第2話 消えた彼?

「姉ちゃん、起きろよ。早く!」

 翌朝、私は、弟に叩き起こされました。

「姉ちゃんてば、起きろってば」

「うるさいわね。何時だと思ってるのよ」

「それどころじゃないんだってば」

 私は、寝起きの顔を見られたくて、ふとんを被って、言いました。

「やめてよ。いくら姉弟だって、女の部屋に勝手に入らないでよ」

 私は、ふとんを被ったまま怒鳴り散らしました。

「いいから、早く起きろってば」

 弟は、ふとんの上から私を揺さぶり起こします。

「わかったから、起きるわよ」

 私は、上半身を起こすと、弟は、構わずに私の手を取ってベッドから

起こすと部屋の外に連れ出しました。

そのまま、階段を駆け下りるようにして、下に向かいます。

 まだ目が覚めてない私は、階段を踏み外しそうになりながら、

前にもこんなことがあったなと思い出しました。

「なによ、いったい」

「これを見ろよ」

 開け放たれた戸の中を見ると、そこには、彼の姿はどこにもいませんでした。

「いないじゃない? どういうこと」

「不思議だ。また、消えたんだ」

 父は、きちんと畳まれたふとんを見ながら、言いました。

「鍵は、かかってるの?」

「ちゃんとかかってるって」

「アンタ、ちゃんと見張ってたの? 居眠りでもしてたんじゃないの」

「・・・」

「まったく、頼りにならないわね」

 私は、弟に言いました。

「でも、居眠りしてたとしても、戸が開けばわかるって」

 確かに、いくら寝ていたとしても、戸が開けば音で気がつくはずです。

「これで二度目だろ。いったい、どうなってるんだ」

 父は、腕組みをしながらダイニングに移動しました。

「俺のせいじゃないからな」

 弟もそう言って、ダイニングに向かいます。

「ちょっと待ってよ。こんなのおかしいじゃない。やっぱり、警察に

相談した方がいいんじゃない」

「無理だって。こんな話、信じてくれないし、警察も相手にしないよ」

「でも……」

 私は、ダイニングで早速、朝食を食べ始めている弟に言いました。

「ハイハイ、それはそれとして、ご飯食べて。仕事に遅れるわよ」

 母は、何事もなかったように、朝食の準備をしています。

「だって、こんなのおかしいじゃない。これで二度目よ」

「そうは言っても、いないんじゃ話にならんだろ」

 父は、まったく取り合ってくれません。

私は、釈然としないまま、朝食を食べました。

 パンを齧りながら、どう考えてもおかしすぎると思うと食事も

喉を通りません。

それなのに、ウチの家族は、事の重大さを感じようともしないことに

今日も朝からイライラしました。


 その日は、仕事に行っても、まったく仕事が手につきませんでした。

「どうしたの?」

 同僚の夕子が話しかけてきました。

でも、前回のことがあるので、どう話していいやらわからなくて

「なんでもない」といって話をはぐらかしました。

 私は、その日の帰りも、彼のことばかり考えていました。

名前も聞いてないし、どこから来たのかもわからないのです。

何かしら、犯罪を犯して逃げているのかもしれないなど、

どうしても悪いことばかり考えてしまいます。

 自宅近くに来ても、もしかして今夜もいるのかと思って、

真っ暗な玄関の門を見つめました。

もちろん、何もいません。少しホッとして、その日は帰りました。

 それからも彼の姿を見かけることはありませんでした。

一日、二日と過ぎると、私も仕事に追われて、彼のことを忘れていきました。

家族も彼のことを話題になることもありませんでした。

 それから、一週間、二週間と過ぎたある日の夜でした。

私は、帰宅して、夕食を済ませて、お風呂に入ろうと思いました。

「ご馳走様」

 そういって、自分の茶碗と皿を持って、流しに持っていこうとしました。

そのとき、テレビのバラエティ番組が、突然消えて、臨時ニュースに

変わりました。何事かと思って、テレビの方を振り向くと、アナウンサーが、

鬼気迫った顔で伝えていました。

「ただいま入ったニュースです。阿蘇山が噴火しました。画面を切り替えます」

 そこに映ったのは、真っ暗な闇の中で、真っ赤な溶岩が噴火する様子でした。

「なにこれ?」

「うわぁ、マジかよ」

 私と弟が同時に口を開きました。

「大変危険なので、近隣の皆さんは、非難してください」

 アナウンサーは、何度もそう叫んでいました。

真っ黒な闇夜の中から、真っ赤な溶岩が噴出し、今にも民家に流れていきます。

このままでは、大変な被害と、死傷者もたくさんでます。

流れ出る溶岩が、今にも民家に近づいてくるのが見えました。

「大変なことが起きたな」

 父が、感心しながらテレビを見てました。

テレビからも聞こえる、爆音に私も震えました。

 そのときです。突然、画面が真っ黒になりました。

電波障害かと思った次の瞬間、再び画面が映ると、今度は、真っ赤な溶岩が

黒く固まりそこから白いものが噴出していました。

そして、その向こうに、二つの光る何かに気がつきました。

「ねぇ、アレなに?」

 私は、テレビに言いました。でも、父も弟もそれには気が

つかないようでした。

「何も見えないけど」

 弟が言いました。

すると、どんどん白い煙のようなものが立ち昇りました。

「なんだこれ?」

 弟もビックリしていました。

「これは、水蒸気みたいだな。熱い溶岩が急激に冷めていくときに

出る症状だな」

 と、父が訳知り顔で言いました。

でも、私のような素人には、よくわかりません。

その間も、濛々と立ち上る白い湯気のようなもので、画面が真っ白に

なって行きます。テレビを見ても、なにがなんだかわかりませんでした。

 そして、次第にその白い湯気のようなものが消えていくと、

真っ赤だった溶岩も黒く固まっています。

現場のリポーターが必死に叫んでいるけど、状況がまったくわからない

様子でした。

「とにかく、これで一安心だな」

 父は、ホッとしたように言うと、寝室に行ってしまいました。

「俺も寝よう」

 そういって、弟も二階に上がって行きます。

「ほら、アンタもいつまでも突っ立ってないで、それをこっちに渡しなさい。

洗えないじゃない」

 母は、私が手に持ったままの茶碗をひったくると、洗い始めます。

私は、まだ、テレビに釘付けでした。あの光は何か考えると、

寝る気もしません。チャンネルを変えても、どこも臨時ニュースばかりで、

映像も同じものばかりです。

「いい加減にして、寝なさい。明日も会社でしょ」

 洗い物を終えた母は、そういって、寝室に入っていきます。

私も諦めて二階の部屋に行きました。このところ、台風が消えたり、

噴火が突然収まったりへんなことが続くなと思いながら、

その日は就寝しました。


 翌朝もテレビも新聞も昨夜の噴火のことばかりでした。

コメンテーターや専門家といった人たちが、いろいろ解説していますが

結局、よくわからない、説明がつかないということばかりでした。

 死傷者もなく、逃げるときに転んだ高齢者が数人程度で、

家屋も甚大な被害も出ませんでした。

他人事とはいえ、ホッとしながら、会社に行きました。

 職場についても、噴火のことので社員たちも、アチコチで

盛り上がっていました。幸いなことに、我が社は、熊本に支社などないので、

被害もありません。

ただ、知り合いや親戚が熊本に居る人たちもいるので、

そのことのが心配になります。

 その日は、勤務を終えると、いつものように夕子と会社近くの

居酒屋で飲みました。

「いきなり、鎮火するなんて、ありえると思う??」

 私は、酔った勢いで夕子に聞いてみました。

「さぁねぇ…… 私にはわからないわ。でも、よかったんじゃない」

「それはそうだけど、雨が降ったわけでもないのに、おかしくない?」

「そんな難しいこと、私に聞いてもわかるわけないでしょ。

それより、飲みがたらないわよ」

 夕子は、そう言って、残りのサワーを飲み干すと、店員におかわりを

告げました。

「だってさ、この前の台風が消えたときとか、今回の鎮火したとかさ、最近不思議なことばかり起きるわよ」

「アンタは、何でも、そうやって考えすぎよ。それより、彼はどうなったのよ?」

「彼って?」

「トボけちゃって。前に助けた彼よ」

 そういわれて、やっと思い出しました。酔っていたとはいえ、まったく、

思いつきませんでした。

「何もないわよ。全然会ってないし」

「それならいいけど。もし、どっかで見つけたら、そのときは、

絶対離しちゃダメよ」

 夕子は、酔った顔で、言いました。私は、わかったのかわからないのか、

合わせるように頷いてみせました。 そして、夜の10時を回ったころ、

店を出ました。 駅で夕子と別れて、電車に乗り最寄り駅で降りると、

いつもの道をフラフラした足取りで帰ります。

自宅が見えてくると、ホッとします。早く帰って、お風呂に入って

寝なくちゃと思いながら家に近づくと、門のところにまたしても

黒い影が見えました。

 私は、酔っ払ってるかなと思って、目を擦ると、その黒い物体が

倒れたのです。考えるより先に、足が動きました。

その黒い物体に近づくと、それは、まぎれもなくあの彼だったのです。

「ちょっと、起きてよ。しっかりして」

 そういうと、彼は、体を起こしながら呟きました。

「み、水……」

「ちょっと待って」

 私は、そう言うと、勢いよく玄関の扉を開けると、家族を呼びました。

「お父さん、裕司、ちょっときて。早く」

 私の声に、母が顔を出します。

「どうしたの? そんな大声出して、近所迷惑でしょ」

「あの人が、また、倒れているのよ」

 私は、もつれながら早口で言いました。

「なんだよ、姉ちゃん」

 弟が現れました。

「あの人が、また、いるのよ」

「えっ? 父さん、また、あいつがいるんだって」

「なんだって……」

 やっと、父も出てきました。

そして、父と弟の二人係で、彼を抱えて家に上げました。

部屋に入れると、すでに母がふとんを敷いていました。

彼をそこに寝かせると、また、蚊の鳴くような声で言いました。

「み、水……」

「ハイハイ、すぐに持ってくるから、待ってて」

 そう言って、母は、冷蔵庫から水のペットボトルを持ってきました。

彼は、それを受け取ると、あっという間に飲み干し、意識を失うように

倒れてしまいました。

「死んじゃったの?」

 弟が心配そうに覗き込みます。でも、彼の小さな寝息が聞こえるので、

心配なさそうです。

「寝てるだけよ」

 私が言うと、みんな静かに戸を閉めて、ダイニングに戻りました。

「どうする? これで三度目よ。やっぱり、警察に連絡した方がいいんじゃない?」

「無理無理。どうやって説明すんだよ。相手にしてくれないって」

「だけど……」

 私の提案も、あっさり弟に否定されました。確かにこの状態では、

説明のしようがありません。

「それより、アンタ、酒臭いわよ。お風呂に入ってきなさい」

 母に言われて、ハっと気がつきました。私は、急いで浴室に向かいます。

 お風呂から上がってくると、父も弟もいませんでした。

「お父さんと裕司は?」

「寝たわよ」

「ちょっと、また、あの人をここに泊める気?」

「だって、しょうがないじゃない。起こすのも可哀想でしょ」

「だけど、名前も知らない人よ。それも、今日で三度目よ」

「大丈夫よ。いいからアンタも寝なさい」

 母もそう言って、寝室に入っていきました。

「もう、信じられない。なんて家族なの」

 私は、そう言って、二階に上がりました。

その晩は、いろいろ思うところはあっても、酔っているせいか、

すぐに寝てしまいました。


「おはよう」

 私は、いつもの時間に起きて、一階に降りてくると、父と弟は、

朝ご飯を食べているところでした。

「姉ちゃん、あいつ、やっぱり、いないから」

 弟がパンを食べながら言いました。

椅子に座りかけた私は、まだ、座りきらないうちに、立ち上がると、

部屋に行きました。まだ、ボーっとしている頭で、昨夜のことを

思い出しました。

戸を開けると、きれいに畳まれたふとんだけがありました。

「どういうことよ」

「そんなの俺に聞かれても、わかるわけないじゃん」

 弟は、あっさり言いました。

「お父さんは、どうなの? 気がつかなかったの」

「二度あることは、三度あるというだろ」

 父は、朝のニュースをみながら言いました。

「何、言ってんのよ。人一人が消えたのよ」

「朝から、そんなに大きな声を出さないの。早く、ご飯を食べちゃいなさい」

 母が私に言いました。

「そうそう、これを見つけたぜ」

 弟は、コーヒーでパンを流し込むと、一枚のメモを私に見せました。

「なにこれ?」

「ふとんの上にあったの。たぶん、置き手紙かなんかじゃない?」

 見ると、下手な字で『ありがとう』と書いてありました。

「なんなのよ。こんなことするなら、口で言えばいいじゃない」

「照れてんだろ」

 と、父が言いました。

「でも……」

「ちゃんと、感謝はしてくれているみたいだから、いいじゃないの」

 母も、そう言って、笑いました。だけど、私は、まだ釈然としませんでした。

置き手紙を残したとはいえ、黙って出て行かれたことには、

変わりはありません。それが無性に腹が立っているのです。


「アラ、今日は、ずいぶん、ご機嫌斜めじゃない」

 会社に着くなり、夕子が話しかけてきました。

「あの後、何があったのよ? お父さんに怒られたの? それとも弟さんと

ケンカしたとか」

「そんなんじゃないわよ」

 私は、夕子に強い口調で言うと、パソコンの画面を見ながら、

キーボードを叩きます。

「まぁいいけどね。でも、顔、怖いよ」

 夕子は、そう言って、自分の席に戻りました。

私は、パソコンの画面に映る、自分の顔を見ました。

確かに、昨夜の怒りが顔に出ているみたいで、自分のほっぺたを軽く

叩いて筋肉をほぐしました。そして、無理に笑顔を作ります。

「あのさ、そんなことしても、怖いもんは怖いから」

 夕子が、私の耳元で囁きました。なんだか、仕事に集中できないまま、

一日が終わりました。そして、その日は、まっすぐ家に帰りました。

家の前まで来ると、門のところの黒い影を探してしまうようになりました。・

「今日は、ないみたいね」

 私は、ホッとして、自宅に戻りました。

「ただいま」

 そう言って、中に入ります。

「お帰り。今日は、早かったわね」

「うん、たまには、ウチでお父さんの晩酌に付き合ってあげようと思ったの」

「珍しいわね」

 母は、うれしそうに言いました。

「もうすぐ、お風呂から上がってくるから、アンタも着替えてらっしゃい」

 そう言われて、私も二階の部屋に上がって、部屋着に着替えました。

すると、向かいの部屋から弟が出てきました。

「お帰り、姉ちゃん。今日は、早いんだね」

「お母さんみたいなこと言わないでよ」

 そういって、二人で一階に降りました。

すると、丁度父もお風呂から上がったところでした。

「今夜は、あなたと飲みたいんだって」

 母は、そう言って、ビールのグラスを二つテーブルに置きました。

「そりゃ、うれしいな。令子と飲むのは、久しぶりだからな」

 と、父もうれしそうにビールを私のグラスに注いでくれました。

「オレも付き合うけど」

「こら、アンタは、まだ、未成年でしょ」

「ハイハイ……」

 母に叱られて、弟はあっさり引き下がります。

私は、ビールの入ったグラスで、父と乾杯して、一口飲みました。

「今夜のビールは、一味違うな」

 父は、そう言って、笑いました。

「ハイ、どうぞ」

 母は、そう言って、お酒のツマミを出してくれました。

「アンタは、ご飯よ」

 弟には、ご飯とオカズです。

私は、軽く酔ってきたので、何杯目かのビールの後に、それとなく

聞いてみました。

「ねぇ、あの人、どう思う?」

「あの人って、誰のことだ?」

「この前の彼のことよ」

「そんなの、どう思うって聞かれても、名前もわからないんじゃ、

答えようがないだろ」

「そうだけどさ…… なんだか、気になるのよね」

 言いながら、私は、グラスに残ったビールを一気に飲み干しました。

「何だかんだ言って、姉ちゃんは、気になるんだ。イケメンだもんな」

「顔を見たの?」

「はっきりとは見てないぜ。なんとなくみたけど、結構イケてた

気がするけどな」

 弟の話では、そのまま信じる気にはなりません。

彼と出会ったのは、いつも夜だったので、顔まではっきり見ていません。

こんなことなら、もっと、よく見ておけばよかったと後悔しました。

 その日の夜は、珍しく父もたくさんお酒を飲んだようで、酔っ払ったのか

いつもより早く寝てしまいました。

「お父さんもお酒に弱くなったわよね」

 私は、そう言いながら、空になったコップを流し台に置きました。

「あの人が弱くなったんじゃなくて、アンタが強いのよ」

 私は、そうかなと思いながら、お風呂に入りました。

「お酒を飲んだ後なんだから、軽くにしなさいよ」

「わかってる」

 私は、母にそういって、浴室に向かいました。

シャワーを浴びながら、今頃彼は、どこにいて、なにをしているのか、

ぼんやり考えていました。


 翌日もいつも通りの朝を迎えて、出勤すると、定例の朝礼のときに、

課長が言いました。

「では、今度の日曜日に、新入社員との親睦を兼ねて、奥多摩にピクニックに

行くことにします」

 私は、課長の話を余りちゃんと聞いていませんでした。

ただ、貴重な休みの日曜日がつぶれるのが、イヤだなと思って

聞いていたのです。

「アンタは、行くの?」

「親睦会? 私は、パス」

「え~っ! なんでよ」

「面倒臭いもん。日曜日は、ウチで寝てるの」

「そんなこと言ってるから、いつまでたっても、彼氏ができないんだよ」

「別に彼氏なんて、欲しくないもん」

 私は、夕子に強がりを言いました。正直言って、夕子に彼氏がいるのが、

ちょっと悔しかったのです。

「あたしも行くから、アンタも行こうよ」

「何で、夕子が来るのよ。彼氏がいるじゃない」

「彼は彼よ。別に、浮気じゃないもん。それに、今度の新人くんたちは、

かなりイケてるらしいよ」

「まったく。しょうがないわね。付き合うわよ」

「やった! それじゃ、二人参加ね」

 そういうと、夕子は、課長に早速、報告しに行きました。

結局、その日の昼過ぎには、メンバーが決まったようで、課長から

詳細メールが送られてきました。

 課長と係長に、新入社員の男子が三人で合計五名。

女子は、私と夕子と、他の部署からの女子社員も合わせて五人の、

全員で十名となりました。車二台に別れて、奥多摩までバーベキューを

するということで、私と夕子が買出し係ということで

仕事中にもかかわらず、特別に近くのスーパーで、

食材を買うことになりました。

 最初は、余り乗り気じゃなかった私だけど、こうしていろいろ

買い物をしているうちになんだかワクワクしてきました。

正直言って、ピクニックとかバーベキューとか、

やったのは大学のとき以来で、何年前だったかも、思い出せないくらい

過去のことでした。

 買ってきたものは、メンバーで分け合って、一度持ち帰り、明日の集合の

ときに持ち寄ると言うことになりました。

なんだか、遠足前の小学生に戻ったような気分でした。


 そして、日曜日の当日、駅で待っていると、続々とメンバーがやってきます。

新人くん達とは、滅多に顔を合わせる機会がないので、

駅前でそれぞれ紹介されて車に乗り込みました。

運転役は、課長の大学生の息子さんとそのお友達でした。

「お前たちは、今日は運転手だから、酒は飲まないように」

 と、課長に言われて、素直に頭を下げるところは、まだまだ学生だなと

思いました。車二台に分かれて乗り込み、途中に休憩を挟んで、

ニ時間くらいで現地に着きました。

 男子チームは、バーベキューの準備。女子チームは、食材の下ごしらえに

分かれて早速、準備に取り掛かります。最初は、余り知らないもの同士でも、

次第に話をするようになり、笑い声も聞こえてくるようになりました。

「もう、飲んでるんですか? 課長と係長も手伝ってくださいよ」

 早速、ビールをあけて、準備に忙しい私たちの尻目に、二人で乾杯しているのを見て夕子が口を尖らします。

「我々は、監督だから、見てるだけ」

「あとは、食べて飲むだけ」

 そう言って、課長と係長は、すっかりご機嫌でした。

課長の息子さんとそのお友達も、準備を手伝いながら、楽しそうでした。

 私は、近くの水呑場に水を汲みにバケツを持っていきました。

近くに水道とトイレもあるので、ここは便利な場所です。

よく見ると、あちこちで家族や友人同士で、バーベキューをしている

グループがいました。

 私は、バケツに水を汲むと、元きた道を引き返します。

すると、来た時には、気がつかなかった立て札に思わず足が止まりました。 

そこには『熊に注意』と書いてありました。

 こんなところにも熊が出るのかと、思いました。

でも、今は昼で明るいし、人もたくさんいるので、気にも留めませんでした。

 バケツに汲んだ水が重くて、少し歩くとバケツを地面に置いて、

休憩しながら運びます。

何度目かの休憩をして、バケツを持ち上げると、少し前に大きな大木に人が

しゃがみ込んでいるのに気がつきました。

 知らない人とはいえ、そのまま通り過ぎるのも悪いと思って、

その人に近づいて声をかけてみました。

「あの、大丈夫ですか?」

 私の声に、俯いていたその人は、ゆっくり顔を上げました。

そのとき、私の脳裏に稲妻のような電気がビビッと走りました。

 顔を上げたその男性は、私を見上げるとこう言ったのです。

「み、水……」

 その声は、どこかで聞いた気がしました。どこで聞いたんだろうと、

思っていると地面に置いたままのバケツを両手で抱えると、

中の水を一気に飲み干したのです。

 それを見たとき、私は、確信しました。あのときの彼だと……

私は、考えるのも先に、こう言っていました。

「私を覚えてる? あなたでしょ。そうよね。あなたよね」

 彼は、私を見上げると、静かに頷きました。

「ありがとう。地球の水は、おいしいですね」

 そう言うと、ゆっくり立ち上がりました。

そして、そのまま歩き去って行こうとしました。

私は、反射的に、彼を追います。

「待って。どこに行くの? どうして、ここにいるの?

ここで、なにをしているの?」

 私は、自分でも知らないうちに、そう言っていました。

でも、彼は、何も答えず、優しそうな顔で笑っていました。

「ちょっと、待ってよ。答えてよ。あなたは、誰なの?」

 何も答えない彼に対して、つい、大きな声を上げてしまいました。

そのとき、私の背後の草むらががさがさ音がしました。

 その音に気づいた私は、そのまま振り向くと、そこに、見たこともない大きな生き物がいました。それは、熊でした。巨大で大きな熊です。

 私は、それきり、動けなくなりました。四つんばいの熊は、

ゆっくり歩いてきます。声を上げたいのに、声が出ません。

熊に会ったときには、どうすればいいんだっけ?

死んだ振りだっけ? それはダメってテレビで言ってた気がする。

でも、どうするの? 熊は、のそのそとゆっくり私に向かってきました。

目を合わせちゃいけないと思っても、目で熊を追ってしまいます。

 そのとき、熊がいきなり二本足で立ち上がりました。

二メートルか、もっと大きく見えました。立ち竦んだままの私は、

その場にへなへなと崩れました。

足の力が抜けて、腰が抜けたのか、その場に尻餅をついたまま、

へたり込みました。

 その熊が、鋭い爪を持った大きな前足を振り上げます。

私は、頭のどこかで、死ぬ瞬間を思い描きました。

 そのとき、彼が私の前に立ち塞がりました。

『ダメ、そんなことしたら、あなたが、熊に殺されてしまう』

 そう思っても、言葉になりませんでした。

熊が、低い唸り声を上げて、その手を彼に向けて振り下ろされました。

私は、両手で顔を覆って、目を閉じました。

「もう大丈夫ですよ。熊は、行っちゃいました」

 それからどれくらいたったのか、たぶん、ほんの数秒の出来事だったはず。

でも、私には、何十分、何時間もたったような感じでした。

「大丈夫ですか?」

 彼の優しい声が聞こえて、両手を下ろしてゆっくり目を開けると、

熊が草むらの中に逃げていく後姿が見えました。

「助かったの?」

「ハイ、助かりました」

 私は、恐怖のあまり、声が震えているのが自分でもわかりました。

彼は、私の手を取って、立ち上がる私を支えてくれました。

だけど足ががくがく震えて、自分では立ってることもできませんでした。

 彼は、近くにあったベンチまで私を優しく誘導して座らせてくれました。

そして、涙でぐしょぐしょの顔をハンカチで拭ってくれました。

「もう、大丈夫だから」

 私は、鼻をすすりながら、自分で涙を拭きました。

「怖かったですね。でも、もう安心ですよ」

 私は、一度、大きく息を吸って、それからゆっくり吐くと、

やっと彼の顔を見ることができました。

「えっ!」

 私は、思わずベンチの背もたれに仰け反りました。

彼の目が、真っ赤に光っていたのです。充血しているわけではありません。

ライトのように、明るく光っているのです。

「目……」

 私が呟くように言うと、彼は、照れたような顔をしてこう言いました。

「すみません、驚かせて」

 そういうと、両手で目を隠し、その手を離したときは、普通の黒い目に

戻っていました。

「あなた……あなたは、何者なの?」

 その言葉に彼は、恥ずかしそうにこう言ったのです。

「ぼくは、宇宙人なんです」

 

 私は、その言葉をすぐに理解できませんでした。

出来るわけがありません。今の時代に、いくら科学の進歩があって、

宇宙が解明されているとはいえ目の前に、宇宙人がいると言われて、

すぐに理解できるほど、私は賢くありません。

「このこと、秘密ですよ。それじゃ」

 そういって、彼は、踵を返して、歩いて行きました。

「待って」

 私は、自分でも信じられない行動に出ました。

彼を追いかけたのです。そして、彼の腕を掴んで、引き止めました。

「待ってよ。やっと、会えたのに、また逃げるの」

「すみません。ぼくにはやることがあるんです」

それでも、私の手を振りほどくようなことはしませんでした。

 そのとき、帰りの遅い私を気にして、夕子がやってきました。

「令子、なにしてんのよ。みんな待ってるよ」

 夕子に気がついて、思わず彼から手を離してしまいました。

「ちょっと…… 悪いけど、私これで帰るから」

「ハァ? なに言ってんの。来たばっかりじゃない。バーベキューは

これからなのよ」

「ごめん、夕子。急用を思い出したの。課長たちには、うまく言っておいて」

 そう言って、両手を合わせて、頭を下げてお願いしました。

そして、彼のほうを見ると、そこに彼の姿は消えていました。

「ウソッ……」

「なにが、どうしたの?」

「ごめん、この借りは、返すから、後はよろしく」

 そういうと、夕子の止めるのも聞かずに、彼のいた方向に

走り出していました。彼を見つけないと。せっかく、会えたのに。

ここで、逃したら、もう二度と会えない気がして

私は、必死に走りながら彼の姿を探しました。

 どこをどう走ったのかわからないけど、小高い丘を見つめている彼の

後姿を見つけました。

私は、今まで、走ったことがないほどの全力疾走で、彼に追いつくと、

後ろからしがみつきました。 息を切らして、喉もからからで、声も出ません。

突然後ろから捕まれた彼は、それでも優しそうな顔で私を見下ろしていました。

「もう、逃げたりしませんよ」

 彼は、優しくそう言いました。

でも、私は、離しませんでした。首を左右に振って、捕まえた両手に

力をこめます。

「離してくれませんか? これじゃ、話も出来ませんよ」

 そう言われて、私の手の力が抜けていきました。彼は、私の両手を取って、

ゆっくり振り向きました。

私は、まだ、息が切れて呼吸が乱れ、言葉も出ません。

それどころか、走り回ったことで、汗だくで、髪も乱れています。 

少しずつ、呼吸が落ち着いてくると、今度は、彼にこんな姿を見られて、

恥ずかしさがこみ上げてきました。

「落ち着きましたか」

 彼の声は、耳にもやさしく聞こえ、頷くと彼は、またこう言いました。

「ちょっと座りませんか」

 そういうと、指をパチンと鳴らしました。すると、地面に二つの

赤い椅子が現れました。

「えっ! あの、これ……」

 私は、その椅子を凝視していました。その椅子に、彼は、当たり前のように

座りました。

「座った方が、話しやすいですよ」

 そう言って、彼は、自分の隣の椅子を指しました。

私は、静かにその椅子に腰を下ろします。特に、座り心地がいいわけでもなく

いたって普通の椅子です。

「座りにくいですか? もっと、違う椅子のがよかったですか」

「い、いえ、大丈夫です」

 私は、小さな声で言うと、横向きに座り直して、彼の横顔を見ました。

頭の中は、パニック状態です。聞きたいことが山ほどあるのに、

どれから聞いていいか整理できずに、うまく言葉が出てきませんでした。

それなのに、私の口から出た言葉は……

「この椅子、どうしたんですか?」

 私は、何を言ってるんだろう…… 椅子なんてどうでもいいのに。

いや、どうでもよくない。椅子は、元々ここにはなかった。それは確かです。

それじゃ、この椅子は、どこから出てきたのか。

「ぼくが出したんです」

「どうやって?」

「こうして」

 彼は、そう言うと、また、指をパチンと鳴らしました。

すると、また、赤い椅子が一つ、私の隣に現れました。

「どういうことなの?」

 すると、彼は、少し考えてから、こう言いました。

「地球人の言葉で説明すると、魔法ですかね」

「ハァ? 魔法…… 今、魔法って言ったわよね?」

「そうとしか、説明ができないんです。すみません」

 彼は、そう言って、頭を下げました。

「イヤ、謝ることじゃないです。あなたは、魔法使いなんですか?」

「いえ、さっきも言ったように、ぼくは、宇宙人なんです」

「だから、宇宙人とか、魔法とか、まったく意味がわからないんだけど……」

「それじゃ、どういえばいいのか、教えてもらえませんか?」

「それは、私が聞きたいんですけど」

 自分は、何を言ってるんだ。彼を怒らせようとでもしているのか。

ずいぶん失礼なことを言ってる自分に、少し腹が立ちました。

「ごめんなさい。助けてもらったのに……」

「いいえ、大丈夫です。誰でも驚きますからね」

 彼は、優しい笑顔でそう言いました。

「だいぶ落ち着いたようなので、ぼくは、そろそろ行きますね」

 そう言うと、立ち上がって、私に立つような仕草を見せます。

私は、それにつられて立つと、彼は、また、指を鳴らしました。

すると、そこにあった椅子が、音もなくあっという間に、消えました。

「このことは、誰にも秘密ですよ。それでは、失礼します」

 彼は、軽く会釈すると、歩いて行ってしまいました。

「待って。行かないで……」

 またしても、自分の意思とは関係なく、勝手にしゃべっていました。

そして、彼を追いかけて、その腕を掴みました。彼は、足を止めて、

私を見下ろします。

「帰ろう。私の家に……」

 彼は、驚いたような表情をしてます。

「ねぇ、いっしょに帰ろう。あなた、さっき、私の家族にお礼をしなきゃって

言ったじゃない」

「確かに、言いました」

「だから、これから、ウチに帰るのよ」

 彼は、困った顔をしていました。でも、私は、この手を離しませんでした。

ここで離したら、二度と会えない。そんな気がしてなりませんでした。

「わかりました。あなたの家に行きます」

 彼は、また、優しく微笑みました。彼を困らせてばかりなのに、

彼は、とても優しく振舞います。

「もう、逃げませんから、手を離してくれませんか」

 私は、ハッとして、その手を離しました。

「ご、ごめんなさい」

「いいえ、どういたしまして」

 彼は、そう言いました。

私は、ホッとして、落ち着きを取り戻すと、ようやく頭の方も

冷静になりました。

 すると、とんでもないことに気がついたのです。

ここはどこなんだろう? 駅はどっちなんだろう? 彼を夢中で追いかけたので、

すっかり迷子になってしまいました。慌ててポケットに手を入れて、

携帯で調べようと思ったら、その携帯がありません。

バケツで水を汲みに行ったとき、携帯はカバンに入れたままにして、

車に置きっ放しにしてたのを思い出しました。

しかも、財布もカバンに入れたままなので、これじゃ駅についても、

電車に乗れません。

「あの、あなた、お金は持ってないわよね」

「ハイ、持っていません」

 彼は、あっさり言いました。

「どうしよう…… 帰れないわ」

 今更、車に取りに戻ることも出来ないし、事情を駅員に話して

どうにかなることでもありません。

私の方から、強気なことを言って、彼を無理やり連れて帰ろうとしたのに、

この有様で情けなくなりました。

昔から、後先を考えずに突っ走ってしまうのが悪い癖だと、

いつも親に言われていたことを思い出します。

「家の方角はわかりますか?」

「たぶん…… 東京の方だから」

 何をトンチンカンなことを言ってるんだろう。

こんな事で、家がわかるわけがありません。

「では、家の近くまできたら、教えてくださいね」

 そう言うと、彼は、私から三歩下がりました。

「出来れば、目を閉じていて欲しいんですが」

「えっ……」

「大丈夫ですよ。ぼくを信じてください。逃げたりしませんから」

「ホントに?」

「ハイ。本当です」

 私は、彼を信じて、目を閉じました。薄目を開けて、何をしようとするのか、

見てやろうと思ったそのときです。目の前が一瞬光って、本当に眩しく感じて、

薄目どころかしっかり目をつぶりました。

「もういいですよ」

 そう言われて、ゆっくり目を開けました。

「ウソッ!」

 思わず漏れたその声は、自分でもわかるくらい、大きな声でした。

「これが、ぼくの本当の姿なんです。怖いですか」

 目の前にいた彼の姿は、もうどこにもいません。

今、私の前にいるのは、全身が銀色に輝き、体に赤いストライプがある、

どこからどう見ても宇宙人でした。

顔も銀色で赤くて大きな眼が二つありました。その代わり、鼻とか口は

ありません。でも、しっかり結んだ唇のような形のものが顔の

下の部分に見えました。

「あなた、ホントに宇宙人だったの」

「ハイ、驚きましたか」

 私は、ウンと頷くと、心臓がドキドキして、ものすごい音で鳴っていました。

「それじゃ、行きますよ。しっかり掴まっていてください」

 彼は、そう言うと、ゆっくり私に近づきました。

銀色の姿をした彼を見て、足が漉くんで動けません。

そんな私を軽々と抱き上げると、抜けるような青空に軽くジャンプしました。

 すると、彼は、そのまま空に向かって、飛んでいったのです。

「しっかり掴まってないと、落ちますよ」

 彼の声は、同じです。人の姿になってないのに、声は同じでした。

と言うことは、この銀色の人は、彼なんだ。間違いなく、彼そのものなんだ。

私は、彼の顔を間近で見てそう思いました。

「怖くないですか」

「全然」

 そう言って笑った顔が、かなり引きつっていると思いました。

こんな顔を彼に見られたくない。私は、そう思って、彼の顔から視線を

はずしました。すると、次に私の目に飛び込んできたのは、

きれいな緑に囲まれた森と林でした。

その向こうには、大きな山がそびえています。

「私、ホントに空を飛んでいるの?」

「そうですよ。怖くなければ、下を見てください」

 彼に言われて視線を下に向けると、駅と線路が見えました。

そこを走る電車が、まるで模型のように小さく動いています。

今度は、顔を前に向けると、きれいな青い空が見えました。

 風が私の髪を優しく揺らします。

「東京の街は、真っ直ぐで大丈夫ですか?」

 彼に聞かれて、私は、視線を前に向けます。

すると、はるか向こうに東京タワーが小さく見えました。

「このまま、真っ直ぐです」

「わかりました。それじゃ、ちょっと飛ばしますよ」

 彼は、そう言うと、急上昇しました。

もう、声も出ません。私は、夢中で彼の首にしがみついていました。

「見てください。雲ですよ」

 私は、しっかり彼に抱きついたまま、目を開けると、そこに真っ白な綿飴の

ような雲が見えました。

そのまま、彼は、私を抱いたまま雲の中を突っ切ったのです。

「す、すごい…… 信じられない」

 私は今、彼に抱かれて空を飛んでいる。しかも、雲の中を抜けて、青空の下を鳥のように飛んでいる。

夢を見ているとしか思えませんでした。これが現実だったらなんて、

どう考えてもありえない話です。

 でも、私の頬に当たる風は、どう考えても本物です。

視界には、緑の木々や山から、少しずつ民家が見え始めました。

そして、都心を走る電車が目立ってきます。高層マンションも小さく見えます。

下を歩いている人間たちが、米粒のようです。

「苦しくないですか」

「平気です」

 私は、彼の耳らしい部分に向かって、声を張り上げました。

「大丈夫ですよ。ちゃんと聞こえてますから」

無表情な能面のような顔をしているのに、私には笑っているように見えました。

 だんだん見覚えがある町並みが見えてきました。

どれくらい飛んでいるのか、時間まで見る余裕はありません。

すでに落ち着いたのか、馴れたのか、空を飛んでいるときも、

下を見るだけでなく周りの景色を見る余裕も出てきました。

 空を飛んでる鳥たちは、こんな景色を見ているのかと、感心しました。

音もなく、飛行機でもなく、鳥でもない、彼に抱かれて空を飛ぶなんて

きっと、誰に話しても信じてくれないだろうなと思うと、

これは、私だけの秘密にしようと決めました。

 そして、下を見ると、見覚えがある駅舎が見えてきました。

「あっ、駅です。あの駅です」

 私は、彼に言いました。ほんとは、指を刺そうかと思ったけど、

今手を離したら、絶対に落ちます。

「では、少し下りますよ」

 そう言うと、彼は、少しずつ高度を下げていきました。

それも、私を気遣っているのか、ゆっくりと下りていきます。

「あの、そんなに下りると、下の人たちに見えちゃいますよ」

「大丈夫です。ぼくの姿は、地球人には見えません。

シールドを張っているので、安心してください」

「でも、私には、あなたの姿がちゃんと見えるのよ」

「それは、ぼくが、あなたに特別な感情があるからです」

 私の顔を見て、彼はそう言ったのです。

特別な感情って、どういうこと…… てゆーか、今、この状態で言うことですか?

またしても、頭の中がグチャグチャになって、顔が赤くなってくるのが

わかりました。こんな間近で、こんな顔を彼に見られたくない。

でも、隠しようがありません。

 彼は、私の気持ちなどわからないのか、前を見たり下を見たりしながら、

少しずつ降下します。

「あなたの家は、どこですか?」

 私は、下を見て、自宅を探しました。

とは言っても、自分の家を真上から見たことなんてないので、

どれが自分ちなのかわかりません。

「あっ、アソコです。あの公園の近くです」

 いつも公園のそばを通って、通勤しているので、それはわかります。

「それじゃ、あの公園に降りますね」

 まだ、公園内には、人がいます。遊具で遊んでいる子供や、

その周りにいる親たちも見えます。

そんなところに、空から突然人が現れたら、どうするんだろう……

私は、不安しかないこの気持ちが、正直な感想でした。

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