第6話 海に沈む

 船が水面から打ち上げられた。一瞬だけ空中に浮き上がり、すぐに着水する。ひび割れた水宝石クィヴェリアが海底から突き上げたのだ。それにより船の後部は廃材へと変わって周囲に飛び散った。


 舵だったものが海に漂う。船倉に穴が開くどころか、船の半分がなくなった。もはや泥船よりも浮かばない。ほんの数秒の間に、船がガラクタへと変えられた。これでは数分も浮かんでいられないだろう。


 結局この船はひび割れた水宝石クィヴェリアに沈められるのか。トリプレッツガーデンのプロローグと何も変わりやしない。

 このままだと全員が海に投げ出される。それで終わるならまだいいが、終わるわけがない。この後、海に浮いた俺たちはひび割れた水宝石クィヴェリアに殺し尽くされる。


 せっかくここまで頑張ったのに。船員にも協力してもらったのに。

 どうしてこんなときに限って、ひび割れた水宝石クィヴェリアが追いついてくるんだ! ゲームだったら逃げ切れていたはずなのに。


 怒りや恐怖、いろいろな気持ちでいっぱいになり叫んだ。無力感が喉奥から漏れ出た。

 叫んだ結果、何も変わらない。誰も聞いていない。みんな自分のことで精一杯だ。


 もはや打てる手はない。俺は諦めて、暴力の塊であるひび割れた水宝石クィヴェリアを見上げた。まっすぐ空に向かって背を伸ばしている。いったいどんな顔で殺しを楽しんでいるのか見てやりたかったのだ。


 俺が見つけたのは人だった。ひび割れた水宝石クィヴェリアの鼻先に人がいる。

 その人は立ち上がり剣を抜く。スーデスだった。

 スーデスは頭から血を流し、片腕をぶらりと垂れ下げながら、片手で剣を握り締めている。満身創痍といった風貌。それでも戦おうと剣を握る手に力を入れる。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアとスーデスでは、実力に差がありすぎる。鋭い刃を用いても、スーデスの実力では傷一つ付けられないだろう。

 そんなことスーデスも理解している。理解していても、やらずには居られないのだろう。スーデスの刃がひび割れた水宝石クィヴェリアに触れた。


 そのときありえないことが起こる。ひび割れた水宝石クィヴェリアが痛みに身を捩ったのだ。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアの苦悶の声をあげる。ただひたすら大きいだけの声が波紋を作った。俺は声に押されて後ずさる。


 両耳を押さえながらも見上げた。ひび割れた水宝石クィヴェリアの頭、そこからスーデスが振り落とされる。


「船長ぉ!」


 船員が叫んだ。スーデスは落下する。俺は見ているだけだ。

 程なくしてスーデスが水面に叩きつけられる。船員のひとりが、救うために海に飛び込んだ。スーデスも船員も、波に飲まれてすぐ見えなくなる。助けるために後を追う者はいなかった。今の俺では誰一人助けることができない。見ているだけで精一杯だ。


 頭の中に嫌な言葉が浮かんでくる。スーデスを見捨ててしまった。振り払おうと首を左右にやってもこの言葉は消えやしない。


 誰も俺を責めやしないだろう。俺はレベル1。ただの子どもだ。ひび割れた水宝石クィヴェリアと相対するなんてありえない。海に潜り生き残る手段ももっていないのだ。だから……仕方がない。

 それにここは夢だ。夢の世界だから死者が出ても問題はない。朝起きれば全てがなかったことになっている。そしてすぐにこの夢を忘れる。


 スーデスの命は絶望的だ。ひび割れた水宝石クィヴェリアに突き上げられたところにいて、生きているだけでも奇跡だった。その上に高所から海に落とされ、波に飲まれ海中へさらわれている。今更助けに向かったところでもう手遅れだ。


 では残っている船員と奴隷たちはどうなる? 彼らは俺の言葉を信じてくれた。その結果がこれ――。


 嫌だ。こんな悪夢は願い下げだ。たとえ夢だとしても、どうせなら心地いい夢がいい。

 ここは夢。そう夢なのだ。誰が死のうが問題はない。スーデスが死んでも、船員たちが死んでも、俺が死んでもだ。


 俺は震えていた。やろうとしていることに対して「正気か?」と自問する。


 自殺行為だ。まずうまくいかない。

 それでもいいじゃないか。失敗しても悔しさたっぷりな朝が来るだけだ。それとも何もせず悶々とした朝を迎えるか? もしうまくいけば最高だ。雨天だったとしても、心は爽やかに晴れ渡ることだろう。


 俺はひび割れた水宝石クィヴェリアの頭部を見ていた。正確にはスーデスが突き刺したままの剣だ。

 剣は皮を貫通している。ちょっとした力では抜けそうにない。

 あれを利用しよう。もしかすれば、もしかするかもしれない。


 俺はロープを見つけ、片側を腰に巻き付ける。


「持ってて!」


 ロープの片側を船員に投げつけてから、答えを待たずに走った。

 沈む船の甲板はとても狭い。大した助走にはならなかった。


「おまえまさか、待て!」


 船員の制止を無視し、俺は跳ぶ。下には大海原、正面にはひび割れた水宝石クィヴェリアがいる。ありえない巨体は近づけば近づくほど大きく感じられた。


 俺はプールでは泳げない。しかし海でなら沈まない程度に泳げる。きっと不格好な泳ぎなのだろう。自分の泳ぎを撮った映像を見て、自分で笑ったことがある。

 波が顔に当たる。なんとか海面に顔を出し息を整えた。

 浮かぶだけで精一杯だが急がないと。ひび割れた水宝石クィヴェリアはずっと浮上しているわけじゃない。


 目的のものは簡単に手にできた。それは髭だ。電気が溜められたひび割れた水宝石クィヴェリアの髭。水に浮いていた数本を纏めて掴む。

 その瞬間に手がヒリヒリと痛んだ。どうやら常に弱い電気を流し続けているようだ。これで獲物を察知しているのかもしれない。


 夢のくせに手が痺れて痛みがある。非常に気に入らない。それでも髭は放してなるものか。

 背中へと上るために、水中にある尻尾の方へ、水を掻いて進んだ。


 急げ。急げ。潜られる前に。水中に逃げられたら、もう手が出せなくなる。

 髭を持つ手が痺れで熱くなる。熱い以外の感覚が薄くなり、もう痛みすらわからない。


 水に濡れて体が冷える。震えが出始め、呼吸が荒くなる。泳ぎは不正確でなかなか前に進めない。そんな俺が相対するは、常人では決して届かない巨体である。

 不思議と笑みが溢れてきた。自らを嘲笑うかのように。


 ようやくひび割れた水宝石クィヴェリアの背中に上る。なんとか海に潜られる前に到達できた。

 もはや髭を握るて手は、かじかんだ手のように動かず、感覚も薄い。波の中を泳ぐだけで体力も使い果たしてしまった。疲れで足も殆ど動かない。しかし本番はここからなのだ。


 口に入った海水を吐き出して。気合だけで前に進む。

 ひび割れた水宝石クィヴェリアの背中はぶよぶよで滑りやすかった。かなりの巨体だ。背中から頭までも距離がある。10メートルか。20メートルか。いいや、もっと長いかな。水面から出ている背中だけでこんなに長いのに、尾っぽが海中にあるというのだから嫌になる。

 これだけ背中が広ければ、滑って転んでも海には落ちない。その点は助かっている。


 何度も転びながら、確実に前へと進んだ。そしてスーデスが突き刺した剣の元へたどり着く。


「遠すぎだろ」


 実際の移動距離は50メートルにも満たないけど。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアが水中へと潜り始めた。だがもう遅い。俺はもう剣に触れられるところにいる。

 俺は掴んでいた髭を引っ張って、無理やり剣に巻きつける。髭を握っていた手はまともに指が動かなかった。結ぶときはもう片方の手を使う。痺れは両手に広がったが、迷う暇もなく結び目を作る。

 手は両方とも痙攣している。しばらく使いものになりそうにない。それでも最高の気分だ。髭を剣にしっかりと結びつけるという目的は達した。


 沈みゆく船に向かって声を上げる。


「引いてくれ!」


 俺は自分の腰に巻かれたロープを示した。船員たちは「わかった」とロープをピンと張る。


 船員は協力してロープを引いてくれた。その勢いは俺の予想を上回る。ロープが腹に食い込んで、息が止まったほどだ。まるで弾き出されたかのようにひび割れた水宝石クィヴェリアの背中から足が浮いた。


 最後に剣の柄に、踵を落とした。剣の先は皮を貫き皮膚まで到達しているようだ。ほんの僅かだが滲んでいる血がその証だ。

 その剣に力を加えれば、痛みは無理だとしても不快感くらい感じてくれるだろう。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアは身動ぎする。しっかりと不快に思ってくれたようだ。そして髭が絡まっているものが不快の原因だと気づく。空気が少しピリピリとした。


 やっぱりこの夢は最高だ。楽しくて楽しくて笑いが抑えられそうにない。

 俺はひび割れた水宝石クィヴェリアに、まだ感覚が戻らない、痙攣する手を伸ばす。


「バイバイ」


 雷が落ちたかのようだった。ひび割れた水宝石クィヴェリアが放電し、全ての髭から電気が流れ出す。不快の原因を痺れさせるためだ。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアの電気耐性については詳しくない。皮で防いでいるのだろうか。それとも全身が電気を通しにくいのだろうか。

 もし電気を防げるのが皮だけで、内側の肉によく通るなら。


「悲惨だな」


スーデスが刺した剣は、ひび割れた水宝石クィヴェリアの皮を貫通して、僅かにだが皮膚まで到達していた。その剣には髭が巻き付いていて、刃を伝って皮膚に直接電気が走る。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアは大きく跳ねた。尻尾までピンと伸ばして、全身を強張らせながら震える。

 俺はその光景を、空中から眺めた。


 船員たちのロープを引く力は尋常ではなかった。さすがは金属製の武器を放り投げられる男たちだ。そんなやつらが集まって綱引きをした結果、俺の体は海に落ちることなく、直接船まで引き寄せられる。


 甲板には下から上がってきた奴隷たちもいた。幾度となく船が揺れたが、今のところはみんな無事だ。みんなひび割れた水宝石クィヴェリアを見つめて呆けている。


 俺もひび割れた水宝石クィヴェリアに目をやった。その魔物は、今では沈黙している。まだ僅かに痙攣をするが、それ以外の動きがない。どうやら自らの電気は相当効いたようだ。しばらくはこのままだろう。やったかいがあるというものだ。


 ひび割れた水宝石クィヴェリアから生える剣は、一本の煙が立ち上らせていた。刀身の色はくすみ、柄は完全に黒く焦げている。


 俺はロープの結び目を外してから、船員たちに向き直る。


「やってきた」

「ああ、見てたぜ。おまえが馬鹿ってことがよくわかったよ。賢いやつだったらこうはならん。奴隷にしておくにはもったいない男だよ」

「全くだ。船長は……一矢報いてくれてありがとうな。おまえは恩人だ。おまえじゃ失礼か?」


 俺は首を横に振る。


「おまえで構わないよ。クソガキなのは間違いないし」


 疲れた体でぴょんぴょん跳ねてみると、船員たちはワイワイ騒ぐ。沈む船の上でよく笑えるものだと関心した。


「でも恩人は言い過ぎだからやめてくれ。俺の指示の結果、船がこんなになっちまった」


 もう8割ほど沈んでいる。もはやこの船が役割を果たす可能性はゼロになった。その上、周囲には陸地が見えない。この先どうなるかは誰でもわかるだろう。全員が魚の餌となって消える。


「それでも恩人だよ。魂のな」


 船員が自分の胸をとんとんと叩く。俺は笑って返すしかできなかった。意味がわからないなんて、口に出して言えない。


 視界の端に波が見えた。ひび割れた水宝石クィヴェリアが起こした波と比べるととても小さい。しかし沈みかけの船なら殺せる高さがあった。


 波は全てを飲み込んでいく。積荷、船、人。そこにあるものを無差別に取り込み、そして四方八方に飛び散らせた。


 みんな元気でな。そう心の中でつぶやいたときには、伝えたい相手がどこにいるのかもわからない状態だった。

 俺は船だった木片を抱きしめながら流される。もはや上下もわからない。海の闇へと落ちていく。意識はあっという間に水底へ溶けて沈んだ。




 ハッと目を覚ますと、俺は夕焼けの中にいた。

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