第10話 強くなりたい

 目の前のスライムは全長で1メートルほど。襲ってこなければ可愛いのだが、攻撃性は群を抜いている。


「ははは……冗談だろ?」


 地面に広がる粘性の体が、徐々に近づいてくる。

 俺は吸血鬼の身でありながら寒気を感じた。情けないが恐怖でおののく。


 逃げなければ。この世界がトリプレッツガーデンと酷似しているなら、スライムはやばい。最低でもレベル180を超えたはずだ。レベル1の俺では、捕まったら終わる。


 どうして俺はこんなのばかりと出会うのだ。ひび割れた水宝石クィヴェリアと戦い、アルハヴァジスに襲われて、次はスライムか。出会う敵は勝ち目がない相手ばかりだ。


「俺ってこの世界に嫌われてるのかな?」


 なんて言っている暇があるなら逃げよう。スライムの移動速度は特に遅い。早めに動けば逃げられる。

 全力疾走をするためにスライムに背を向けた瞬間だった。俺の左腕に何かがくっつく。


「えっ?」


 手首あたりにスライムが巻き付いていた。俺の逃走を察知してか、体の一部を伸ばして左腕を捕らえにきていた。


 スライムは俺の左腕を引っ張った。当然抵抗する。しかし無意味だった。地力の差が大きすぎて相手にもなっていない。

 食われる。そう確信した俺は、自分の左腕に噛み付いていた。肘より下を捨てるためだ。思考も感情もなく、そうするべきだと即座に判断して実行する。まるで機械のように。


 牙を突き立て、皮と肉を切断する。左腕に噛みつきながら、右手の指を揃え、鋭い爪を突き刺した。強引にねじ込むようにして骨を削っていく。


 そうしている間にも、スライムは左腕を伝いながら上ってくる。粘液が巻き付いた部分は既に消化が始まっており、左手は皮が溶かされ真っ赤な肉が見えていた。


 吸血鬼になってから痛みはほとんど感じない。溶けている手も、牙が食い込んだ傷口も、ヒリヒリするくらいで明確な痛みはなかった。


 最後までつながっていた皮は、無理やりに引き千切る。支えを失った左腕は、絡みついたスライムと共に地面へ落ちた。


 俺はすぐさま足を動かす。次捕まったら逃げられるかわからない。脇目も振らず一目散に駆けた。転けなければいいと体勢を考えず、前へ前へとひたすらに。


 方角も距離も考えずに走り続ける。低木を蹴飛ばし、雑草を踏みつけ、足跡を残してでも急いだ。

 吸血鬼にも体力の限界はある。走れば走るほど足が重くなっていく。

 息は整っているし、汗もかいていないのに、疲労だけはしっかりと感じられる。不思議なものだ。

 吸血鬼はアンデッドの類だ。生き物らしい生命活動はほとんど必要ない。呼吸もないし心臓も動いていない。この体を動かしているのは、吸血鬼としての血、それだけだ。

 ならば疲れるなと言いたいところだが、そうもいかないようである。

 ついにこれ以上は走れないというところで、後ろを振り向いた。


 スライムは追ってこなかった。後方には俺の足跡が続いているだけだ。腕一本で満足してくれたのか、俺が不味かったのか、理由は定かでない。





 気がつけば空が白んでいる。いつまでも続くと思われた夜が、走り続けただけで終わりを迎えていた。

 もうすぐ日が登る。新しい日の始まりだ。人々は爽やかな日差しで目を覚まし、今日が良き日であれと願うのだ。

 吸血鬼にとっては真逆の意味をもつ。今の俺に太陽は猛毒だ。急いでどこかへ避難しなければ、体が焼き尽くされてしまうだろう。


 目の前には小高い丘があり、ふもとには丁度いい洞窟が口を開けている。隠れるには広さも高さも十分だ。

 足は疲れであまり動かない。それでも無理させて、洞窟へと急いだ。


 幸い太陽は、俺が隠れるまで待ってくれた。

 洞窟の壁に右手をつき、崩れ落ちるように倒れる。


「もう疲れた。死ぬかと思った」


 独り言が洞窟に反響する。口は広いが奥は狭いようで、反響はいいところで終わった。


 洞窟の外へ横目をやると、明るく照らされた草木が見れる。夜の間は真っ黒にしか見えなかった葉っぱが、今では朝露を溜めながら綺麗な緑色に輝いていた。


 本来はこの明るい世界を散策する予定だった。それが今では吸血鬼。日の下には出られない。散歩もピクニックも二度とできないのだ。いやまあ、インドア気質だから積極的に外に出たいとは思わないけど。それでも失ったと考えると、淋しさがこみ上げる。


 ひとつ試しにと、指一本を太陽にさらしてみることにした。吸血鬼になったのは俺の勘違いかもしれない。期待はせずに、右手の人差し指を伸ばす。


 日向と日陰の境目を指先が抜ける。その瞬間だった。俺の指先に赤い火が灯る。指先に激痛が走り、耐えられなくなり手を引いた。


 ろうそくのように着いた火は、陰に戻すとすぐ消えた。もし消えなかったらと思うと恐ろしい。

 指先が黒ずみ、灰となって落ちる。まだじんと響く痛みは、スライムに左腕を溶かされたときより辛い。


 風で飛ばされつつある灰を見ながらため息をした。やっぱり俺は吸血鬼のようだ。ロマンはあるけど考えものだ。吸血鬼という種は強いは強いんだが、日中出られない縛りで何をやるにも時間がかかる。

 トリプレッツガーデンでは吸血鬼で遊ぶなら、日中に出歩けるサブキャラを用意するのが基本だった。ところが俺は身一つ。サブキャラなんて用意できるはずがない。


 太陽の下でしか咲かない花がある。昼間しか活動しない動物もいる。それらの採取は困難を極めるだろう。


 まあ心配するにはまだ早い。今するべきは安定した基盤を手に入れること。たった一晩で最強の吸血鬼に襲われ、スライムと出会うなんて不幸を、今後も続けるつもりはない。


 自分の首筋を撫でる。昨晩アルハヴァジスに噛まれた箇所だ。傷は完全に塞がっている。さすっても肌は滑らかで跡はない。吸血鬼ゆえの回復能力には驚かされる。


 アルハヴァジスの顔を思い出す。死を思ったときの恐怖は忘れられない。今でも体が震えるほどだ。


 俺は寝そべって右手を正面に出した。拳を作り、手を開く。空気を掴むようにもう一度拳を作ると、腕から力を抜いた。


「強くなりたいな」


 無力感で怯えるのはもう懲り懲りだ。強くなろう。そう心に決めた。



 今どこにいるのかを推測してみる。

 海岸沿いにあって、とても広く、スライムが生息している森。記憶にあるトリプレッツガーデンの地図と照らし合わせると、一箇所だけ思い当たった。

 名もなき緑地帯。生息している魔物は平均してレベル120付近。採れる資源やドロップアイテムには価値がなく、ほとんどのプレイヤーが無視していた森だ。用があるとしても地図作成くらいである。


 本当にここが思っている森だとしたら、近くに村がひとつあるはずだ。夜になったら確認しに行こう。

 村を見つけられたら居場所が確定する。そのときは急いで森を抜けなければな。ここにレベル1の俺が勝てる相手は居ない。

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