっていた。
早めに学校に行く。職員室で鍵を借りて、部室に向かう。外階段へと廻って、降りながらグラウンドを眺めると、野球部員たちがもう、朝の練習をはじめている。
部室で着替えてコートのある球戯場へ中扉から入る。この時間体育館を使うのは、剣道場で胴着の手入れをする剣道部員と私ひとりだ。
コートでシューズを履く。ボールを慣らしてフリースローを打つ。シュッと小気味いい音をさせて、ボールがゴールに吸い込まれた。
「荻野」
私は声のする方を見た。いつもの、野球部員の朝いちばんの挨拶だ。グラウンドに面した重い扉から、朝日が差し込んでいる。この重い扉は、私がここに来た時には、いつも、もう既に開け放たれている。そして、私を朝練仲間にしてくれる。今日は誰かな?
「荻野、俺のことわかる?」
私は声のする方を見て、それから首をかしげた。今日の声かけは早いな。まだシュートを何本も打っていない。
「今日はね、君にね、フォーリンラブ」
わらえる。野球部員はまんざらでもない顔をしている。ゴールポストに向き直る。
「言いにくいことがあるなら、直球投げて」
私はいつものようにそう言った。
「あのね、君と、まじわりたい」
!?。思わずその声のする方を見てしまった。私は困った、一瞬。今日は直球だなあ。再びゴールポストに向かい、一呼吸置いて、フリースローを投げた。シュッ。ちゃんとはいった。ため息をひとつ。返ってきたボールを受け取って、肩の力を抜いた。
ゴールポストを見たまま、私は、
「ユニフォーム姿で、いいの?」
といつものセリフを呟いた。
そーっとそちらを覗いてみた。野球部員は余裕な素振りだ。
「あのね、それは、いいからね、続けて」
野球部員は私の次の言葉を促した。私はボールをぎゅっと握りしめ、またゴールに向き直った。
「あのね、もうね」
私は戸惑いを隠さず、
「うん、なあに?」
「私ね」
「うん」
「・・・あなたとまじわってる。」
と言った。ポス、とボールをつく。私はゴールポストを見つめたままだ。相手の動揺は見えない。いや、見て見ぬふり?
「あのね、俺ね、君とまじわった覚えない。いつまじわったの?」
お説教されてるみたい。ポス、ともう一度ボールをつく。
「いつも。」
「いつも?」
「そういつも。」
シュート体制にはいる。
「なにが?」
「朝練の空気が。」
「朝練の空気か」
もう一本フリースローを打った。シュッ。
「はいるね」
「そうでしょ」
私は嬉しくて、扉の側に立つ、白いユニフォーム姿の野球部員を見た。
「やっとこっち見た」
「あー見ちゃった。私の負け」
「勝ち負けじゃないんでしょ」
「ううん、もうフリースローはいらない」
「まじわっちゃったか」
「ふふ」
私はもう一本フリースローを打つ体制をとった。
「ピッチャーはどうしてるの?」
私は静かにそう言った。
「今日も神がかってる」
ゴールポストにボールを放った。シュッ。
「俺たちの勝ち」
私は返ってきたボールを受け取って、しっかり握ったあと、首をかしげた。
「俺のこと見ちゃったからね」
私は重い扉から入る、体育館の床に光る朝日を見た。野球部員は得意げ。
「そうね」
あらら?“朝日はひとりぶん”なんじゃないの?声を掛けてきた野球部員の朝練班が全員お出ました。
「俺たちも神がかってくるから。荻野とまじわったあとに」
私は微笑んで、頷いて、ゴールポストに向き戻った。
「弥生ちゃんはね、”朝日はひとりぶん”って思っているから、ひとりのときしかこっちみてくれないんだよ」
あ、山口くんの声。
「ちゃんじゃねえ!!呼び捨てで呼べ!」
「出番はまだ、俺それしか言ってねえ!」
「まじわり続けてはめ外そうぜ」
え!?なに言ってるの?思わず見てしまった。この学校では野球部と剣道部の男子は坊主だけれど、坊主ではない、見たことがない男子生徒がユニフォームを着て恥ずかしそうに笑っている。あなたは誰なの?
「やべえ」
この声、聞いたことがある。私は怪訝な顔をして首をかしげた。
「馬鹿、キャッチボールだろ。ほら、わらった」
「フリースローは?」
「おまえ真面目すぎ!」
「いいだろ!」
「一緒だろ、え!?俺これだけ?」
「キャッチボールではめ外そうぜ」
『「馬鹿か」』
「お、ユニゾン」
もしかして、斎藤宏介さんの声かなあ。
「荻野、今のことばでいちばん笑った」
「俺の馬鹿で?」
「いや、その前」
「なんとかして!」
翔之介もいる。
「荻野嬉しそう」
「みんないるのバレちゃった」
山口くんがひょっこり顔を出した。
「山口くん」
今日もわらった。なんかいつもより人数が多いな。気が散っちゃう。
ポス、とボールをつく。キュ。体制を立て直す。フリスロー。シュッ。ふー、はいった。
早めにあがり、部室でさっと身支度を整えて、制服のスカートの裾に気を付けながら、外履きを履いて部室を出た。部室を施錠していると、
「さっき、俺居たのわかった?」
と声を掛けられた。その声を聞いて胸が高鳴り始めた。私はカチっときちんと施錠したのを確かめると、その声の主と顔を合わせた。
一度深呼吸した。
「はい」
ゆっくりと返事をした。
「俺の声、誰だかわかる?」
もちろんわかる。私はゆっくり三度も頷くと、頬が上気するのを感じた。
さっき、野球部の白いユニフォームを着て、まじわり続けてはめ外そうぜ、って言ってた。
「俺ねえ、斎藤宏介。とうとう姿を現しちゃった」
私は嬉しい気持ちがあったが、どんな言葉を発したらいいのかわからず、彼を見つめた。
「俺はね、実ははじめましてじゃないんだ。弥生のこと覗き見してたからね、特に外階段にいる弥生」
私は右手を口元にやって少し考えた。私は朝練のあととお昼休みのほとんどを外階段で過ごしていた。たまに翔之介がやってくることはあったけれど、たいていいつもひとりでグラウンドを眺めながらぼーとしていた。
朝練のあとは制服に着替え、野球部の朝練班がキャッチボールをする姿やピッチャーが投球練習する姿を見ていた。
お昼休みはお昼ご飯(我が校は給食)を食べず、購買で買ったジュースを飲みながら、誰もいないグラウンドと空との境目を見ていた。
斎藤宏介さんは制服を着ている。予想通り、高校生だった。今現在3年生。自分の学校をサボって、時折この学校の秘密基地にあらわれてはスピーカフォンで聞き耳をたてたり話しかけていたりしたという。私とは、はじめて話しかけられてから、もう一年になる。
「俺、いつもこんな風にウロウロしているわけじゃなくて、おまえがいつもどうしてるのかひと目見ようとして、おまえ、昼休みはいつも外階段でひとりでいるだろ。俺は、いつもって言える。これじゃあ俺、おまえを傷つけにきたみたいだ」
「傷ついてなんかいないわ。ただ羽を休めているだけよ」
「”ハネモノ”みたいに?」
「”ハネモノ”は羽ばたいているわ」
「俺はおまえが心配で。今日はおまえにいつもの俺のone songを届けようと。one songって何にしようかな」
「ジュークボックスがあるわ」
「ジュークボックスってジュースの自動販売機のこと?あ、わらった」
「あのね、好きな歌はね、聴かなくても、描いた分だけ」
「羽ばたいてくれるの?」
「銀のことりのようにね」
「外階段かあ。俺、おまえのライナスの毛布になりたい」
「私を口説きにいらしたのでしょうか?」
私は可笑しくなって微笑んだ。
「今日はね、ある密命を受けて、正式にこの学校を訪問しようと思って、自分とこの制服を着て、来たの」
そう言いながら、斎藤宏介さんは私の側に寄り、私の左腕から腕時計を外した。それを腕にはめようとして、さすがに入らねえな、というとシャツの胸ポケットにしまった。それから右手で左袖をめくって自分の腕時計を外すと、私の左腕にそれをはめてくれた。
「お守りね。今日は俺の味方でいてね」
私はなんて言ったらいいかわからず、そっと微笑んで頷いた。この人は今日は一体何をする気なんだろう。
「ちゃんと返事して」
そう言われて私は小さい声で
「はい」
と言った。授業にはまだ早い時間だった。私と斎藤宏介さんは、外階段に並んですわって、白いユニフォーム姿で野球部員の朝練班がキャッチボールをするグラウンドを眺めた。
斎藤宏介さんは、密命というのは文化祭を乗っ取るための下地をつくることだと教えてくれた。秘密基地(実は放送室)にいる秘密基地団は皆、バンド活動をこよなく愛する人たちで、この学校の文化祭でバンド演奏をすることを目標にしているという。支持者を増やそうとして、ハンズフリーフォンで、バンギャルになれ、と勧誘しているとのことだった。野球部員の中にも文化祭でライブ演奏をしたいという人もいて、秘密裏に協力体制をとっているらしい。
斎藤宏介さんは、今日はまず、秘密基地団代表として、訪問を公式なものにするために職員室に挨拶に行くと教えてくれた。私はそれを聞いて、ネクタイを貸してあげようと思い付いた。あの卒業式以来、いつも持ち歩いている、吉田先輩のネクタイ。鞄からネクタイを出して、願掛けしてあげましょう、と言うと、斎藤宏介さんは嬉しそうな顔をした。私は慣れない手つきで斎藤宏介さんに吉田先輩のネクタイを結んであげた。それは斎藤宏介さんに良く似合っていた。私は、いちばん似合う、と言うと、斎藤宏介さんは自分の学校は学ランだから、と嬉しそうにした。日頃の治安維持活動が尊いので、今日は一日生徒会長に任命して差し上げます、と言うと、斎藤宏介さんは私のあたまをぽん、として撫でた。
予鈴が鳴って、私が教室へ向かおうとすると、斎藤宏介さんは、またあとでね、と言って手を振った。
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