第14話 朱い衣の紋章術士
ドラゴンの口元に火が灯った。
俺は右へ動くと見せかけて左へ動く。ドラゴンの首は俺を追ってきた。
そこで俺は、更に右へ動いた。ドラゴンの首が追ってくるが、見てから動くまでには僅かだが時間がかかる。
俺とドラゴンは始めの場所に戻ってきていた。戦士から借りた剣が、地面に刺さっているのがその証だ。一度は炎に焼かれた剣は、すすか何かで黒く汚れている。
走りながら剣を引き抜いた。片腕ではとても扱いきれない。剣先は引き摺りながらだった。
変わらず重い。振っても体が振り回されるだけだろう。両腕が揃っていれば違ったかもしれないが、
ドラゴンの首がしっかりと俺を捕える。あとは炎を吐き出すだけで、俺は丸焦げになってしまうだろう。しかしそうはならないのだ。
赤く灯りつつある喉に、剣を放り込んでやる。つもりだったが、俺の力不足で剣は下顎辺りへ落ちていく。
ドラゴンは邪魔だと、顎で剣を払った。すると剣がドラゴンの足元に落ちる。足元へ落ちたのだ。
それを見て俺は思う。面白いことを思いついた。ドラゴンが剣を払った隙に、足元へと滑り込む。
間一髪だった。頭の天辺が熱くなる。ドラゴンが炎を吹いたのだ。なんとか当たらずに済んだわけだが――。
ドラゴンの爪が上から落ちてくる。俺は身を躱しつつ、剣を拾い上げた。
何度持っても重たく感じる。それの切っ先をドラゴンへと向けた。狙いはひとつ。首元にある傷口だ。
ドラゴンは炎を吐きながら、後退をしようとした。足全てを曲げて飛び退く用意をする。
それよりも先に、まっすぐ剣を突き上げ、ドラゴンの首元へと差し向けた。首元には鱗がなく、真っ赤な肉が露出している。最も防御が薄い箇所だ。高い位置にあるが、剣があれば届く。
剣が肉へ到達する。しかし……。
「硬い」
ほんの先すら通らない。剣は肉に押し返されてしまった。かすり傷くらい付けられると思ったが甘かった。鱗ですらない露出した傷口にすら攻撃が通らない。俺とドラゴンの能力差は、この程度で超えられるほど易しいものではないようだ。
だがこれでいい。最大の目的は達成した。
首元の傷、それは文字通り傷であり、出血を伴っている。そこに剣を触れさせた。血は刃に移り滴っている。龍の血だ。
指で血を掬うと、その指にキスをした。
甘かった。
透き通っているようで濃厚。舌の上で香りが膨張し、全身に染み込んでいく。
最底辺であってもさすがはドラゴンか。龍の血。これは美味い。癖になりそうだ。
ドラゴンが後退する。ぽつんと立ち尽くす俺を焼き殺そうと、炎を吐きながらだった。
急いで逃げなければ。そう思いながらも足がなかなか動かない。龍の血があまりにも美味しく、笑顔が抑えられない。もっと欲しいな。
体内に入った龍の血は、血の魔法により分解される。それは活力と能力へと変わった。
ドラゴンが持っているスキルを得る。その中に【全能力上昇】があった。俺が獲得したものは、本物の完全な下位互換だがそれでも十分。俺の身体能力は数倍に膨れ上がった。効力は弱いが【火耐性】も獲得する。
圧倒的な力の差は依然としてそのままだ。ドラゴンが吐く炎が直撃していればひとたまりもない。ただし直撃すればの話である。
さっきまでとは別人としか思えない、軽快な足取りで炎を掻い潜る。火耐性を得て周囲の火事を無視できるようになったことが大きい。燃え盛る家屋に飛び込んで身を隠す。
火に囲まれても熱はそれほど感じない。【火耐性】様様だ。
俺は急ぎ、脆くなった壁を殴り壊す。できた穴から外へ出た。
血の魔法で得た程度の【火耐性】では直接火に触れるべきではない。それを冒したおかげで外へ出られたが、右手が少し焼けた。
ドラゴンは俺が隠れた家屋に突進をかます。焼けながらも形を残していた家屋は崩れ、もはや見る影もない。
振り返ってみると、ドラゴンが『みつけた』と言わんばかりに目をギラギラ輝かせている。
「そろそろいいかな?」
戦士も安全圏へ脱している頃だろう。怪我に子どもを連れてだとそう速くは動けないはずだが、ドラゴンの索敵範囲外に出られるだけの時間は作った。こちらも逃げる用意を進めたい。
逃げるために、どうにかしてドラゴンを足止めをする必要がある。鬼ごっこではまず勝てない。見失わせるか、簡単には出られない場所へ誘導するか。
前者は無理だろうな。索敵範囲から気づかれずに抜け出す方法がない。ドラゴンに新しい遊び相手を充てがえられたら別だが、俺以外にドラゴンの前に立ちたがる馬鹿なんてそういない。
後者も無理だ。閉じ込められる檻がない。
「仕方がない。勝ち目がない鬼ごっこでもするか」
龍の血を舐めてから、俺の身体能力は大きく向上した。ドラゴンの能力と比べるとたかが知れているが、俺は今までの自分との違いを感じている。本気で走ったら、どれくらいの速さなのか確かめてみたい。
決めるとすぐに走り出す。燃える家屋の隙間をジグザグに進んだ。ドラゴンとの間には、常に障害物を置くように意識する。
俺は走りながら、気が狂ったかのように笑った。声を大きく上げて笑った。笑わずにはいられなかった。思っていたよりも、ずっと速く走れたからだ。
たった数滴、龍の血を舐めただけで、信じられないような身体能力を得られた。予想だが、今の俺はレベル20程度のステータスだろう。
これは一時的なものだ。時間が経てば元に戻る。しかし本当にレベルを20にすれば、常に今と同等の身体能力でいられるはずだ。
強くなりたい。ああ、強くなりたい。レベルを30、40とどんどん上げていった先には何があるのだろう。レベルが100を超えたら、180を超えたら――。
走るだけで風が心地良い。空気が肌を撫でる度、老廃物がこそぎ落とされるかのようだ。
すぐ後ろには、必死なドラゴンがいる。俺がジグザグに動くから、ドラゴンも加速と減速を交互に繰り返し、思うように進めない様子だった。
少しずつ距離が開いている。もしかしたらこのまま逃げ切れるのではないか。そんな想像が掻き立てられる。
ただ走るだけの作戦は、意外とハマっていた。
家屋が次々と壊されるリスクはあるが、もう既に火がついて燃えているのだ。気にする必要はないだろう。
破壊音が止んだのは、その後のことだった。
今まで必死に追ってきたドラゴンの気配が突然消える。音がぴたりと止んだのだ。
予定にない行動をされると困る。こちらに利益があるとしても、見落としを警戒して素直に受け取れない。
不気味に思い俺は振り向く。ドラゴンの今を確かめたかった。
ドラゴンは燃え盛る家々の向こうで、腰を低くしていた。飛ぶ気だ。そう思ったのは、怪我をしている翼を大きく広げていたからだ。
羽ばたくと暴風が吹き荒れる。しかし怪我をした翼では巨体は持ち上げられない。せいぜい高いジャンプが限界だった。それで十分だった。
ドラゴンは俺との距離を跳び越す。着地というよりも落下したドラゴンは、地面を揺らし、礫を周囲に飛び散らせた。俺はそれに襲われる。
衝撃と共に全方位へ射出された礫は、炎と違い避ける隙間がなかった。頭を片腕で守るだけで精一杯だ。俺の体にいくつかの石が食い込む。
ダメージは大きかったが致命傷にはならない。吸血鬼ゆえか痛みは小さかったし、急所は避けている。問題はその次。
俺が頭を守っていた腕を下ろすと、すぐそこにドラゴンの尻尾が迫っていた。
今までの攻撃は、全て予測を元に避けていた。ドラゴンとのレベル差が激しすぎて、見てからでは避けきれなかったからだ。
だから困った。振られてから気づいた攻撃は、とてもじゃないが避けきれない。
それでもなんとか身を翻す。無理無謀なんて考えている余裕がない。とにかく避ける。頭にあるのはそれだけだ。
しかし無理なものは無理である。ドラゴンの尻尾が、俺の右足に引っかかった。
何かを感じる間もなく、膝から下が千切れて飛んだ。俺はそれを「綺麗に飛んだなぁ」と冷静に見つめる。
片足を失い、俺は地面に落ちる以外には何もできなかった。走り回るのは夢のまた夢。片腕に片足となった現状では、立ち上がるだけでも超難関だった。
俺をドラゴンが見下ろす。楽しそうな笑顔に見えるのは気の所為……じゃないかもしれない。
もはや俺は逃げられない。攻撃を耐えられる装甲も持たない。ドラゴンを絶命させられる攻撃力もない。
それでも諦めてやるものか。
俺は
このドラゴンは俺より遥かに強いが、今まで出会ってきた敵の中では最弱だ。そう、弱いのだ。こんな奴にやられてなるものか。他のやつらに殺された方がまだ納得できる。
しかし俺にできることはない。使えるのは右手と左足、それと頭。一応牙もある。
俺は吸血鬼になった。まだ弱いが、血の魔法も習得している。
血の魔法は血液を介した魔法。啜った血液を吸収してスキルを得たり、血液を操作し出血を促進させ、より効率的に血を収集するためにも用いられる。
俺の右足は吹き飛んだ。その断面は新鮮で、出血は留まることを知らない。ならばこの血を操作して、ドラゴンの血肉を削いでやろう。
まだ首元の傷はそのままだ。ドラゴンの首元からは血が流れている。そこに俺の血を触れさせて、龍の血を奪えるだけ奪う。さらなる肉体強化ができれば、片足でも首の皮一枚で保つくらいはできるかもしれない。
血の操作は初めてやる。これは高レベルにならなければ難しいという印象だが、今やらなければ後がないので、できると確信することにした。
足に意識を集中させる。正確には流れ出る血液に。動け! 動け! 槍となれ!
しかし血は俺には従わない。傷口を中心に薄く大きく、広がっていくのみだ。ちらりと視線をやってみたが、うんともすんとも言わない。その水たまりは唇の色に輝いて、まるで俺を嘲笑うかのように月明かりを照り返す。
正面でドラゴンが口を開けた。喉の奥からは暖かな息が漏れ出る。
炎を吐くつもりか? いいや違う。
ドラゴンは一度ガチンと顎を合わせると、再び開いて歩を前に進めた。下顎を地面に引きずりながら俺へと迫る。土ごと俺を掬い上げ、噛み殺すつもりのようだ。
逃げなければ。しかし逃げられない。ならばいっそ飛び込むか? 牙に触れないよう口に入り、その後に吐き出させる方法を考える。
危険だが、他に方法がないならやるしかない。一歩間違えれば死に至るが、まあそれは今までも同じだった。そう考えると状況が悪くなったとは言えないのかもしれない。
決して噛まれないように。噛まれた部分が千切れるから。決して飲み込まれないように。飲み込まれたら喉を通るときに全身をバキバキに砕かれるはずだ。
口に入ったらまず、なんとかして傷を付ける。爪は割れてしまったから、牙で噛み付くしかなさそうだ。
そこから血を吸収し、能力を向上させてから更に傷を広げる。大きな傷を作れれば、ドラゴンも吐き出したくなるだろう。
問題は……俺の牙が通るのだろうか。鱗がない口内だとしても難しく思えてならない。
力尽くでドラゴンの顎を持ち上げるのは不可能だ。ドラゴンが飲み込もうとしたら、その力に逆らえるとは思えない。
ああ、流石にこれ以上は厳しいかもしれないな。ドラゴンの舌が棺桶のように見え始める。絶望的だ。でも、それでも、何もやらないよりはいい。
俺は口に飛び込もうと身構える。巻き上がる土の一粒一粒がわかるほどに集中し、その瞬間を待つ。コンマ1秒の誤差も許されない。いいや流石にもうちょっと余裕があるか。
ドラゴンの顎が迫り、もうすぐ飛び込む瞬間が来るかというときだった。
「ずっと見ていたけど、無茶をするねぇ。どうして勝てない相手にそう立ち向かえるんだ?」
誰だ? こいつ。俺の斜め前に男が立っていた。
艶がある黒髪が揺れる。鋭い目はドラゴンを突き刺すが、どこか和やかである。足元が土の整備されていない場所にも関わらず、臙脂色のコートには汚れが一切ない。
この場に不釣り合いな男だった。高身長に透かした態度が鼻につく。
ドラゴンは関係ないと向かい来る。それに対し男は、人差し指と中指を使って、空中に印を描いた。
「止まれ」
そう言うと、ドラゴンがぴたりとその場で停止する。まるで時間が止まったかのように。
しかしドラゴンもただやられる一方ではない。少しずつ動きを取り戻そうとする。
「さすがに重いな」
すると更に、男は印を描く。ドラゴンは更に強い力で拘束され、今度は身動きひとつできなくなった。
「誰だ? あんた」
「私かい?」
他には誰も居ないだろう? 霊とかイマジナリーフレンドがいるなら俺は知らん。
男は数秒の沈黙の後に頷く。
「そうだね。うん、私はどこにでもいるような普通の紋章術士だよ」
そう言う男が醸すオーラは、明らかに強者だった。
こいつが普通? ありえない。こんなのがどこにでもいるなら、
男にドラゴンと対している雰囲気はなかった。まるで休日の午後を楽しむように、自然で朗らかな表情だ。
ドラゴンを前にして溢れ出す余裕。こんなやつが普通なはずない。
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