第6話 前夜祭

 授業がおわった。このあと委員会がある。指定された教室にいく。

 一階のいちばん職員室に近い教室には、同じ女子バスケットボール部の紫がいた。なにかの集まりがあるときには、だいたいこの教室が使われている。私は紫に目くばせをしてから隣の席にすわって、おとなしく先生の話しを聞いた。

 体育祭実行員会の担当は、顧問の海野先生で、体育祭のプログラムは去年と同じものだ。海野先生は、各プログラムで準備すること、係をつくって細かく分担すること、事前にどれだけ準備や打ち合わせが必要か(学校行事を滞りなく遂行することはけっこうたいへん)を、手際よく説明していた。

 私はすでにへとへとだった。学校は、いるだけで何かを消耗してしまう。私は頭の中でSpitzの「赤い星」を流しながら、ときおり窓の外を眺めた。

 体育祭実行委員は、美織からやるように言われて仕方なく引き受けた。

 美織は同じ女子バスケットボール部員で、クラスでは「ボス」的存在であった。私は彼女の影響力がどの範囲でどの程度なのかを知る由はなかったが、取り合えず、学校生活を穏便にやり過ごすために美織の頼みを断れなかった。

 私たちは2年生になって進路ごと成績順に、普通クラス、文系進学クラス、文系特別進学クラス、理系進学クラスに分かれた。美織と私は、文系特別進学クラスで、このクラスは成績の他に素行が加味され、いわゆる野良は入れないクラスであった。

 私はぼんやりしていた。いや、たいていいつも、教室ではぼんやりしている。


 委員会がおわると、海野先生は、私たちを自分のもとへ呼んだ。

「おまえらで、委員長と副委員長をやってくれないか」

 紫はすぐに下を向いて

「私、委員長とかできない」

 と小さく言った。私は一瞬自分の思考にはいった。

「弥生はどうなんだ?」

 またか、そうくると思った。私は窓の外に視線を移したいのを懸命にこらえた。

 海野先生の口調は、もう決定事項です、と言わんばかりだ。

「弥生ちゃんが実行委員長やってくれるなら、私、副委員長やる」

 答える間もなく、紫が下を見たまま早口でそう言った。

「分担は分け合うから」

 そうか?嫌なことは海野先生と一緒になって私に押しつける気じゃなかろうか。

 海野先生の持つ名簿板に視線をおとして、ほんの少し呼吸にあわせてため息をついた。この状況は一体何故なんだろう?理由があるはずだ。私は自分の思考から出られなくなってしまった。


 私はお祭りが好きだ。お祭りって言っても盆踊り。南公園で毎年7月のおわりにやるユーカリ祭りは、「佐倉勇翔太鼓」が盆踊りを盛りあげてくれて、いつも楽しみにしていた。草笛の丘で開催される「太鼓祭り」は圧巻だった。和太鼓って素敵。

 お祭りと言っても、この学校に入ってからは、体育祭にも文化祭にもなんの思い入れも持てなかった。


 海野先生と紫は、私の様子を伺っている。うーん、どうしよう。私は、弥生はどうなんだ?の返事ができずにいた。

海野先生が切り出した。

「あのな、弥生。おまえに頼むには理由があってな。どうしようかな、事情は伏せておくか」

「言った方がいいんじゃないですか?皆知っているのかと思ってました」

 紫は海野先生にかぶせるように言った。

「紫は知っているんですか?」

 私はやっと声が出せた。私は返事ができずにいた自分に納得した。なんか変だと思った。海野先生はため息をついて、

「このことは文にも伏せてある」

と言った。

「文は香菜から聞いたって言ってました」

 紫はまたかぶせるように言った。海野先生は動揺を見せない。文も香菜も女子バスケットボール部員で、文は、私と唯一一緒のバス通学仲間だった。ほかの部員は最寄りの駅から自転車通学(バス通学をする生徒より、自転車通学の生徒の方が多い)をしている。私は文と一番気が合った。

 3人とも何も喋らず、しばらく間があった。

「おまえに事情を伏せたまま実行委員長を頼もうとしたことはあやまる」

 海野先生が沈黙を破った。あやまられても、ね。私は首をかしげた。

「私もあやまりたい」

「とりあえず紫は黙ってなさい」

「はい」

「返事をしなくてもよろしい」

「はい」

「・・・」

『・・・荻野は今のやりとりどう思った?』

 あれ?電話の声。私は

「グラウンド使わない方がいいんじゃないですか?」

と言った。紫の様子は明らかに変だった。海野先生の顔色が変わった。

 私は続けて、

「先生、大丈夫ですか?先生は紫と美織どっちを選びますか?」

 と言った。海野先生は怖い声で、美織、と答えた。私は頷いた。紫は笑っている。

 海野先生はため息をつきながら

「おまえには肩書だけ与えておく。おまえのあの同じクラスの卓球部の彼氏とやらに実質副委員長を頼むわ。それで罰として卓球部はセミナーハウスの使用許可願いを取り下げる」

と紫に言った。紫は大人しくなった。

「私は顧問の教師としての対処法を間違えるところだった」

 海野先生はどうしちゃったんだろう。

「おまえは香菜のことを聞いたか?」

 海野先生は、自分と私しかいないというふうに話しだした。

「香菜ですか。何も聞いていませんけれど。サッカー部の自称キャプテンと部室で何かしたんですか?」

 私は手短になるように答えた。体育館で活動する部活が使う部室を不正利用する野良が居る、という噂を聞いたことがあった。海野先生の表情は読み取れない。

「おまえがだいたいのことを把握しているのならいい。実はな、香菜のことで不祥事があってな。不祥事があったのは自称キャプテンのやつじゃないんだ」

「うーん、そうですか」

 不祥事なんて大げさなんじゃなかろうか。それとも、本当に取り返しのつかないようなことをしたんだろうか。

 海野先生は大きくため息をついた。

『生徒会がなくてな、生徒指導の先生も匙を投げていて肩書だけになっていて』

 電話の声が言った。

「先生、落ち着いてください。」

 私は静かに言った。こんなのいつものことだ。今更何を言っているんだろう。海野先生は動揺しているみたいだった。

 私は、

「なんとなく想像はつきます。それでどうなったんですか?」

 と続けた。

「朝練の生徒は関係ないから、今回限りは許してやるって・・・」

 海野先生は小さい声で言った。声は不安な気持ちを含んで響いていた。

「そうですか。・・・で、セミナーハウスはどうなったんですか?」

 私は自分で言って自分ではっとした。

「そのまえにおまえ、部室のことはどう思うか?」

 海野先生は動揺した表情を隠さず、私にそう訊いた。

「うーん、リョータに任せます」

 私は部室に対する対処法を間違えないように、慎重に考え、そう言った。リョータは男バスのポイントゲッターで、人懐っこくて、明るくて、ムードメーカー。私でも話せる優しい部員だった。彼への信頼は厚い。部室は外階段へと続く外通路の下に並び、男バスと女バスの部室は隣同士にある。男子の部室と女子の部室が隣同士でも、私たちは何の憂いもなく部室を使っている。他の時間のことは知らないが、リョータの名前を出すことで、私は海野先生に安心して欲しかった。

「そうか、わかった。ありがとう」

 海野先生はほっとした顔をした。私もつられてほっとした。私は海野先生と一緒にこういった話しをするのははじめてだった。ちょっと気が緩んでしまった。

 しばらく間があったあと、私はあきらめたように

「それで、セミナーハウスは・・・?」

 と切り出した。海野先生は少しわらって

「おまえが体育祭実行委員長を引き受けてくれたら、不祥事のことは不問として、女子バスケットボール部がセミナーハウスを使うことをゆるすってエースピッチャーに言われたんだ」

 と言った。

 不問ということは、きっと、不祥事は職員室止まりて済ませるってことだ。エースピッチャーがでてきてよかった、と思った。これなら大丈夫だ。私たち女子バスケットボール部の信頼が瓦解することは防げるだろう。

「わかりました。私が、委員長を、やります」

 もうあきらめるしかない。

 海野先生の目を見ながらそう言って、私は小さく覚悟を決めた。

「弥生ちゃん、ありがとう。一緒にがんばろうね」

 紫は弾んだ声でそう言った。私は聞こえないふりをした。

「そうか、弥生、よろしく頼むな」

 私は軽く頷いた。海野先生は紫を見ていない。弥生、と海野先生はいつもとは違う声で私を呼んだ。

「なにか言いたいことはないか」

 海野先生は柔らかい表情をしていた。私はちょっと勇気を出してこう言った。


だれのものでもなかったあたし


すみれの花の砂糖づけをたべると

私はたちまち少女にもどる

だれのものでもなかったあたし


 詩か、とその声は小さく言った。江國香織です、と短くこたえた。

『おまえの望みをひとつだけ叶えよう』

 急に、また、電話の声が。何故?私は不安になった。海野先生は、電話の声に対してもう表情を変えることはなかった。電話は紫が持っているらしく、いつものようにハンズフリーフォン状態で話しかけてくる。

『何故?はいいから答えてみよう』

「では、王子さま、プログラムは去年と同じものを」

 と私は答えた。望みは、普段野球部が練習で使うグラウンドを使用する体育祭を絶対に混乱させないこと。

『そんなこと?』

「念押しです」

『念押しかあ。怖がられちゃったかな?』

 怖いし、困る。

『返事してよ』

「はい」

 私は小さな声で返事をした。

『試してるの?』

「そうかも」

『了解。弥生が大切に思うプログラムがあるの?』

「部活対抗リレーです』

 私ははっきりと強い口調でそう言った。

『部活対抗リレーかあ。俺たちの学校にも』

 電話の声は、ちょっとした油断を含んで響いた。

『あ』

「あ」

 電話の声と私の声が揃った。声の主も、きっと高校生だ。ハンズフリーフォン越しの声はいつも、自分たちの詳細な個人情報を伏せたり誤魔化したりして、私たちに話しかけていた。

 私は続けた。

「でもそれより、全面立ち入り禁止に」

『俺たちのこと?』

 電話の声は少し可笑しそうだ。

「いいえ、グラウンドを」

 私は真面目に、きっぱりと言った。

『グラウンドを、ね』

 そう言った声はちょっと低めのトーンだった。私は体育祭実行委員長として、体育祭とこの学校を守らなければならない。

「良かったあ。私、思い出して。先生、私。海野先生、私、推薦生として」

 私は、電話の声にも表情を崩さない海野先生に向かって、懸命に訴えた。

『弥生、落ち着けって。それでどうやって体育祭をやるの?』

 少し優しい声に戻ったのを確かめて、私は少しほっとした。

「とりあえず車両だけでいいかな?」

『車両だけね』

 声は、私を受け止めるような雰囲気を響かせた。

「ね、先生。海野先生。先輩たちそれ嫌だって言ってたから。まだ叶ってないかな?あと女人禁制にしたいって。まだ叶ってないよね?段階的にはそれしかないかな、なんて」

 私は、海野先生にも、電話の声にも味方になって欲しくて、また、懸命に訴えた。

『先輩たちって誰のことかな?』

 声の主は落ち着いている。海野先生は表情を崩さず、何も言わず、電話の声に耳を澄ませていた。私は

「【ホタル】の。かっこいい。」

 と呟いた。

『感想か』

 “いつものあの御方”の声だ。私はその声を聞いて心底ほっとした。秘密組織の保護者的存在だ。居てくれたことに嬉しくなった。

「かっこいいって、ピッチャーね」

 私の声は、思った以上に、嬉し気に親し気に響いた。

『ああ、あの、吉田の、先輩ね。行事の時にグラウンドが駐車場になるの嫌だって、あの話しの続きかあ。俺もわかるよ』

「斎藤さん」

 私はずっと話しかけてくれていたその声の主の名前を呼んだ。

『名前呼んじゃ駄目なの』

 斎藤宏介さんが可笑しそうに笑い声を含ませながらそう言った。斎藤宏介さんも高校生だったんだ。これは決定事項だ、と思った。

「すみません」

『すみません、じゃなくてごめんなさいね』

 いつもの優しい声で斎藤宏介さんが私に言った。

「ごめんなさい」

 私は折り目正しくあやまった。

『2回も謝らなくていいから。じゃあ、2回あやまってくれたから、ふたつめのお願いもきいちゃう。と言うか、ひとつめのお願いは反故にしないでね、保護ね。プログラムは去年と同じ。保護ね。これで俺のこともかっこいいって言ってね』

 私は軽く頷いた。紫も海野先生も、電話の声にじっと耳を澄ませている。斎藤宏介さんが続けた。

『あの話し、まだ叶ってなかったんだね。車両のことは藤くんも心配だったんだって。文化祭の方かあ。これだと弥生が不安になっちゃうな。藤くんの伝手でなんとか説得してみるって』

「そんなこと頼っていいんですか?」

 私は“藤くん”の名前が出てきて、怖くなってそう訊いた。藤くんこと、藤原基央さんはハンズフリーフォンで話しかけてくる人たちの筆頭ともいえる人で、音楽の甲子園で日本一になった、斎藤宏介さんの大好きな人。いつも自分のバンギャルを使ってこの学校中に、俺のバンギャルになれ、とハンズフリーフォンで脅しをかけてまわっている。いつも”いつものあの御方”と呼ぶ声の人が保護者代わりに諫めていた。なんでそんなことをするのか私にはわからなかったが、私も一年生のときから何かとそう脅されていて、野球部が一番なんで、と言って逃げていた。私は藤原さんの存在も、藤原さんのバンギャルちゃんの存在も怖かった。

『こっちのことは任せてね。でもその代わり、このことは内緒。これからのために、藤くんの影響力がどの程度が秘密にしておきたいからね。俺のこと信じられる?』

 斎藤宏介さんの声は優しさを含んで響いたことが感じ取れたけれど、私は体育祭が無事に何事もなく遂行されるかどうかを不安に思った。普段は野球部の治安維持部隊が懸命に学校の規律を維持しているけれど、お祭りという不測の事態に、野良と秘密組織のバンドマンとバンギャルちゃんが大人しくしていてくれるのか、心配だ。

「叶ってから」

 私は慎重にそう答えた。

『そうだね。海野先生も宜しく』

 海野先生は一度だけ小さく頷いた。

『俺たちも中継ついでに味方でいるから。他に話しておきたいことはない?』

 斎藤宏介さんは軽い口調でそう言った。

「いいえ、特には」

 私の声は思った以上に小さくなってしまった。

『俺に会いたいと思わない?』

 斎藤宏介さんは優しい声でそう言った。私は嬉しい気持ちになり、少し気を取り直して

「来てくださったら、夢みたい」

 と言った。そして

「わたしのone song の王子さま。お手柔らかに」

 とゆっくりとした声で続けた。

『フィリップね。眠っていて。そのうち会いに行くつもりだから』

 私は微笑んで、小さく頷いた。

『今日のところはこのくらいにしておくか。またね』

 斎藤宏介さんがそう言って、電話はお開きとなった。私は窓の外に視線を移した。海野先生もつられて眺めた。職員室では校内でハンズフリーフォンを展開することを黙認している先生もいる。私は海野先生がハンズフリーフォンを容認したことがわかって、訊きたいことが山程あったけれど、どう切り出したらいいのかわからなかった。体育祭が無事に終わりますように、と願った。

 私は学校の名誉を懸けてマウンドに立つ、エースのピッチャーを想った。

「じゃあ、あとで。部活でな」

 海野先生は、片手をあげて静かな声でそう言って、教室を去った。私は教室を去る海野先生の後ろ姿を目で追った。海野先生は、頼めば私がやると言いだすとわかっていて、頼んできたのだろう。                                         紫と私は少しほっとして、目くばせをしてわらいあった。

「まさか頼まれると思わなかったね」

 私は一瞬自分の思考にはいって、ん?と思った。

「そうかあ、私は呼ばれたときに頼まれるだろうなって思った」

 紫は不思議そうな顔をして私を見ている。あの話しの流れからいったら絶対に頼まれるだろう。私は名前を呼ばれた時点で、実行委員長って一体なにやらされるんだっけな、と考えはじめていた。去年の実行委員長はたしか、テニス部のひとだったはず。                          

「さすが弥生ちゃん。しっかりしてるね」

 私は紫のその言葉を聞いて、心底ズッコケた。的外れだ。

 しっかりしている、と私はよく言われる。そんなことないのに、と思う。先生と呼ばれるいきものから頼まれごとを持ちかけられるのはしょっちゅうだ。小学校の頃からそうだった。この学校へ推薦入学で入ったのも、中三の担任の先生から頼まれて断れなかったからだ。

 私はちょっとブルーな気持ちになった。

「私ちょっと図書室いってから部活いくことにするね。先にいってて。美織にことわり入れておいてくれる?」

「わかった、美織とキャプテン、両方にそう言っておくね。海野先生には?」

「海野先生にはいい」

「わかった。私はさきいくね」

 私はうしろのドアから部室へむかう紫のうしろ姿を目で追った。ひとつ、ため息をついて、窓の外に目線を移した。


 部活はハードだ。気合をいれないとのりきれない。強豪校がすぐそばにあるので、いつも地方大会で負けてしまうが、長期休みには女子運動部で唯一合宿があり、練習もテスト前とお正月以外は土日も休まずある。それが信頼の証なのだ。

 

 教室から図書室へむかう途中、私はいつものように下を向くのではなく、ちゃんと背筋を伸ばしてまっすぐまえをみた。こういうときは「あさきゆめみし」をよむ。この学校を生き抜くのに相応しいバイブルだ。テーマソングはジュディマリの「Lover Soul」。素敵。私は、

「エブリシングイズ、オーライ」

そう、小さい声で、ひとりごちた。 

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