第9話 じゅるりぐちゃりと音がする

 体調はまさに絶好調だった。腹もしっかり満たされている。ついさっきまで生死の狭間を彷徨っていたなんて、自分でも信じられないほどだ。ただ少しだけ喉が渇く。


 森の中へ入ってみよう。体力は十分あるし眠気もない。暗がりなんてあって無いようなものだ。この目は闇を見通せる。


 すぐに立ち上がると、膝を曲げ伸ばし、軽く足の運動をした。


 自由気ままに散策をする。特に面白い地形や植物はなく、平坦な土地に木が乱立しているだけの場所だとわかった。


 風が木々の隙間から流れてくる。俺は鼻から空気を入れた。鼻孔を甘い匂いが刺激する。血の匂いだ。

 実に魅力がある香りだった。蠱惑的で頭が真っ白になりかねない。


 この先に血液をもつ生き物がいるようだ。出血をしているのではないかと考えを巡らす。人間かどうかはわからない。


 俺の喉の乾きはそこそこで、拐かされても理性は保てる。まだ口元に残っていたアルハヴァジスの血を舐めた。


 今までの自分では考えられない、鋭敏すぎる感覚に慣れていく。

 どうやら俺は本当に人間ではなくなったようだ。闇夜を見通せる目に、遠くの血を嗅ぎ分ける鼻を持っている。もしかすると聴覚や味覚にも変化が生じているかもしれない。


 鋭い牙に舌で触れる。それはまるで刃物のようで、舌が少し傷ついた。口内に広がった自分の血は、あまり美味しいとは言えなかった。


「吸血鬼か。喜べばいいのか嘆けばいいのか、今の俺には判断がつかないや」


 しばらくは人里には近づけない。吸血鬼だと露見すれば殺される。

 人と吸血鬼の顔は違う。特徴的な点は目と牙。肌の色も死者のように土色にくすんでいる。目と牙はともかく、肌は隠しようがない。血の魔法を操れば隠せるが難しいのだ。今の俺には不可能。


 だからって野生の吸血鬼として生きていくのも難しい。晴れの日は引き篭もらなければいけない上に、水が弱点なので海や川は渡れない。活動範囲が限られすぎる。

 それに野で暮らしていようと血は必要だ。血に関しては動物や魔物でも代用できるが、人間のものと比べるとどうしてもランクが落ちる。

 トリプレッツガーデンの吸血鬼は、自分の元種族の血を好む設定だった。俺の場合は人の血が最上級となるはずだ。


 だからと無理に人間の血を欲しがるのは危険だ。魔物がいる人里離れた土地に来る人間なんて、ほとんどが戦闘慣れした兵士が冒険者だろう。返り討ちが関の山だ。


 血に関しては仕方がないと納得するしかない。まあ俺としても人間の血は、感情的にあまり飲みたいとは思わないので良いとしよう。


 俺は吸血鬼になったが、レベルは1のままだということも忘れてはいけない。吸血鬼は人間よりも基本スペックは高いが、圧倒的なレベル差を覆せるほど優秀というわけでもないのだ。

 おそらくレベルが10程度の戦士と出会った時点で、俺の命は危険にさらされる。それどころか量産型の不良ですら相手にならないかもしれない。


 完全に人間の社会に溶け込んでいる吸血鬼もいることだろう。ある程度のレベルがあれば、いくらでもやりようがある。

 しかし俺はレベル1。血の魔法を知らない新参の吸血鬼だ。


「しばらくは人を避けて、弱い動物を相手にするしかないか」


 俺はレベル1という、世界最弱の生き物である。弱い動物が相手でも苦労は免れない。まあ適当に頑張るとしよう。


 さっきの血の匂いは今でも風に運ばれやってくる。

 嗅いでみるとより強い匂いを感じられた。察するに出血量が増えている。


 匂いを追って、少し様子を見ようかな。そう思った。

 そもそも誰が怪我をしているのかわからないが、出血しているということは、怪我をしている。襲うなら絶好の機会だ。


 喉が乾きを訴える。今は我慢できるが、いつまでこの状態が保つかはわからない。血を飲めるなら飲んでいきたいのだ。乾きが極限まで達し理性を保てなくなったとき、格上の存在に囲まれていたら俺は終わる。


 怪我をしている何者かに、近づけるだけ近づいて様子見をしよう。怪我込でも勝てない相手なら引き返す。勝てそうな相手だったら戦おう。




 木々の隙間を縫って行く。自分でも驚くほどに軽快な足取りで進んだ。

 どうやら血の発生源は動いているようである。敵と戦い勝利をしたが、手傷を負ってしまったのかもしれない。もしくは命からがら逃げている。


 急ぐとしよう。この血の匂いを嗅いでいるのは俺だけじゃないはずだ。きっと他の動物や魔物も動いている。なるべく速く動きたいのだが……俺は足を止めた。


 何かがおかしい。匂いに近づけば近づくほど、森が静かになっていくような気がする。狩りモードに入った動物が気配を消しているだけならいい。俺にはそうは思えなかった。

 血を追わないだろう鳥や虫の声が遠くからしか聞こえない。まるでこの周囲から生き物が死滅したかのようだ。

 匂いまではもうすぐだ。走れば何十秒も掛からない。もう少し進めば、誰がどんな怪我をしているのかわかるはずだ。


 しかし足が動かない。進みたいが足が動かない。

 この感覚は知っている。アルハヴァジスと対面したときにも感じた。心臓に直接触れられるような恐怖だ。


 夜を見通せる目でようやく捉えられる程度の色の変化があった。鬱蒼と茂る草の隙間が、濡れたように輝く。


 俺はまさかと思い、顔をひきつらせる。輝いた方向を正面に後退りをした。喉の乾きは完全に忘れていた。

 じゅるりという音とともに、木々の隙間から姿を表す。ぬらりとした体表。中央に核を持ち、その周囲からぶくぶくと気泡が湧き立つ。

 現れたのは汚れて灰色になったスライムだった。取り込まれた枝葉が消化されて溶けていく。その他にも動物の骨が溶かされている最中だった。

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