第4話 秘密基地

 もう耐えられない! 私は立ちあがって自分の椅子を持ち上げて、後ろの席の渡部くんをぶん殴ろうと、して躊躇して、窓ガラス(この学校の廊下側の壁は全面腰高窓)へ向かって、それを破壊しようとした。

「弥生」

 優しい声でそう呼ばれた。吉田先輩だ。吉田先輩は三年生。我が校の現役エースピッチャー(エースのピッチャーは各学年にひとりいる)だ。私が高橋監督からのマネージャの誘いを反故にして女子バスケットボール部に入部してから、何かと気にかけてくれて、ほとんど休み時間ごとに、私に会いに来てくれている。エースのピッチャーはやっぱり素敵なひとだった。

 私はほっとして椅子を下ろし、泣きじゃくった。

「今日は来るのがちょっと遅くなっちゃったか。ごめんな」

 吉田先輩は私のあたまを撫でた。私は必死に落ち着きを取り戻そうとした。

「すみません、先輩。俺たちがついていながら」

 翔之介が駆けつけてきた。

「同じ代で守ってやれって言ってなかったか。このクラスには野球部員がいないんだから。特に弥生には気を付けてやれって」

 吉田先輩はため息をつきながら怖い声で翔之介に向かって言った。

「里中が弥生に、自分の身は自分で守れって言ったみたいで、俺たちミーティングでそれ了承して」

「自分の身は自分で守れって言った結果がこれか」

 吉田先輩がそう言うと、翔之介は苦い顔をした。

「里中、高木呼んで来て」

 吉田先輩の言葉に、遠巻きに見ていた里中くんが集まってきた生徒の群れをかき分けて駆けて行った。

「渡部、おまえ、弥生に何したの?」

 翔之介が責めるような強い口調で渡部くんに訊いた。翔之介は今にも渡部くんに飛び掛かりそうな勢いだ。

「授業如何に関わらず、ずっと足で椅子蹴り上げてましたよ。弥生ちゃん、やめて欲しいって何度も訴えてました。俺も先輩来てくれてほっとした」

 斜め後ろの席の剣道部の佐々木くんが助け船を出してくれた。私はまだ泣き止むことができずにいた。

「なんでそんなことしたんだよ!」

 翔之介が渡部くんの胸倉を掴もうとして、高木くんと一緒に駆けつけてきた中野に取り押さえられた。

「俺の女だから」

 渡部くんはふてくされたようにそう言った。渡部くんは私が野球部の監督との約束で女子バスケットボール部に入ってから、何かあるとすぐ私の椅子を後ろから蹴り上げるようになっていた。私が持ち駒として自分の思い通りにいかないことにいらついているらしかった。

 集まった野球部員たちは皆、ため息をついてしまった。

 女生徒のことを”女”と呼んで、”誰の女”か、なんてことを言い争うのはくだらないことなんだけれど、それをはっきりさせてケジメをつけることが一部の生徒(通称”野良”)の間では最重要事項となっている。巻き込まれる側の生徒にとっては頭痛のタネだった。

 高木くんは私たちの代のエースのピッチャー。中野は一番体の大きな4番バッター。翔之介は名字は鈴木で右翼手(イチロー選手と一緒だと誇りに思っている)。里中くんは遊撃手で野球部員のいない一年一組の連絡係。私たちの代の野球部の治安維持部隊が勢ぞろいしてしまった。

 治安維持部隊、なんて大袈裟に聞こえるけれど、この学校には必要なのだ。女子高だった頃は生徒に自律心を求めるだけで十分だった。しかし、その平和な校風も、共学になったことで、必死に守るべきものになってしまった。女子高から共学になった学校は荒れやすい。野球部が新しい伝統を必死で守ることで、かろうじて風紀が守られていた。

 高校野球というのは学校と一蓮托生、連帯責任を基本としていて、もし野球部が試合に出られなくなるような事態を招けば、学校が崩壊してしまう。この学校にとって、野球部の存在と責任は重い物だった。

「弥生、もう皆いるから泣かないで。皆はもう戻って。俺たちでなんとかするから。弥生はいつ野良の女になったの?」

 翔之介が人払いをしながら静かな声で私に訊いてきた。

 ”野良”というのはこの学校の風紀を乱すことをする生徒を指す言葉だ。実はサッカー部は”野良”の筆頭だった。吉田先輩が私の背中をポンポンと促した。

「私、私」

 私は”野良”の女になった覚えはない。私はやっとのことで、それだけ声に出した。

『おーい、泣きじゃくってた女の子は泣き止んだのかい?』

 聞き慣れない声がして、私は一瞬、耳を澄ませた。

「斎藤のお陰で泣き止んだよ」

 吉田先輩がそう言った。

「さいとう?」

 私は首をかしげた。言葉ははっきり聞こえるのにちょっと曇っている。声は優しく淡い雰囲気。

「さすがだな、斎藤」

 吉田先輩の顔が綻んだ。つられて私も微笑んだ。

『それ以上言わないで。秘密裏にして』

 声は優しく響く。

「声聞かれちゃったから、俺たちの秘密教えてあげるからもう泣かないでね」

 吉田先輩は楽し気にそう言うと、ポケットから携帯電話を取り出した。

「今の声はね、電話口の声なんだ。ハンズフリー通話ってわかる?電話をスピーカフォンとして使って話しているの。名前教えていいの?」

『しょーがねえ』

「斎藤宏介っていうの」

 吉田先輩は私のあたまをぽん、と撫でて優しい声でそう言った。

「さいとうこうすけ、さん?」

「俺たちも聞いてていいんですか?」

 翔之介は少し落ち着いた声でそう言った。

「そうだね、これも野球部の伝統だから。今日、高木は斎藤に会わしてやるよ」

 吉田先輩は真面目な声でそう言った。高木くんはちょっとこわばった顔をして、翔之介は不思議そうな顔をしている。

「山口呼んで来ていいですか?」

 里中くんが吉田先輩に訊いた。

「しょうがないね、まとめて引継ぎしよう」

 吉田先輩がため息をつきながら言った。山口くんは里中くんと同じ遊撃手の生徒でこの代のキャプテンの役を負っている。里中くんは急いで山口くんを引っ張ってきた。吉田先輩は私に、野球部のミーティングみたいになってきたね、と笑顔で言った。

「俺の電話はどうしますか?」

 中野が言った。中野の電話もハンズフリーフォンで繋がっているらしかった。誰かの話し声が聞こえる。

「中野も電話繋がってるの?藤原さん、中野と電話繋ぐの止めてもらえますか?」

 吉田先輩の口から確かに”藤原さん”って言葉が。藤原さんってあの”富士山”だろうか、と私は思った。

『すまねえな、吉田』

低く、良く通る、特徴のある声がした。

『藤くん、喋らないで』

「中野の電話はね、取り次ぐと二重中継になって現場が混乱するから、場外ホームラン乱闘中ってことにして、黙ってて」

 吉田先輩が笑いながらそう言うと、中野は大人しくなった。吉田先輩は続けた。

「電話口のやつらはね、秘密基地にいる秘密組織なの。秘密組織のやつらは全員この学校の生徒じゃないよ。職員室には一応内緒。この学校の全員が全てを知っているわけじゃないんだよ。ほんとはね、」

 吉田先輩はいたずらっぽいい笑みを浮かべてひとさしゆびを唇にあてるしぐさをした。

「わるーいやつらなんだけれど、ね。治安維持するのに都合からいいから手を組んでいるんだ」

 と吉田先輩は言った。”富士山”とエースのピッチャーは繋がっていたのか。

 秘密基地と言うのは、この学校の放送室なんだそうだ。共学になってから使われておらず、以前から野球部員の秘密の溜まり場になっており、ある事情が重なってそこに秘密組織のメンバーも招待するようになった。ある事情と言うのは、音楽界の甲子園で日本一になった”富士山”こと藤原さんが、この学校の生徒と仲良くなりたいと申し出て、最初はその日本一の勝利にあやかろうと仲良くなったが、次第にその人と一緒に我が校の女子生徒を守ろうという密約が交わされたというのだ。

 実は、我が校の女子の制服は、全国区で有名になっていた。とある深夜アニメの影響だそうで、知らない女生徒も多いが、とにかく、秘密組織のひとたちの周り(主に千葉と下北沢)で我が校の制服を着た女子が狙われる事件が多発しているというのだ。

 そこで、風紀を保ち治安を維持したい野球部と、我が校の制服を着た女生徒を守りたい秘密組織の利害が一致して一緒に居るということだそうだ。

 この放送室の秘密組織の存在を、代々、野球部のピッチャーが引き継いでいる。

『で、彼女は泣き止んだかな?』

 斎藤宏介さんは優しい声でそう言った。

「弥生、返事してあげてくれる?俺が携帯持っているから俺に話しかけるつもりで話してみて」

 吉田先輩は私の背中を優しくぽん、として促した。

「はい、おかげさまで」

 私はやっと落ち着いて、そう答えた。斎藤宏介さんの声は不思議に耳に心地よく、心に響く。

『弥生ちゃんは誰の女なのかな?俺が立法政府立ててあげるからこの際はっきりさせておこう。俺が立法政府立てて立てた誓いは生徒会規則として生徒手帳に書いていいからね。ちなみに俺たちのバンギャルちゃんになる気はないのかな?やべえ、これじゃあ生業がバレちまったじゃないか』

 斎藤宏介さんは流暢に明るい声で話した。

「バンギャルってなんですか?」

 私は訊いた。

『”俺の女”ってことね。俺って、俺、斎藤宏介』

 私はちょっと可笑しくなって、なんて答えたらいいのかわからなくて、吉田先輩を見た。

「弥生、困ってるよ。斎藤」

 吉田先輩は私の肩に手を置き、笑いながらそう言った。斎藤宏介さんたち秘密組織のメンバーは、各々バンドを組んでバンド活動をしていた。そのバンド活動をしているバンドマンを好きな女生徒たちのことを”バンギャルちゃん”と言っていた。”バンギャルちゃん”は制服を着崩したり、授業をサボったりするので、”野良”でもあった。

『あのね、誰の女になるかは女の子は自分で決める権利があるからね。弥生ちゃん、返事』

「はい」

 優しい声に思わず明るい声が出た。

『野良の渡部も聞いてるかな?おまえの所業、こっちに筒抜け。こっちでの扱い、雑にされたくなかったら、女の子の嫌がることすんな』

 今度は随分怖い声。声色を操る人だ。話しも上手。

「すんませんした」

 渡部くんは小さい声で言った。

「女って言い方好きじゃねえし、可笑しいけれど、その基準でいけば、弥生は”野球部の監督の女”だって思えばいいんじゃねえの?監督の差し金で女バス入ったんだから」

 と翔之介が言った。

「女バスは俺らの女なの」

 と渡部くんが言った。

 翔之介はため息をつきながら

「一部はそうでも、弥生は違う。しかもおまえのじゃねえじゃねえか。野良のって意味だろ。弥生は野良とは関係ねえし、バンギャルでもねえ。弥生にちょっかい出すのやめろ」

 と言った。

『そうだね。女バスの子も一部はバンギャルちゃんだね。でもね、情けないから手持ちの駒がいくつあるかを言い争うのは止めにしようか。ところで弥生ちゃんも”俺の女”になる気はないかな?俺のステージに一度でも来てくれたら、俺のこと気に入ってくれると思うんだけれどな』

 斎藤宏介さんは言った。私は返事に困って首をかしげた。

「野良の黒幕は斎藤さんなんですか?」

 翔之介が聞いたことないような怖い声を出した。

『うん、まあ、悪く言うとね。そんな怖い声出さないでよ。俺たちは君の学校の野良と違って野球部のことはちゃんと尊重しているでしょ。でも渡部が女バスの女の子を”俺の女”呼ばわりするのは容認できかねるね。弥生ちゃんは野球部の監督の管理管轄だということは覚えておこう」

 斎藤宏介さんは真面目な声色でそう話した。翔之介はそれを聞いて落ち着いたみたいだ。

「とにかく、椅子を蹴るのはフェアじゃないからやめろ」

 吉田先輩が渡部くんをそう言って諫めた。

「すんませんした」

「”女”呼ばわりするのもやめろ」

 翔之介が言った。渡部くんは返事もせず、下を向いたままだった。

『吉田、ピッチャーの高木くんと、野良の渡部、秘密基地に連れてきて』

 斎藤宏介さんがそう言うと、吉田先輩が高木くんと渡部くんを放送室に連れて行き、その場はお開きになった。

「翔之介、放送室が秘密基地になってたこと、知ってた?」

 私は小声で翔之介に訊いた。

「野球部ではね、周知の事実だったよ。この学校では野球部が了承しないと何もできないだろ。でも声を聞いたのははじめてだったなあ」

「斎藤宏介さん、素敵な声だったね」

 私がそう言うと、翔之介は苦笑いした。



 



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