第3話 野球部の監督と秘密の約束
同じクラスの安田さんに、野球部の監督が呼んでいるから職員室までついてきてくれる?と言われた。私は読みかけの本に栞を挟んで立ちあがった。
安田さんについていこうとしたら、後ろの席の渡部くんに肩を掴まれた。
「なにするのよ」
私は言った。
「ついて行くな。何されるかわかんねえぞ」
渡部くんが慌てた口調で言った。
「大丈夫だよ。野球部の監督だよ」
私は渡部くんの手を払いのけた。
「待てって」
今度は手首を掴まれて引っ張られた。私は重心を失ってあやうく倒れそうになるのをすんでで堪えた。
「やめて、引っ張り過ぎ。大丈夫だから、私、野球部の監督に会ってくる」
私はややきっぱりとした口調で、語気を強めた。
「危ねえからやめとけって」
アブナイ?意味わからないよ。
なおもしつこく食い下がる渡部くんに、私はちょっといらっとした。
「この学校では、野球部の存在が一番信頼できるんだよ」
私はため息をつきながら、渡部くんを諭すようにそう言った。
「どうしても行くっていうのなら俺もついて行く。いいよな、安田」
安田さんは私たちふたりを怪訝そうに見つめて
「べつにかまわないけど」
と言った。
何故か渡部くんもついてきて、私たちは3人で、職員室の中にある応接室に入った。
「おう、おまえが荻野か」
監督がいかにも体育会系という声で私を呼んだ。監督は、高橋、と名乗った。
「おまえ、中三の時の担任の先生の名前覚えているか?」
「・・・榎本先生ですけど」
「お、覚えてたか。実はな、俺と榎本は旧知の仲で、野球仲間だったんだ。野球仲間って言うのはな良くも悪くも繋がりが深くてな。詳しい話しは長くなるから省くけど、おまえのこと、困ってたら面倒みてやってくれって頼まれたんだ」
「榎本先生がですか?」
私は驚いた。榎本先生が、進学先で困っていたら、と気を回してくれていたなんて思いも寄らなかった。
進路指導では揉めた。私は地元の公立高校を受験するつもりでいた。しかし、榎本先生には、推薦条件に一致する成績を持った生徒が他におらず千葉英和高校からもぜひ推薦生(私の中学は地元では有名な優良児校)が欲しいと言われているから、と何度も頼まれた。
最後は榎本先生は私に頭を下げた。結局、私は榎本先生の頼みを受け入れ、不本意でも仕方なく、私の他に誰も進学しない、この学校の推薦入学を引き受けるしかなかった。
面倒見てやってくれってどういうことだろうか、と私は思った。
「おまえ、部活はどうするつもりなんだ?中学ではバスケ部だったと聞いているぞ」
高橋監督は、怪訝そうな顔をする私を心配してくれているみたいだった。
「まだ決めていなくって。でも、女バスの三年生の先輩たちが皆で、私のクラスまで勧誘に来てくださいました」
そうか、と高橋監督は腕を組んで考え込んだ。
「実はな、おまえに野球部のマネージャを頼もうと思っていたんだ」
高橋監督は私の顔を見てそう言った。
「野球部のマネージャですか?」
とこたえた私の声は、おおげさに不安そうに響いた。
「今、この安田がマネージャをやりたいと申し出てくれてな。それは了承したんだが」
高橋監督がこちらを見たまま安田さんを手で指した。安田さんは、兄が千葉英和高校野球部出身で、野球部のマネージャをするためにこの学校に入ったと教えてくれた。
「榎本に頼まれたことだし、人手はいくらあってもいいし、おまえもどうかなと思って」
「そうですか」
野球部のマネージャって悪くないかも、と思った。高橋監督は、マネージャをやればこの学校で困ったことがあってもなにかとおまえを守ってやれるだろうから、と言った。確かに野球部に守ってもらえるのはありがたい。校内一硬派な野球部の、マネージャともなれば、この浮足立った校内で、規律を守って生活する足掛かりになるだろう。私にマネージャが務まるだろうか。
私は両手でこめかみのあたりを押さえた。なんて答えたらいいのかわからなかった。色々なことが頭をもたげて、思わずため息をついてしまった。
不安げな表情になる私を、高橋監督は見つめて、考え込んでいた。
しばらく間があった。
「ところでさ」
高橋監督は私の様子を伺いながら切り出した。
「この学校で一番信頼できる先生って誰かな?」
高橋監督は言った。高橋監督は、自分は雇われ監督で顧問の先生は別にいてその人は引率してくれるだけで野球は知らない人なんだ、と教えてくれた。今年監督に就任したばかりで、職員室の内情を良く知らないのだそうだ。
私は、高橋監督もこの学校では私と同じ1年生なんだ、と思った。ひとつため息をついた。緊張で、つい、呼吸が浅くなっていることに気が付いて、肩の力を少し抜いて、猫背になってしまっていた姿勢を正した。
ここまで、慎重に様子を伺っていた渡部くんが
「この学校の先生で一番信頼できる先生は、女子バスケットボール部の顧問の海野先生です」
と言った。私は“バスケットボール部”と聞いて、ドキっとした。聖書の先生ではないのかな、と思った。渡部くんは続けて、
「その証拠に、今野球部が部室兼合宿所として使っているセミナーハウスで、野球部のほかに泊まり込みの合宿をゆるされているのは、女子バスケットボール部だけなんです」
と落ち着いた口調で言った。
セミナーハウスはグラウンドの一番奥、体育館の横にある。共学になったときに野球部のためにできた設備で、野球部の部室と茶道部の部室があり、茶道部が清掃維持管理を任されている。長期休みになると、野球部はここで合宿をする。人気のある設備のため、どの部活も使用許可願いを出しているが、今のところ合宿利用が許されているのが女子バスケットボール部だけであった。セミナーハウスはそのほとんどが野球部OBの寄付で賄われていて、使用するにはOB会、理事会と許可を取る必要がある。そういった設備の使用をゆるされている女子バスケットボール部は、この学校の風紀を守るべく、信頼が厚い。
「なるほど、そうか」
高橋監督は頷きながら渡部くんを見た。
「俺はサッカー部のキャプテンです。校内の事情については詳しいつもりです」
名前は?と訊かれて、渡部くんは、渡部です、と背筋をしゃんとして応えた。
「渡部か、いい情報をありがとう」
高橋監督は少し考える姿勢をした。私は渡部くんが話している間もずっと高橋監督を見ていた。先生でも、顧問でもない、野球部の監督。監督の存在は野球部が特別に扱われている象徴のように思った。高橋監督はしばらく間を置いたあと、こう切り出した。
「荻野は女子バスケットボール部で頑張れるか?」
高橋監督はできるだけ優しく響くように慎重な声を出した。私の様子を注意深くうかがっている。え?と私は訊き返し、その声は思った以上に大きく不安げに響いた。高橋監督は同じ言葉をもう一度、今度はより優しくゆっくりと繰り返した。
私は一瞬自分の思考にはいった。
「本当は野球部のマネージャをして欲しいところだが」
高橋監督は続けた。
「俺は、もし荻野が女子バスケットボール部で頑張れるのならば、荻野を仲介役にして、海野先生と仲良くなりたいと思う。野球部の監督をするからにはこの学校の事情もきちんと把握しておきたいんだ。セミナーハウスでの合宿をゆるされる海野先生と仲良くなりたい」
高橋監督の目は強い意志を持って私を見つめた。
「荻野のことは榎本から聞いている。この学校の模範生として期待された存在だそうだな」
高橋監督は私を気遣うように優しい声で言った。
「模範生として、というのは、野球部員とも志を同じくすることだと思う」
私は高橋監督の優しくも強い言葉に思わず頷いた。その様子を見て高橋監督の顔が綻んだ。私は、理解してくれている人を得たような気持になって、つい微笑んだ。
高橋監督は私の様子を見て少しほっとしたように見えた。
「俺も任されたからには甲子園に連れていくくらいのつもりで、野球部員たちを見ていきたいと思っている。君が一緒に頑張ってくれたら、それを励みに、俺たち野球部も、この学校を守るために精一杯野球を頑張りたい」
「えと」
私はため息をつきながら、やっとのことでそれだけ言った。女子バスケットボール部の先輩から誘いを受けたけれど、バスケットボールを続けようとは思っていなかった。
高橋監督はもう一度ゆっくり、君が一緒に頑張ってくれたら励みになる、と同じことを繰り返し、一緒に頑張れるか、と訊いてくれた。
「一緒にがんばる」というのは気持ちのいい言葉だな、と思った。
高校でバスケットボール部で頑張るのはきっと大変だろう。でも、甲子園に連れていくくらいの気持ちで野球部員たちを見ていきたい、という高橋監督の「一緒に頑張ろう」の言葉に、野球部員と一緒になら、高橋監督が気にかけてくれるなら、あの先輩たちとなら、バスケットボール、やってみてもいいかな、とほんの少し思った。
「これ、俺、立ち会ったってこと、皆に話してもいいですか?俺もサッカー部のキャプテン頑張りたいんで。おれも荻野には女バスで頑張ってもらいたい。三位一体の絆にしたい」
私が答える前に、渡部くんが勢い込んでまくしたてた。
ちょっと待って、私、まだ返事していない。それじゃあ私の気持ちが追い付かない。バスケットボール、続けても大丈夫かな。
私は左手をおでこにあてて小さくため息をついた。その様子を見て、安田さんが私の右手をそっと握った。
その様子を見て高橋監督は、仲良くマネージャやってもらった方がいいのかなあ、と呟いた。
渡部くんは私を見て、一緒に三位一体頑張ろうよ、と呟いた。
三位一体って、この前聖書の時間に習ったばかりだね、と安田さんが言った。私と安田さんはふたりで目を合わせて微笑みあった。
高橋監督は腕組みをした。ひとつため息をついて、天井を見上げた。しばらくそうしたあと、
「まだ1年なのにもうキャプテン決まっているんだな」
と言って、優しい目で渡部くんを見た。
「自分でやりたいって言ったんです」
心なしか、渡部くんが涙ぐんでる。
「荻野はどうする?」
高橋監督は優しい。頼むわけでも、決めつけるわけでもない。このひとは信じられる大人かもしれない、と思った。私は安田さんの左手を右手できゅっと握り返した。
「私、バスケットボール続けます」
私はそう、言ってみた。自分が思ったよりも小さい声になってしまった。まだ決心がついたわけではないことに、言ってから腑に落ちてしまった。安田さんが心配そうにこちらを見ている。
高橋監督は私の言葉に、
「じゃあ約束しよう。3年間一緒に頑張ろう」
と嬉しそうに返してくれた。渡部くんも嬉しそうだ。私はまだ少し気持ちが揺らいだままだった。
あの、と私は申し訳なさそうに小さく言い、なんだどうした?と高橋監督は心配そうに言った。
「私、バスケが好きかまだよくわからないんです」
高橋監督は驚いた顔をした。組んでいた腕を腰にあてて、ひとつため息をついた。
中学のバスケットボール部では、レギュラーと控えで練習メニューが分かれていて、フットワークやパスの練習のあと、コートで練習するレギュラーの子たちを眺めながら、荷物が錯乱するステージの上(体育館を使う男子部員はステージの上で、女子部員はパイプ椅子格納庫兼地下通路のあるステージ下で着替えをしていた)で、ボール廻しやドリブルの練習ばかりさせられた。体育館はコート二面分の広さがあったが、バスケ部男女、バレー部男女、剣道部、卓球部とで、譲り合って使うしかなかった。私はもちろん控えで、ほとんどまともに、シュート練習をしたことがなかった。
「いつからバスケを始めたんだ?」
高橋監督は親身な姿勢でそう訊いた。中一からです、と小さくこたえた。
「はじめたきっかけは何だったんだ?」
続けて訊かれて、たまたま一緒になったグループの子に誘われてなんとなくです、とさっきより小さくこたえた。
「一緒にやろうと誘いに来てくれた先輩たちはどんな様子だったんだ?」
私は自分のクラスまでわざわざ誘いに来てくれた、三年生の先輩たちのことを思い出した。私はバスケに自信がないことと、中学のときの練習事情を話した。先輩たちは親身になって話しをきちんと最後まで聴いてくれた。仲良しの里奈と一緒に茶道部に見学に行きたいと思っている、と話すと、そのあとでもいいからあそびに来てね、と言ってくれた。優しい先輩たちで、皆で仲良さそうにしていて、話しててとても楽しかった。
そのクラスで中学のときにバスケ部だったのは、私ひとりだった。私ひとりのために時間を割いてくれてたのだった。私は茶道部を見学したあと、体育館で練習する先輩たちに会いに行った。この優しい先輩たちと一緒に居られたら心強いだろうな、とも思った。
私は高橋監督を目をあわせて、見つめてみた。少し動揺する心がほっとするようだった。もしバスケットボールを続けるのであれば、ただ続けるのではなく、「一緒にがんばる」という高橋監督との約束を果たしたい、と思った。
この学校が共学になってからの、礎を支えているのは野球部員たちだ。私は野球部のマネージャではなく、女子バスケットボール部員として、その礎の一員になってみるのはどうか、自分に問いかけた。
「優しそうな先輩たちで、仲良さそうで楽しそうで。一緒だったら、一緒にバスケができたら、いいな、と思いました」
高橋監督は優しく笑みを浮かべながら、
「一緒にやりたいって思うことは、部活動の基本だよな」
と言い、私の目を見つめた。高橋監督は、真っ直ぐな目をしていた。
「この学校でな、野球を選んで野球を続けていくのは、大変なことなんだよなあ。強豪校ってわけじゃあないんだが、学校を守るために負けられない。共学のこの学校を守るっていう目的のために設立されたからなあ。特にピッチャーにとってはなあ」
ピッチャーかあ、やっぱり。何があってもマウンドに立ち続けなければならない、唯一のひと。
「この学校では野球部員枠があって、野球経験者は試験の他に面接が受けられるんだ。仲間と一緒に野球を続けたいって、皆で揃って希望して入ってくるんだよ」
野球部員たちは皆、野球をやるために、この学校を守るために、選んで入学してくるんだ。
「野球をする奴らはな、少年野球から入るのが多くて、皆、幼馴染みたいなものだ」
高橋監督が嬉しそうに言った。野球少年たちを、野球仲間の繋がりを、羨ましく思った。
私は両手をぎゅっとした。中学時代はいろいろな思い出がある。
「バスケットボールを選んで続けて、苦しいときはどうやって乗り越えればいいですか?」
私は訊いた。喉のあたりがきゅうっと苦しくなった。高橋監督は真剣な眼差しで私を見た。
「バスケ部が練習する体育館は、野球部が練習するグラウンドの隣にある。もし君が苦しいときは、外扉を開けて、野球部員たちが練習しているところを見てやって欲しい」
高橋監督は良く通る声で続けた。
「野球部は練習するとき、ジャージではなくて、練習用の白いユニホームを必ず着て練習するのが伝統なんだ。短い歴史の中でなにかひとつ伝統になるものをつくろうという心意気で始めたことのひとつだそうだ。白いユニフォームを着た野球部員たちの練習風景は、見ていて気持ちがいいぞ」
高橋監督は誇らしげだった。私は白い野球ユニフォームに単純にときめいた。
イチロー選手を観たことがあった。マリンスタジアムで、一塁側の、思ったより近くで。野球のユニフォームって、他のスポーツのそれと比べると、より尊い気がするのは何故だろう。
まだ喉のあたりが苦しくて声が出せなかった。ユニフォーム姿のイチロー選手を想って、ゆっくりと呼吸を整えると、少しずつ喉が楽になってきた。もし、頑張るのが辛い時も、これからは身近なユニフォーム姿を励みにすることができる。
「わかりました」
やっとのことでそれだけ言った。
「午後錬もそうだけどな、野球部は毎朝、朝練もユニフォーム姿でしているから。荻野も朝練してみたらどうだ?」
高橋監督の言葉に、私は三度も頷いた。
「体育館の部活ならな、雨の日は野球部が体育館の一部を間借りして、ランニングしたり筋トレするから、一緒に練習しているような気持ちになれるぞ」
体育館の球戯場には吹き抜けの2階部分に回廊がある。そこをランニングロードと呼び、雨の日には野球部が走り込みに使うそうだ。私は瞳を綻ばせて、唇をきゅっとした。雨の日は体育館の床が滑りやすくなるからバスケ部としては憂鬱だけれど、野球部員が体育館に来てくれたら、嬉しい。
「私も野球部の頑張りを見届けたいです。高橋監督も私のこと見ていてくれますか?」
と訊いたら
「よし、荻野弥生の一番の味方になれるよう精進するよ」
と嬉しそうな顔で答えてくれた。頑張れそうか、と訊かれて、はい、と小さく、でも元気良く答えた。
「じゃあ、あらためて約束な。続ければきっといい仲間ができる。一緒に頑張ろうな」
私は高橋監督が好きになった。
次の日、女子バスケットボール部の三年生の先輩が、入部届を持って私のクラスまで迎えに来てくれた。高橋監督が海野先生に話しを通してくれたのだ。
入部届を出し、私は女子バスケットボール部員になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます