カラン、と鳴った氷の音で飲み物を思い出したかのように、ミーナはストローを掴み、くるりとかき混ぜた。注文したアイスティーは一口もつけないまま、グラスに汗がついている。ちらりと公衆電話の方を見ると、レオは外の電話に噛り付いていて戻って来る気配はない。情報局と連絡を取っているようだが、彼が関与しているのはアルトミラ情報局だけではなさそうだ。

 そもそも、ミーナはレオに初めて会った当初から違和感を抱いていた。諜報員を名乗る癖に、諜報員に最も必要な素養があの男にはない。

 違和感程度だった物は、この数日行動を共にするようになって確信へと変わった。先日、わざと〝所属〟と口にし鎌をかけてみたが、レオの反応は無い。諜報員でもないが、只者でもないようだった。

 レオがミーナの意図する国の手先ならば、手っ取り早く交渉に移れると期待したが、そう簡単に正体は現さないだろう。ミーナの要件も容易に口に出せない。結局、現状では様子を見るしかないという結論に至っている。

 その時、ミーナはその者が近付いているのが。恐らくクリオネだ。彼女は音もなく扉を開き、気配もなく店内に入り込む。他の客は彼女がいることすらこの段階では気付いていない。まるで透明人間だが、ミーナには視覚で捉えるよりも遥かに明確に存在を感じ取れいていた。

 ミーナが顔を上げると、示し合わせたかのようなタイミングで灰色の瞳と目が合う。黒く艶やかな長い髪は、あの夜と違い後ろで束ねられていた。

 いやに綺麗な笑顔を作ったクリオネが口を開く。

「奇遇ね」

「全く奇遇ですね」

 クリオネはミーナの向かいに席に我が物顔で腰を下ろした。そのまま何を話すでもなく、にこにこしながら、大きな瞳にじっとミーナを映している。

「顔に何かについていますか?」

「いいえ。眺めているだけよ。なんにも付いていないから安心して」

 整えられた睫毛が、もの言いたげに上を向いている。鼻筋は真っ直ぐ通り、薄い唇は慎ましやかに弧を描く。

 同じ性別としても目を見張るくらいの恵まれた容姿。これは実験とも関係なく、整形手術をしたからでもない。クリオネが生を受けた時から備えていた物だ。

 実験後、クリオネは自ら容姿が優れていること、一種の武器となりうることが分かっていた。身に着ける洋服、話し方に独特の緩やかさがあるのも、容姿に見合うように計算して行っている。嫌味に映らないのは、彼女の振る舞いに浅ましさがないからだ。欲からではなく生きる為に最大限活用した結果といえる。

 クリオネもミーナがここにいることを分かって来ている。わざわざ来たのには理由があるということだ。勿論、連絡を取り合っていた訳ではない。クリオネと話すのは研究所を出てから今日が初めてだ。

 ミーナは視界の端でレオの姿を見る。ようやく受話器を置いた所だった。完全にこちらから視線を外している。まだ動きはないが、間もなくこちらの異変に気付くだろう。

「クリオネ、あなたは何故ここにいるのですか? 目的は何ですか?」

「ミーナこそ、どうしてここにいるの? あなたと一緒にいた男は何処の国の人間?」

「あなたにお教えする義理はありません」

「そうよね。私もそうよ。だから答えない。でも、私もあなたもここにいる。ブレックで起きた稀粒子の発現の件でね」

 踏み込んだ発言に、ミーナは眉を顰める。

「キルビレントに来た理由は同じと?」

「ええ。それに、あなたの意図までは分からないけれど、状況から目的まで推理できる。独立戦線は三日後、アルーグを襲撃するようね。あなたもそこに行くつもりでしょう?」

「どこでそれを?」

「助けた独立戦線から聞いた話」

「あなたが知っているということ、独立戦線の情報管理能力は低いですね」

「だから政府軍に動きが露見しているのよ。帝国の意向のまま動いている政府軍の方も冗談にも聡明とは言えないけど」

「戦後の混乱を生き長らえるには帝国に追従ついしょうするしかなかったのでしょう。小国が自国の安全の為に大国にしがみつくのは当たり前のことです」

「確かに。けれどキルビレントは相手を間違えてしまったわ」

「だからこその内戦。相手の狡猾さと理不尽さにようやく気が付いたというわけですね」

 ミーナとクリオネの間に暫く沈黙が降りる。

「独立戦線はこの作戦で、アルーグ政府軍基地を占拠、エルナト国境線の確保まで目論んでいる。独立戦線の転換点ともなりかねない大きな作戦。私もその場に行きたいの。あなたも目的地が同じなら、一緒に行かない? 役に立つわよ。それはもう、その辺の戦闘員よりは」

 まるで買い物でも行くかのような気軽さだが、確かに正にこれ以上ない戦力だ。安全を約束されたも同然である。しかし。

「……私は構いませんが、同行者に確認を取らねばなりません」

「じゃ待たせてもらうわ」

「お好きに」

 満足そうに頷いたクリオネだったが、「ところで」と声色を鋭くし、笑顔を消し、ミーナを睨みつけた。

 ミーナはストローを掴もうとしていた手を止める。

「私達のこと何処まで話したの?」

 何を、とは二人にとって愚問だった。ミーナは返答を躊躇った訳ではなかったが、少し沈黙を作り、こちらに向かって来るレオを視界の端で捉えながら、

「あなた達に不利益となる部分は何も」

 と答えた。


 レオは穏やかな足取りで、店の扉をくぐった。ただ、足取りとは違い脳内は混乱で思考が滲んでいた。

 どうしてあの女にここの場所が分かったのか。接触するにしても、作戦中か、その直前だろうと考えていたので、想定よりも早かった。おまけに、この街のこの店を的確に特定するなど普通は考えられない。帝国の情報力か。本国の裏切者か。彼らの謎めいた能力による物なのか。

 考えを巡らせながら、レオは自らのミスを戒める。ミーナが気配を消す術を知っていることから、他の成功体も同様だと予想していた。にも関わらず、ミーナから目を離してしまった。一分程度と言えど、二人の間で交わされた会話は取り返せない。些細だが、重大なミスだった。

「どうも、二度目まして」

 クリオネは首を傾げながら冗談めかした。レオの姿を見ても立ち上がる様子はない。

「何があった?」

 ミーナに問い掛けると、

「彼女が現れました。共にアルーグに行きたいと言っています」

「アルーグだって?」

「取り合えず、落ち着いて話しましょ?」

 混乱するレオに、クリオネが言ってきかすように提案し、着席を促した。ミーナが横にずれ、レオは空いた空間に腰を下ろす。

 明るい場所で正面から見たクリオネは、夜にだけ咲く花のような妖艶さを纏った女だった。少女の面影はない。人形のようなミーナと違って体温は感じるが、空気に仄暗さが漂っている。また、ミステリアスで美しい女はそれだけで男の目を引くが、それを本人が理解している態度でいる。

 年齢の割に世間慣れしているのはミーナと同じ。存在の異質さも同じだ。成功体というのは皆こうなのかもしれない。

「もう私の話は聞いているのでしょう? 第五成功体のクリオネよ。どうぞよろしく」

「レオ・レグルスだ」

 躊躇いなく数字を告げたことに驚きながら、テーブル上で握手を交わす。

「言った通り、あなた達に同行したいの。目的地があなた達と同じなの。差し障りはないわよね。それに、私はその辺の戦闘員や傭兵よりも役に立つわ。向かうのは、独立戦線の次の襲撃拠点アルーグ基地。政府軍と反政府組織とが入り混じる巣窟。私と一緒にいたら安全な航海を約束するわ」

「要件は分かった。しかし、俺達と同行する君の目的は何だ?」

 クリオネは過剰なくらいに眉尻を下げる。

「とても残念だけど、教えられないわ。あなた達の意図も聞いていないんだもの、私だけ喋るのも不公平でしょ? 安心して。一緒にいる限りは、危害は加えない」

「彼女にもということか」

 保険として尋ねたレオに、クリオネはふふっと笑った後、「勿論よ」と言った。

 隣のミーナは二人の間に割り込まず、素知らぬフリでアイスティーを飲んでいた。手をつけていなかったのか、氷は随分と小さくなっているようだ。

 レオは諦観から溜息をついたが、選択の余地はない。

「いいだろう」

 どうも納得がいかないのは、自分の意志が介在する余地がないからだ。流されていることに直感が不快感を示している。ミーナと会ってからこれまで培ってきた経験がまるで役に立たない事案ばかりに遭遇している。

 レオの答えに、クリオネは満足そうに微笑んだ。

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